31.火薬庫みたいにキナ臭い男
「おまえは――」丁次はアカマツの巨木を見あげたまま、しゃがれた声を出した。「龍男んところの和弘か?」
五メートル離れた斜め頭上で、サングラスの男は唇の端を吊りあげた。セミオートのショットガンを向け、しゃくった。腰には青いクーラーボックスを提げている。
それとは別に、足もとには白い布に覆われた細長いものを枝に垂れさせていた。あれはいったいなんなのか……。
「久しぶりだな、伯父貴。親父の葬儀以来かな」と、和弘と呼ばれた男は錆びた声で笑った。低く渋い声だが、滑舌がしっかりしているため、はっきり耳に届く。丁次が治彦の腕を引き、後ずさりしたときだった。「おおっと、動くんじゃねえぜ、お二人さん。いくら親戚関係でも逆らうなら、ズドン!だ。全身穴だらけにしちまう」
祖父と孫はアイコンタクトもしていないのに、ほぼ同時に両手をあげた。
この男は危険だ。少しでも抵抗すれば、引き金を引くのに躊躇はしまい。
「あの違法ハンターは和兄だったの? じゃあ、猟場へ入るまえ、道ばたの松茸を採ってたり、カモシ……じゃなく、コシマケを撃ったのも?」治彦が丁次のかたわらでささやいた。丁次は斜め上を向いたまま、ゆっくり頷いた。
和弘は抜け目なく治彦の言葉をキャッチし、
「おれもご相伴にあずかろうとしてな。どうせ同じ長田家の持ち山だ。文句はなかろう。銃を持ってるのは、ついでにシカを狩って、舌を集めようとしたんだ。おれは獣の部位のなかで、一等タンが好きなんだ。タンこそ最高部位。焼いてもいいし、シチューに放り込んでもうまい。おれはタンのために獣どもを狩る。あとの肉には興味がない」と言って、腰にぶらさげたクーラーボックスを二度叩いた。なかに獲物が入っているのだろう。
「この山全域は銃猟禁止地域だ。仮にそうじゃなくとも、猟期以外でやりやがって。銃声ですぐバレるというのに……」
「フライングしちまったのさ。ちょっとした勇み足ぃ!」と、和弘はいたずらっぽく笑った。片時も散弾銃の銃口をそらさない。「松茸もそろそろ時期だから、伯父貴とニアミスする恐れがあったが、まさか今日、運命の再会とはな……。なんにせよ、こうしてあんたに会えて光栄だ。親父が抱いていた積年の恨み、忘れたなんて言わせねえ。それに小僧――治彦だったか? こんどはおまえがおいしい思いをする番か。なるほど、宗教の奴は断ったと見えるな。臆病者のあいつらしい」
和弘は襟足の長い髪をしていた。全体的にほとんど白髪だったが、声には張りがあり、それほど年はいっていないはずだ。五十にも届いてはいまい。
濃い色のサングラスをかけていたので眼つきは計り知れない。
とはいえ荒んだようなしゃべり方、けだるい身のこなしといい、全身から立ちのぼる火薬庫みたいなキナ臭さ――つまり、火種さえあればすぐにでも引火しそうな狂気を秘めていた。治彦の眼には、およそ堅気の社会人には映らなかった。
丁次には弟の龍男がいた。
長田家の秘密の猟場は長男にだけしか継承されなかった。昭和三十四(一九五九)年、丁次が本格的に松茸で儲けるようになったものの、龍男は指をくわえて見守るしかなかった。
毎年のように丁次は稼ぎ、そのたびに高笑いをした。そのころから龍男と、猟場をめぐる諍いが起き、兄弟間で大きな溝が生まれた。
やがて骨肉の争いに発展した。
松茸御殿を恨めし気に見ながら、三年まえ、龍男は悶死した。
死に際、枕元に息子の和弘を呼び、
「なんとしてでも、兄が隠し持つ猟場をあばき出せ。六人行者岳のなかにあるのはたしかだ。きっと巧妙に隠されているはずだ。兄より先んじて出し抜け。今度こそ、長田の分家であるおまえが日の目を見てやるんだ……」と言い残し、息を引き取った。
「伯父貴、あんたはやりすぎた」と、和弘は散弾銃を向けたまま眠そうな声で言った。「どれほど親父が恨みを残して死んだか、あんたは知るめえ。親父だって、腐っても長田家の端くれだ。その恩恵に授かりたかったんだよ。おれはガキのころから、あんたん家とはちがい、日陰者として育てられた。そのたびに、いつか伯父貴を地べたに這いつくばせろと吹き込まれたものさ。おれはさんざん調べまわった。中央市場の職員や、あんたが取引を手伝わせているっていう関係者を締めあげ、松茸が大量に採れる場所を聞き出そうとしたが、どいつもこいつも知らんの一点張りだ」
「口が裂けても猟場は教えんさ。常に尾行られんよう気をつけたつもりだが、おまえにはしてやられたな」
「だな。本日はうまい具合に、念願の猟場へご案内された。カッキーン。……ついに逆転ホームランを打つときがきたってわけさ」
丁次は苦々しい顔で和弘をにらんだ。
「どうやってここに潜り込んだ? たしかあの岩壁の扉を開ける時点では、尾行されていなかったはずだが」
