34.丁次の源泉
「やっばい……。久々にえらくリアルなやつ、見ちゃった」と、ひなたは片手で額を抱えながら独りごちた。長い前髪が顔にかかり、形よい唇だけが動いた。
確信があった。子供のころから、この手の生々しい明晰夢を体験してきたのだ。
これは潜在意識を恣にこねくりまわした、ただの心象現象ではない。
剣闘士姿の治彦に襲われようとした前半のそれは、ひそかな願望だったかもしれない。あれはあれで恥ずかしくもあり、いまとなってはまんざら悪くもなかったが。
問題はそのあとだ。
治彦に押し倒された時点で、ひなたは彼に同化してしまったようだ。
それは治彦の意識に同調したことを意味する。治彦の視点から、近いうちに起こるであろう彼の未来を覗き見たのだ。
したがって予知夢といっていいだろう。二番目に見たのがそれだった。このようなふしぎな体験は、保育園児のころからたびたびあった。
とすれば、彼の身によからぬことが起きるのかもしれない。
少なくともあの異様に暗い藪のなかでふり向いた祖父の顔はただごとではなかった。
あの直後、治彦がどうなるのかわからない。
山へ行ったっきり、帰ってこられるだろうか?
まさか、松茸を採りに行って、命を取られるとは夢にも思うまい。
レースのカーテンから透ける朝の光はまばゆいほどだ。
ひなたは壁時計を見た。
なんてことだ――。いくら学校が休みだからって、とっくに八時半をすぎているじゃあないか!
枕もとのスマートフォンをひったくった。LINEのアプリをタッチし、治彦にメッセージを入れようとした。
そこでハタと思い当たり、指をとめた。
『今日の松茸狩りは行っちゃダメ』と送るべきか?
当然、理由を聞くために返信が来るだろう。前日の彼の口ぶりから察するに、それほど乗り気ではないようだったが、祖父である丁次の方こそ、孫に伝授したくてウズウズしているらしい。
仮にこのメッセージを真に受けたとしても、丁次は下山することを承知するとは思えない。
となると、くだくだしいやりとりがテニスのラリーのようにくり返されるにちがいない。まずは松茸狩りを中止させる理由を問いただそうとするだろう。
ええい、面倒すぎる! だったら直接電話した方が早い。
治彦の電話番号を検索した。通話のアイコンをタッチした。
スマホを頬と肩に挟み込んだまま立ちあがり、器用にパジャマの下を脱いだ。下着がいささか小さすぎる。椅子の背に垂らしていたジーンズをつかみ、片脚を通した。
じきにスマホがつながったが、
「おかけになった番号は現在電源が入っていないか、電波が届かない場所にあります――」とのアナウンスが白々と流れただけだった。
治彦は早朝に家を発ち、六人行者岳に登ると言っていた。
早くも電波が圏外となるところまで分け入ってしまった可能性が考えられた。時すでに遅しとは……。ひなたは小さく舌打ちした。
この際、通話はあきらめるとして、せめてLINEに緊急メッセージを入れておこう。なにはともあれ、結局はLINEさまさまだ。山のどこかで電波の届く場所があることを期待するしかない。治彦がその警告を眼にしてくれればいいが……。
『松茸とりに行くの危険。悪い夢を見た。お願いだから引き返して!』と打ち込んだ。これに気づいてくれて、連絡が来ることを祈ろう。
寝坊した我が身を呪いながら、ひなたは上のパジャマも脱ぎ捨てた。
五月の海岸みたいなまぶしい肌。すばやくインナーに頭をくぐらせ、Vネックのカーディガンを羽織った。メガネをかけ、乱れた髪を手櫛で整えると、部屋を出て、階下におりていった。
このまま自宅で座っていても仕方がない。とにかく治彦の家を訪ねよう。
治彦の視点で見た例の夢が気がかりだった。鬱蒼たる藪のなかでふり返った丁次のあの顔。
常軌を逸した存在に変わり果てていた。あまりにも醜く、正気を保っているとは思えない。あれこそ人外の面構えではないか。
どうしてあんなことになったか、胸騒ぎがさざ波のように押し寄せる。
ひなたには物体に触れると、過去の履歴を読み取ることのできるサイコメトリー能力をも具えていた。
物体には人の残留思念や、歴史の澱が地層のように積み重なっている。それに触れることによって、一瞬にして秘めたる過去を探り当てることができるのだ。
生まれついての才能だったが、その実、恩恵はあまりにも少なく、デメリットの方が多い。
