28.隴を得て蜀を望む
長田家に代々伝わる秘密の猟場という名の資産であるが、そのじつ、おれ以前の先祖はそれほど恩恵をうけなかった。あくまで山の幸を、ほかより多く調達できる程度の値打ちしかなかったのだ。だからおれの親父や祖父は、貧乏から抜け出せなかった。
というのも、江戸の松茸料理を紹介する『まつたけの文化誌』(岡村 稔久 山と渓谷社)によると、『合類日用料理抄』『素人包丁』『料理山海郷』などの江戸庶民を対象とした料理本にさえ、松茸を吸い物、焼き物、蒸し物、寿司などで味わうためのポピュラーなレシピが載っていたという。
つまりその昔、松茸は現代ほど高嶺の花でもなかったのだ。
戦後昭和二〇年代だって、松茸はどこの一般家庭の食卓にものぼった。
それぐらいめずらしいものでもなんでもなかった。誰もがアカマツの生えた山へ行けば、比較的かんたんに手に入ったのだ。極端な話、田んぼのあぜ道に生えた松の根もとで見つかったことだってあった。農家が稲刈りの時期、休憩時間に採ることさえできたほどだ。当然、値段も安かった。
それが昭和三〇年代になると、松茸が採れる止め山には縄が張られ、人の山で松茸狩りをするのも禁止された。
くわえて山の手入れ不足とマツクイムシによる被害。アカマツ林は軒並み枯死していった。松茸の乱獲もあったし、無知による『シロ』の破壊も拍車をかけた。
むしろ戦前は、椎茸の方が高級食材としてもてはやされたほどだ。
ところが原木栽培が盛んになると、たちまち庶民の食材へと降格。反対に松茸の生産量が劇的に落ち込み、立場が逆転した。松茸だけは人工栽培ができない。たちまち価格が高騰した。
大きなチャンスがめぐってきた。
いまこそ秘密の猟場が役立つとき。稼げると思った。それが昭和三十四(一九五九)年、おれが三十一歳のころだ。
おかげで、たっぷりおいしい思いをさせてもらった。
都会にある上場企業の社長ほどの年収には及ばないが、長野の田舎じゃ上出来だ。
五年足らずで松茸御殿を築いた。宗教が大きくなり、農家をやりたいと言い出すと、どでかい倉庫まで据え、高性能の農機具の一式をそろえた。田んぼも買い占めた。すべては息子のためにだ。
ほかにも、いろいろと事業に手を出した。失敗も重ねた。
おれは若いころ、製材所の職人として働いていた。
そのかたわら、秋や冬になると有給休暇をもらっては仲間を集め、マタギとしてボルトアクションライフルを手にし、信濃の山野をかけめぐったものだ。
二週間ばかりかためて有休を取るもんだから、前芝社長には毎度、いやな顔をされた。
挙句の果て、時季変更権をかかげ、取りさげられかけたこともあった。仕事の納期が遅れようが、おれの知ったことではない。前芝め、取引先の経理の女とデキていたことを、おれだけが握っていたのが運の尽きだ。脅してでも無理やり連休をとった。
話変わるが――長田家の先祖は、秋田県の北部にある阿仁から、遠くこの信濃まで遠征してきた旅マタギだった。旅マタギとは、かんたんに言や、季節労働者みたいなもんだ。
やがてこの地の女と所帯を持ち、住み着いてしまったわけだ。信濃マタギのほとんどは、そんな旅マタギとして流れてきて定着したケースが多い。
マタギの狩猟活動には大きくわけて二つある。
阿仁の集落周辺で行う里マタギと、青森、岩手、福島、山形、新潟、長野など遠方まで足を運ぶ旅マタギである。阿仁マタギの最たる特徴は、この旅マタギにあったといっても過言ではない。
このマタギたちは、旅先で川魚の干物や、熊の胆などの薬の行商も行った。なかには現地の集落で婿養子になったり、マタギがいないところに根をおろしたりして、その地にマタギの文化を伝えていったものだ。
その反面、集落にとってみれば旅マタギは、勝手に狩猟禁止区域を荒らす密猟者――犯罪者でもあった。いくら秘伝書をかかげようが、体のいい詭弁にすぎなかった。
しかしながら集落側は、害獣を換金資源として利用する技術、および市場を得る救い主として、彼らを受け容れたのである。
当時、おれはマタギの頭領だった。
勢子の若い衆二人と、老練な射手二人。おれたちは五人の結束の固いマタギ衆で、信濃において、熊撃ちにかけては随一と名を馳せていた。
もっとも、若いころはツキノワグマばかり追うのを好んだが、『行者転ばし』での松茸で味を占めてから、興味はそちらへ集中していった……。
どういった経緯で先祖が六人行者岳を所有することになり、秘密の猟場を知ったかは、おれにもわからない。ただ脈々と、家伝が親から子へ、子から孫へとうけ継がれてきた。猟場のメカニズムにさほど疑問を抱かず、資産としていただいた。
秘伝書を使って開門した先にある、次元を越えた秘密の猟場。なぜか『シロ』が枯れず、異様なまでに松茸が採れまくる。
