33.ひなたの奇天烈な夢
補足:以下、回想シーンです。5部6部の、その後です。
ひなたの話は昨日の金曜日までさかのぼる――。
美術室で治彦とのおしゃべりのさなか、ひと悶着があり、どうにか騒動はおさまった。
油絵絵具まみれになった顔を洗い落とし、二人は白馬高等学校をあとにした。すでに陽は暮れていた。
明日、治彦は祖父とともに六人行者岳に登り、先祖代々から引き継いできた秘密の猟場を教えてもらうそうだ。そこでは松茸が異様に採れるとのこと。たどり着く方法は祖父しか知らないので、治彦は細大洩らさず見聞きする必要があるのだという。
とにかく、いくら巫師の神がかりで一時的に正気を失っていたとはいえ、絵の具を盛られたパレットを顔面に押し付けられた非について謝らせた。メガネをかけていたおかげで、眼に入らなかったのがせめてもの救いだが……。
お返しとして、明日の収穫のおすそ分けを約束させ、その日は治彦と別れたのだった。
厂原村に住む治彦は電車で登下校していた。治彦は白馬駅の方角へ去っていった。ひなたの自宅は反対方向だったので校門で別れた。治彦は肩をすくめて背中を見せたのが印象的だった。
夜もふけ、いつの間にか泥の中に沈み込んでいくような眠りについていた。
これが夢だと自覚があった。なのに抗えない。夢だとわかりつつも、醒めることができなかった。
そこは薄闇の小部屋らしい。やたらと大きなベッドがうずくまっていた。
天窓があり、ほのかな光が洩れていた。オーロラのような襞を作り、儚げに揺れていた。なにやら妖しげな煙が立ち込め、光のなかで渦巻き、ベッドだけが浮き彫りとなっている。
ひなたは自身の身体を見た。
なぜかパステルブルーのスリップ姿。しかもランジェリーだ。いささかエロティックすぎた。きめ細やかな刺繍がついていた。ついぞこんな下着を買ったことはないのだが……。
部屋の外でなにかの気配が沸いた。
ドアノブがまわり、扉が開いた。ひなたの眼のまえには三角形のコーナーがあり、その左の壁が戸口だったのだ。
光あふれる戸口に、誰かのシルエットが立ちふさがった。
男だ。
ひなたは反射的に後ずさった。
男は部屋に入ってきた。後ろ手でドアを閉め、ひなたを認めると除雪車のように猛然と迫ってきた。
天窓のおぼろげな明かりをうけ、男の顔がはっきりした。
まぎれもない――治彦だった。
しかしながら、その恰好は場ちがいにもほどがあった。
背にはマントをまとい、皮の手甲とすね当てをつけ、サンダルを履いている。腰の鞘には剣がおさまっているらしく、飾りのついた柄が見えていた。さながら共和政ローマ時代の剣闘士みたいだ。
問題なのは、ピッチピチの皮の短パンをつけているだけで、上半身は裸も同然だったことだ。サラダ油でも塗りたくったのではあるまいし、やけにテラテラと光沢を放っていた。
細いがひきしまった肉体。四肢は長く、とりわけ下肢は陸上で鍛えただけあって筋肉が隆起している。
治彦は両腕を広げた。
「皆川、会いたかった。飛んできたぞ」と、甘い声でささやいた。
「どうしてハルくん……。いったいなんのマネ?」と、ひなたは引きつった顔で返した。うしろにさがったが、部屋はウサギ小屋みたいに狭すぎた。背中が壁に触れた。退路は断たれたも同然――。
「戦で勝利をおさめたら、おまえを抱くって約束したじゃないか。まさか忘れたなんて言わせないぞ。おれはちゃんと昨日の戦いで活躍した。中ボスも八人蹴散らした。将軍も高く評価してくれてる」ぼんやりした光に包まれた治彦は首をふった。腰の鞘を取ろうと、もどかしげに両手を動かした。「皆川、いつもおまえのことを想ってた。もう我慢できない。いますぐ抱きたい、おまえを」
「……いきなりの展開じゃないですか! なんてますらおぶりな口説き文句!」
「おまえだって望んでただろ。ちがうなんて言わせない」と、治彦は人差し指をさして、さらに近づいた。その顔は上気し、声まで昂奮を隠しきれない。「今日の美術室で話してたときだってそうだ。おれとマッタリ会話していながら、おまえだって抱かれたいと望んでたはずだ」