意図せずして遺物に触ってしまい、見たくもない血塗られた過去を覗いてしまったこともある。そんなときは気が滅入り、しばらく思考停止の状態におちいることもあり、ありがたい能力とは言い難いのだ。
いまこそ力を使うときが来た。
なぜ丁次があんな人相になったのか、源泉を探るべきだ。そこに予知夢の意味を解き明かすヒントがあるのではないか。
あのオコゼじみた人相は、魔性のものが憑りついてああなったのではない。
内なる心が表に出たにすぎない。
すなわち、心のなかの鬼が具現化したにちがいないのだ。
あれこそ鬼だった。
貪婪なものに変貌した祖父は、孫を襲うだろう。
大好きな治彦を死なせたくない。――あの場面は、認めたくないが、治彦の生死をわけるかもしれない。
なんとしても彼を救わなくては。自身の持てる力すべてを使ってでも助けようと、頭を働かせていた。
まずは治彦の自宅へ押しかける。
なんとか室内にあげてもらい、丁次の所持品に触れること。そこから彼の過去にリンクできるはずだ。そして丁次の秘められた歴史を暴く。
能動的なサイコメトリーがうまくいく保証はない。やたらと支離滅裂な映像がフラッシュバックするばかりで、解読不能の場合もあるからだ。
ひなたは人差し指をこめかみに当て、
「ダメもとでやるしかないじゃん。やるんだ、ひなた!」と、自身にハッパをかけた。
電車に揺られた。
車窓の外は、稲刈りを終えたばかりの乾いた田んぼが広がり、ときおり閑散とした家々が建ち並んでいるだけで、単調な眺めが続いた。遠くに信州の青い山並が見えた。ひなたは焦りで心ここにあらずの状態だった。
厂原駅におりて、バスをつかまえ、どうにか治彦の家に着いた。
すでに一時間弱を浪費しており、これ以上グズグズしていられないだろう。
敷地は広く、門からいくつもの飛び石を渡らないといけなかった。白い砂利がきれいに敷きつめられ、乱すのも憚られるようだった。
いつも松茸御殿の立派さには圧倒される。威風堂々たる日本家屋の左右には、いかめしい倉と、シャッター付きの大きな倉庫があった。
玄関のチャイムを鳴らすと、治彦の母、佳苗が姿を見せた。人柄のよさそうな顔がはじけた。
ひなたは頭をさげ、元気よくあいさつした。
「せっかくだけど、治彦はおじいちゃんと山へ茸狩りに出かけちゃってるわ。おじいちゃんがどうしても治彦といっしょに連れていくって聞かないもんだから――」
「ハルくんから聞きました。じつは訳あって、ここに飛んできたんです」ひなたは眉根をよせ、切羽詰まった様子で佳苗に近づいた。「私が寝坊さえしなければよかったんですけど――」
佳苗が握りこぶしを固め、胸に当てた。
「まさか、治彦のことで? よくないことでも見えた?」と、声をひそめて言った。佳苗はひなたの特異な才能を知っており、理解を示していたのだ。
「取り越し苦労ならいいんですが――。予知夢を見ました。私の予知夢の的中率はかなり高いと思います。変えられるものなら変えないと、ハルくんの命にかかわるかもしれない!」
佳苗は一瞬、白目をむき、壁に手をついた。脚から力が抜け、ひざをつきそうになったので、ひなたが支えようと身をのり出した。
「たいへん。ひなたちゃんが言うんだったら、ほんとうだわ」と、青ざめた顔で壁によりかかった。「私の身内にもね、ひなたちゃんとよく似た力を持つ人がいるの。下の妹なんだけど、子供のころからおかしなものが見えるタチで。近いうち、亡くなる人を言い当てることができた。『あのおじさん、背中に黒い影がしがみついてる。明後日には連れてかれるよ』とか言ってね。じっさいそうなったから怖いくらいだった」
「よかった、おばさんが包容力のある人で。……大丈夫ですか?」
「大丈夫。ちょっとめまいがしただけ。電話しても圏外でしょ。どうしたら二人を呼び戻すことができるかしら。いまさら捜しに行こうにも、秘密の猟場がどこにあるかなんて、おばさんたち知らないから――」
「いいアイデアがないか、なんとか考えてみます」と、ひなたは言った。「そのためには、やりたいことがあります。私、おじいさんのことを知りたいんです。図々しいかもしれませんが、家にあげてもらえないでしょうか?」
「気が利かなくてごめんなさい。私ったら」
「そんなんじゃなくて、ハルくんを助けるには、おじいさんの過去を知る必要があるんです」
「過去」佳苗はひなたの顔を真っ向から見据えた。「義父の過去。そこにヒントがあるわけ?」




