24.七つまでは神のうち
「茉子ちゃんの時は、いまでもおれのなかで止まったままだ。六歳のまま――」と、治彦はうつむき、苦しげに洩らした。
両手のなかの、緑色に苔むした頭骨をじっと見つめる。小さな骨に、在りし日の少女の面影を重ねた。九年の歳月が経っていた。ぼんやりした輪郭しか思い出せない。愛らしい目もとをしていたはずだ。
と、そのときだった。
暗い眼窩から、もぞもぞと肥った小指が出てきた。
いや、ちがう。ベージュ色の芋虫だ。コガネムシかなにかの幼虫だろう。うめいて骨ごと放り投げた。
「おそらく、最上さんとこの娘はとっくの昔に死んでおる。どんな形であれ。七つまでは神のうちと、よく言ったもんだ。冥福を祈るしかない。――ハル坊、そんなに気を落とすな。おまえのなかであの子は生きておる。おまえがきれいさっぱり忘れないかぎりな」
「茉子ちゃんが連れ去られて、たしかに殺されたのかもしんない。まさか、生き胆を取られたなんて、ひどいことはされてないよね?」と、治彦は頭を抱えて暗い声を出した。「それにしたって、昔ここで、子供や赤ちゃんの生き胆を取り出したって話、ほんとうなの? 臓器密売って、人としてどうかと思う。信仰のために修行してきた人たちが、挫折しただけで悪魔に変わっちゃうなんて……」
「町の図書館や、地元の有志たちが書いた郷土史の本にも、六人行者岳の歴史と、『行者転ばし』にまつわる文献がいくつか残されている。厂原村のおぞましい負の遺産だけに、こと細かには記されていないがな。どんなことが行われていたか、おれには予想がつく」
治彦はわが身を抱いた。
「想像するだけで寒気がする……。いったいこの『行者転ばし』で、生き胆取ってたって、どんなひどいことが行われてたんだろ」
「手あたりしだい子供をさらってきては、ここでさばいて生き胆を抜き取った――というより、あらゆる臓器を利用したのかも――。肝臓、心臓、胆嚢、脾臓、肺、腎臓と、奴らはあらゆる部位をほじくり出した……。さっきも言ったろう。マタギも熊の胆嚢をつぶさぬよう取り出す。それを型板に挟み込んで乾燥させて生薬を作るのだ。おそらく人間の部位の場合も、作り方は同じ。この窪地に紐をめぐらし、型板で挟んだモノをぶらさげて乾燥させていたにちがいない。それも数えきれないほどな。魔道に堕ちた山伏たちは、そうやって作業していたのだ。おそらく当時のここは、臓器加工と密売の一大産地となり、凄まじい光景だったろう」
治彦は声すらあげることができなかった。
平安時代のころのそんな地獄絵図を思い描くだけで意識を失いそうだった。
『行者転ばし』の至るところにぶらさがる型板。恐るべき異臭が立ち込めていたにちがいない。地面のそこかしこには、中身をくり抜かれた子供たちの死骸が累々と折り重なっている。すでに白骨化したものもあっただろう。
「誘拐された子供たちは、大袋に入れて運ばれたって言ったじゃない? まったく騒がなかったわけでもないでしょ? いきなり閉じ込められたにしたって、無抵抗ってこともないと思う。泣き叫んだりしたケースだってあったんでは?」
「いくらでもおとなしくさせる方法はある。先に猿ぐつわを噛ませたり、もしかしたら薬草を調合した鎮静剤のようなものがあったかもしれない。チベットでは沈香という香木があると聞いたことがある。時間はかかるが、ゆっくり眠らせてから連れ去ることも不可能ではない」と、アカマツの巨木を見あげながら丁次は言った。それにしても打てば響くような回答である。
「それにしたって大袋――」思いつめた表情になり、うつむいた。「大袋。なにか引っかかる。なんだろう。妙に胸がざわざわするんだけど――」
「最上さんとこの娘も、せめて骨ぐらい見つかればな」
「そうだ、茉子ちゃん」と、治彦は心ここにあらずの眼つきで丁次を見た。「行方がわからなくなる三日前に、田んぼのあぜ道で、白いコートの男が――怖い男の人って言ってたっけな――立ちあがり、コートを広げたって。そしてコートのなかに閉じ込められ、次に気づいたら神社の境内だった」
「その前兆があって、三日後にも同じことがあったと見てよかろう。おそらく同一犯のしわざだ。今度こそどこかへ連れ去った」
「白いコート……大袋」
もし大袋に包み隠されたら、閉じ込められた子供の視界には布地の白さが広がるにちがいない。