「望んでなんか――ないったら!」ひなたはランジェリーの股間を押さえ、顔をそむけた。逆らいつつも、まさか身体がリトマス試験紙みたいに反応していたらたいへんだ。
「潜在意識じゃどうだ、皆川。このラブシーンは、おまえの本心が作り出してるんだぞ」
「知らない知らない!」
「おれにはわかるんだ。匂うぞ、皆川。おまえはおれに愛されたいと、つねに妄想してる。おまえのフェロモンがいやでもわかる。おれの嗅覚はじいちゃん仕込みだ。この鼻で明日、松茸を探すんだ。狙った獲物は逃さない」
ひなたは腕をスリップの股のあいだに挟み込み、身をくねらせた。
「わけわかんない。最近、色気が出てきたってパパにも言われるけどさ。しかしなんだよね。私のフェロモンと松茸をいっしょにすな!」
ふだんは優柔不断の治彦に、どこにそんな大胆さがあったのか。
腰の鞘を取り除き、マントまではずした彼は両腕を広げ、前かがみになった。これからタックルを仕掛けてくるつもりだ。
「今夜、おれはおまえを抱く。おれのものにする――」
「ちょい待てったら!」
治彦に襲われ、ひなたはベッドに押し倒された。
ふかふかの布団に倒れ込んだとたん、ひなたの意識が飛んだ。
瞬間的に場面が切り替わった。
いましがたの甘く、きわどいムードはかき消された。あれほど治彦に抵抗していたにもかかわらず、名残り惜しいような気がした。
とにかくそこは異様に暗い屋外のようだった。まわりは鬱蒼たる藪に囲まれていた。いきなり山中に放り出されたらしい。
眼のまえの道なき道を、作業着姿の老人がこちらに背中を向け歩いていた。
鉈のような物騒な刃物をふるって藪を切り開いている。恐るべきスピードで草木の鉄条網を切りつけ、片手で切断した障害物をかきわけ、炭坑作業員もかくやとばかりに掘り進んでいく。その必死な姿は声をかけるのもためらわれた。
いくら後ろ姿でも、ひなたには見憶えがあった。
たしか今年九十になった治彦の祖父、丁次にちがいない。一度だけ音楽CDの貸し借りで自宅を訪ね、玄関先であいさつを交わしたことがあった。この世代にしては長身で、いまだ背筋がしゃんとしている。首筋にはしわが多いとはいえ、鉈をふるう力強さといい、全身のひきしまった筋肉といい、バイタリティあふれる人物だ。
さっきから、くぐもった声で息を切らせている呼吸音が聞こえた。分厚いフィルターを通してラジオ放送を聴いているかのようだ。不平や悪態をつく声を洩らしているのもかぶさる。
まちがいない。声は若い男だ。治彦にちがいない。
おそらく、この光景を見ている治彦自身のものだろう。この視界の主は治彦なのだ。この二番目の夢では、立場が入れ替わっているようだった。
そのうち、ひなたの意思とは関係なしに、治彦の右手があがり、祖父に向けて伸ばした。
まるで水中で声を発するかのような治彦の声がした。
「じいちゃん、歩くの速い。もっとゆっくり行こ。あいつはまだ近づいちゃいない。このへんで休憩させて――」
鉈で雑木を払っていた祖父の手がとまった。
灰色をした作業着の背中が汗をかき、まるい染みの地図を描いている。
直立不動の姿勢でうつむいた。
ひなたは思った。頭の形があまりにも不自然な形をしているのではないか。が、まわりが暗すぎてよく見えない。
丁次の様子が変だ。首をがくがくと左右に揺らしはじめた。
それがゆっくりふり向いた。
「うわあああッ!」と、治彦が悲鳴をあげた。その映像を見るひなたも声なき声を放った。
それは以前会ったことのある丁次ではなかった。いかにもしたたかで、ふてぶてしい面長の顔ではなかった。
どす黒い人相が強烈であった。
とくに両眼。まるで煮えたぎる溶鉱炉の鉄のように赤々と輝き、口は逆三角形に割れ、尖った牙をむき出しにして、残忍かつ陽気な笑みを浮かべていた。
ひなたの第一印象は、海で釣れたオコゼみたいな醜怪な人相だと思った。もはや人間離れしていた。
自身の悲鳴で眼を醒ました。