おれには弟がいたが、長男であるおれだけが継承した。その点で、ちっともおいしい思いをしなかった弟、龍男には悪いことをしたと思っている。龍男とは絶縁状態だった。三年前に死んだ。なかば悶死したという。
それはそれとして――もっとゼニを稼ぎたい。
欲望は膨張していく。とどまるところを知らない。
六人行者岳からそう遠くないところに、『入らず山』があった。
『入らず山』――古代より、神域は手つかずの状態を保ってきた。きっと絶好の猟場がゴロゴロあるにちがいない。山の神が寝床としているにふさわしい獲物があるはずだ。信濃マタギのあいだでそんな憶測が飛び交った。
『隴を得て蜀を望む』という言葉がある。
ひとつの望みをかなえると、次の望みが沸きおこり、欲望にはきりがないたとえだ。
忘れもしない。あれはおよそ四十年まえ。おれが五十にさしかかる年だった。
――きっと『入らず山』には松茸以上のお宝が眠っている。生まれついての狩人としての勘以上に確信があった。
思い立ったら、欲望の疼きをこらえることができない。
おれは『入らず山』に潜入した。
山の神はいわゆる『ミダグナシ』だ。
東北の方言で『見たくなし』といい、要は醜女のことだ。そのうえ嫉妬深い。マタギが山へ入るときはオコゼを供してこの女神を慰めた。そして女神は好き者でもある。山中に入り、ズボンからイチモツを出すとたいそう喜ぶと信じられた。
勃起させた松茸……もとい、イチモツを見せながら『入らず山』に踏み込んだ。少しでも女神の怒りをほかへ逸らすためだ。やはり、はじめて禁を破るとき、おれは報復を恐れたのだ。
マタギが信仰する山の神をあざむき、狩りの掟を破る――。
こんな道のはずれた狩猟者がいるだろうか? 我々のなかでは、あるまじき裏切り行為だ。
皮肉な話ではないか。
かつて『行者転ばし』では、仏道からはずれた破戒僧どもが女を犯し、旅人を殺して略奪したうえ、子供の生き胆をかき出した。それでゼニを荒稼ぎした。きっとおれもその毒気にあたったにちがいない。
窪地は、悪い気ばかりが充満した、特殊な磁場になっているのかもしれない。
ここでおれも同じく魔道に堕ちた。一線を越えることなぞ、ためらいもしなかった。
マタギは漢字で、『又鬼』と書く。学者どものもっともらしい諸説もあるが、おれからすれば、『罪もない獣を殺生するため鬼になる。山へ入るたびに、また鬼になる』という説だと信じている。
そう。おれは――こんどこそ、ゼニのために鬼となる。
とにもかくにも、『入らず山』を歩きまわり、ついにアレを見つけた。
あいにく、つぼみに近いサイズにすぎなかった。ほんの手毬ほどの大きさだ。
おれは歓喜して、すぐさま根っこごと掘り起こし、恭しくかごにおさめた。小さければ、家で栽培すればいい。肥料をたっぷりやってみよう。
うまく生長させ、中国市場に見せびらかせば、とんでもない額がつくだろう。富裕層はのどから手が出るほど欲しがるはずだ。億単位の値まで跳ねあがるのは必至。
億単位だぞ! こんな心躍る話があるか?
こいつはちぎって食べても、再生する恐るべきモノだ。増殖させれば、無尽蔵にゼニを生むのではあるまいか?
……ところがこの不老不死の秘薬となるはずの植物は、倉のなかで枯れてしまった。半年足らずの命だった。
どうも、このふしぎな植物は人工栽培が難しいようだ。
その点は松茸とよく似ていた。アカマツと松茸の共生関係があるように、コイツもなにかと持ちつ持たれつの生態なのかもしれない。が、いまの段階において、謎は解明できていない。
かくなるうえは、神域で大きく育つのを待つしかあるまい。だからつぼみのソレは手をつけないようにした。
その後も折を見て『入らず山』へ足を運び、偵察および調査をくり返した。
はじめて山の神の処女を破ったのが、一九七七年、二度目が一九八六年、三度目がノストラダムスの予言で騒いだ一九九九年、いちばん最近で二〇〇六年、おれが七十八のときだ。
藪をかきわけ、『入らず山』を歩きまわった甲斐あって、いくつかのそれを発見している。体感的に位置も憶えている。
やはり、おれがにらんだとおり、そこはお宝だらけだった。
どれもが生長途上にあるが、いずれにせよもうしばらく時間をかければ、ここは不老不死の材料の一大産地となるだろう。残念なのは、生長があまりにも遅いことだった。
いまのところ、おれ以外に誰も知るまい。信濃マタギの仲間にも教えちゃいない。誰が洩らすものか。
とすれば、おれだけが富を独占できる。
おおとも、おれだけが一人勝ちして、長田家を栄えさせてやる。ほかの奴らのことなぞ知ったことか。
なんてことはない。
『ミダグナシ』の報復は、ありそうでなかった。
あれほどマタギの世界で、山の神の恐ろしさを連綿と言い伝えてきたにもかかわらず、神なぞ実行力のない存在にすぎなかったのだ。ときおり、山で天候が荒れたりするのは、単に自然の気まぐれでしかなかったにちがいない。