布地。
内側から外をのぞこうにも、どうにもならない。締めつけてくる布地を押し返そうと、子供は両手で抵抗するはずだ。閉所恐怖症が忍び寄る。どこへ連れていかれるのだろうと不安がよぎる。連れていかれた先で、どんな運命が待ちうけるのか。
布地。
もし昼間、さらわれたのなら、太陽の光を透過させるのではないか。
内側の子供は視界いっぱいに広がった光を感じる。麻の素材の感触。目の粗いそれが見えてくるようだ。爪を立てようにも、袋はピンと張りつめていて、破ることはできない。自身の吐いた息が頬に跳ね返ってくる。
思い当たる映像があった。
どうりで気になったわけだ。
――それは、あの油絵だ。
治彦は叫んで頭上を仰いだ。
「そうだ、わかった!」
「なにがだ」
「クラスメートの美術部の子が描いていた絵だよ! 皆川 ひなたの油絵だ! ひなたの奴、さらわれた子供が、袋のなかに閉じ込められたシーンを描いてたんだ! なんの情報もないのに、イメージだけで!」
治彦は昨日の美術室であったことを説明した。
「おかしなこともあるもんだ」と、丁次が感心した様子であごをさすった。「六人行者岳の歴史も知りもしないで、よく感覚だけで絵をな……。とんでもない才能を発揮する人間もいるってことか」
「彼女の場合、かなり特殊だから」
「その絵のアングルが、さらわれた子供が見たものとはかぎらんぞ。なんにせよ、確たる証拠がない」
「たしかに――。けど、ひなたはときどき、おかしな力を使うし、じっさいおれも見てきてるから」
「充分、ありえると」
「うん」
「まあよい。とりあえず、その子の絵についての議論はキリがない。いったん脇においておこう」と、丁次は言い、座った姿勢で背負いかごを背中からはずした。かごを地面に据え、肩をさすりながら立ちあがった。「それはそれとして、腹が減らないかハル坊。おれも燃料切れだ。ちょっと遅くなったが、ここいらで昼食にしよう」
「――それもそうだね」
「ものは試しだ。少しばかり、採れたてホヤホヤのをいただいてみるか」
「この松茸を?」
「いかに松茸は鮮度がだいじか、いやでもわかる。苦労して採った者だけが味わえる特権ってやつだ。遠慮することはない。ここにはいくらでも生えてるんだ」
治彦は『行者転ばし』をぐるりと見まわした。二面分のテニスコートが余裕でおさまるほどの円形の窪地。その外周は急なすべり台のような傾斜がついており、高さは一〇メートルはある。この猟場は、ちょうどカップケーキの容器を思わせた。
そして中央には、屋久島の縄文杉に匹敵する忌み木がそびえ立っている。それを取り巻くようにして同心円状に林立する松茸。そして累々たる緑色の人骨。
さっきとは打って変わって、窪地の底は白い靄が立ち込めていた。二人の会話が不謹慎なほど反響した。
「食べるのはいいけど、さすがに生じゃいけないんでしょ? 生は聞いたことがない」
「もちろんだ。松茸にかぎらず、椎茸やシメジ、エノキだって生で食べるのはよくない。茸そのものには眼に見えない細菌やカビの胞子が付着してるし、ダニなどの害虫だっているかもしれん。それを加熱処理して、はじめておいしく、健康を害することなくいただける。それ以外にも、じつは松茸にはわずかながら毒が含まれておるから、生食は危険なんだ」
「毒?」
「採れたてなら、加熱すれば問題ない。火を通せば、細菌やカビ、害虫も死に、毒でさえ無効にできるが――」
松茸を食するにあたり、もっとも注意すべき点は腐りかけのものだ。採取から月日が経ち、色がおかしくなり、弾力もなく、香りが変化したものは非常に危険とされている。
というのも、松茸には必須アミノ酸であるヒスチジンとフェニルアラニンという二つの成分が含まれている。しかし松茸が腐ってしまうとこの二つが変化してしまう。ヒスチジンはヒスタミンに、フェニルアラニンはフェニルエチルアミンへと移行するのである。
この二つの成分が変化した食物を口にした者は、烈しい食中毒症状を起こしてしまうのだ。おもな症状としては、腹痛、下痢、嘔吐などだ。
いちど変化してしまった成分は加熱してもだめだ。
せっかく採ってきたり、買った松茸も、腐りかけとなってしまったら食べるべきではない。もったいないと思わずゴミ箱行きにするしかないのだ。