「遠巻きに見てただけさ。ガキんころからかくれんぼは得意だったんでな。マタギの秘伝書――あいにくおれも、親父から託されてたんだ。親父は勘づいてた。森んなかの意味ありげな岩場。丸に『長』の文字。そしてあんたが山へ出かけるときゃ、後生だいじに巻物を持っていったからには、そこに猟場へ入り込むヒントがあるんじゃないかとね。そしたら案の定だ。おれんとこの分家だって、曲がりなりにも長田家の人間だ。見よう見まねで呪文を唱えてみたら、まんまと開いちまった」と言って、和弘は懐から古びた巻物を取り出した。それを広げた。
丁次の所有する『山達由来記』とは流派の異なる『山達根本之巻』だったが、いずれにせよ長田家の血筋の者がマタギの巻物を用いれば、異界への門は開かれるようだ。
たしかにマタギを辞めた丁次が、秘伝書を持ち歩くのは不自然といえば不自然であったが……。
「まさか長田の家の者につけられていたとはな」と丁次。「旅マタギであるご先祖さまから継がれているのは、この『山達由来記』のはずだ。なぜ流派のちがうそれを、おまえが?」
「親父の知人が死んで、家系が絶えたとき、遺品を漁っていたら出てきたんだ。こっそりくすねていたらしい。なんにせよ血縁関係も、骨肉の争いになれば、いつか寝首をかかれるってことよ。手段は選ばねえ」
丁次は両手をあげたまま、苦みばしった表情をつくり、
「もう少し弟思いになるべきだったな。いまさら後悔してる」と、言った。
「反省するのが遅せえ。その息子が恨みをうけ継いで、あんたの喉もとに食らいつこうとしてる。これが業ってやつさ」
「因果なもんだ。それで――こんどはおまえがおいしい汁を吸いたいわけか」
「伯父貴、おれにも吸わせてくれよ。いちばんおいしいとこをよ」和弘は頭を傾けて笑った。「人生堅実にって言葉は聞き飽きた。おれはカブトムシになりたいんだ。たっぷり蜜が出るクヌギの木にしがみつき、ずっとそいつを味わっていたい。なんならオンナのおっぱいと言ったっていい。そしてときどき、奴らみたいにピピッとションベンをするだけだ。あっちの木やこっちの木へ飛び移って、必死こいて餌を探す必要もない。そんなかったるいことはごめんだ」
「意見するようで悪いんだけどさ」と、ここで治彦が割って入った。和弘の散弾銃の銃口がねらいを定めている手まえ、勇気がいった。「世間じゃ、バカマツタケ(早松)の人工栽培に成功したって言ってる。それにだよ、広島県の世羅町ってとこじゃ、椎茸菌と松茸菌をかけ合わせて作った『松きのこ』が話題になってるんだよ。天然ものと比べたら一〇分の一の値段らしいけど、これから頻繁に店で見かけるようになったら、天然ものの値打ちもさがってくるんじゃないかな。この猟場がこの先ずっと、富を生むとはかぎらない」
「治彦。よくぞ言った。たしかにそれはおれも心配していたことだ」と、丁次が横目で皮肉っぽく笑った。
和弘が銃口をしゃくった。
「バカマツタケに松きのこ――。たしかにな。安定供給されれば、いままでのように稼げないかもしれねえ。だからなおさらだ。木の上で、あんたたちの話はぜんぶ聞かせてもらった。『入らず山』の不老不死の植物。松茸以上のお宝か。おおいにソソられたぜ」
「どうやっておれたちに気づかれず、木の上に登った?」
和弘は左を指さした。窪地の縁にまでアカマツの枝が張り出していた。
「そこからこっそり登るのはかんたんだった。なんせ、あんたたちは眼の色かえて、松茸狩りに夢中になりすぎてたからな。すべて見学させてもらった。『入らず山』のことも聞いた。なーるほど、親父が疑問に思ってたことも、すべて解けた」
「おまえの気配に気づかんとは、焼きがまわったってことか、おれも」
「秘密の猟場『行者転ばし』――。松茸なんか色あせて見えてきた。猟場での稼ぎは、よく行って二〇〇〇万かそこいらだろう? 毎回毎回、ご祝儀相場が出るとも限らねえや。しかも一シーズン安定せず、悪くすれば三〇〇万にも届かないことだってあり得ると。ましてや小僧が言ったように、本格的に松きのこが出まわれば、ここの資産も値打ちがさがるのは眼に見えてる。いくら天然ものには叶わないと言ってもな。せっかく山奥くんだり来たのに、稼げるものなら、もっと稼ぎてぇ」
治彦が負けじと、
「和兄もじいちゃんといっしょだ。欲深すぎる」と、言った。
「小僧、いっぱしの利いた風な口、きくじゃねえか、え?」レイバンのサングラスが陽光を跳ね返した。「おれとしてはだ。わざわざ山んなかをエッチラオッチラ通いつめて、チマチマ茸を回収する仕事なんざ、かったるくてやってられねえんだ。むしろ、その『入らず山』のブツの方が魅力的に思えてきた。そいつひとつで億を稼げるとなると、松茸なんざ、ハナクソに等しい。男は一攫千金を狙わないとな」
「どうも、長田家は業の深い家柄らしいな」
「おたがいさま。――伯父貴、おれを『入らず山』へ連れてけ。否応は言わせやしねえ」
「断る、と言ったら?」
「あんたたちは断れない。なぜなら――これを見な」
そう言って、和弘は太い枝に垂れさせていたものを片腕で抱えた。
白い袋状の布に包まれた細長い物体だった。巨大な芋虫にも見えた。柔らかいものが包まれているらしく、和弘の腕のなかで、力なく先端を垂れさせている。
どうやら人が包まれているらしい。




