18.「虎穴に入らずんば虎子を得ずだ」
生えていた。
まちがいない――松茸だ。桁ちがいの数である。しかも一本一本が採りごろの『つぼみ松茸』が多い。これだけ離れていても、はっきり見えた。それに松茸特有の馥郁たる香りが、どぎついほど立ちこめている。垂涎せんばかりの眺めであった。
「じいちゃん」と、治彦がひざをついた姿勢でため息を洩らした。「ハンパないよ。ここが秘密の猟場……」
無表情を決め込んでいた丁次がギラギラした眼つきになり、
「やはり思ったとおりだ。久しぶりの豊作の年に当たったぞ。ハル坊は生まれつき、なにかを持っておるな。おまえの将来は約束されたようなもんだ。きっと順風満帆の人生を送ることができるだろう」と言って、治彦の肩に手をおいた。「なにはともあれ、穴の下におりて、たっぷり採っちまおう」
「とてもじゃないけど、この背負いかごに収まりきれないんじゃ」
「うれしい悲鳴だな。どうせ大量に採ったところで、あまりの重さで下山が苦しくなる。とにかく採れるだけ採って、また明日も来よう。この時期は松茸も刻一刻と生長する。採れごろを逃がさないためにも、身体はしんどいだろうが、稼げるうちに稼ぐべきだ。年になんどもチャンスは訪れないんだからな。――さ、おしゃべりはここまでだ。行くぞ」
丁次は背負いかごのなかからロープの束を取り出すと、端を手近な木の幹に縛りつけた。そしてもう一方の一端を窪地の下へと投げ込んだ。
ロープがしっかり固定されているか試したあと、丁次はロープを伝いながら傾斜をくだりはじめた。勾配がきついところは、尻をつき、すべった。背負いかごを破損させないように気を配る。
治彦も負けじとそれにならった。欲には淡白な治彦でさえ、心は舞いあがっていた。
下に着くなり、治彦は異変に気づいた。
すり鉢状の底ではカビ臭い空気と、濃い松茸の香りが淀み、湿気と冷気が取り巻いているのもある。が、それ以上に物々しい雰囲気に息を飲んでしまった。
「まさか、これって――。なに、ここ?」と、悲鳴まじりの声を放った。広場の縁周辺に散らばった緑色の堆積物。思わず釘づけになる。
てっきり苔の生えた岩やら朽ち木かなにかだと高を括っていたのだ。
そんな生易しいものではなかった。――その緑色の物体は人骨だった。
古びた骨だった。いったい死後、どれほど年月が経っているのかさえ推し量ることができない。成人らしいサイズのものもあれば、子供ぐらいの小さなものまであり、どれもが一様に緑に変色し、残酷な時の浸食を感じさせた。部位がバラバラになり、この窪地の松茸に匹敵するほどの、おびただしい数が散らばり、ところどころ山積みになっていた。その重ね方は人の手によるものに見えた。
とくに頭骨ばかりが、八百屋に陳列されたリンゴのように、これ見よがしに積み重ねられ、不吉な眼窩で治彦たちをにらんでいた。無念の叫びをあげているような、大口を開けたものも少なくなかった。
「じいちゃん、この骸骨って、いったい」と、治彦はうしろにさがりながら聞いた。いまさら逃げようにも、急な斜面が退路を断ってしまっている。だらしなく尻もちをついたまま、「もしかしたらここって、昔は墓場かなにかに使われていたの?」
「頭を働かせろ、ハル坊。墓場に見えるか? 里からかなり離れておるんだぞ。死人が出るたび、わざわざ棺桶を担いでここまで捨てにきたわけがなかろう。いささか合理的ではない」
「捨てる」ハタと思いつき、治彦は眼を見開いた。「――ひょっとして、姨捨山!」
棄老伝説という知識は、十六の治彦をもってして備えていた。
学校の授業で作家・深沢 七郎の小説『楢山節考』を読まされたことがあったし、その流れで一九八三年に公開された、緒形 拳主演の同名映画も家族で観たことがあったのだ。そもそもロケ地も、長野県北安曇郡小谷村の一部を改良して撮影が行われており、地元ではいまでも話題にのぼるほどだった。
というのも姨捨山は、長らく現在の同県千曲市と東筑摩郡筑北村にまたがる『冠着山』という山と、それにつらなる山々だと信じられてきたのだ。
しかしながら、姨捨という風習が実在したかどうかについては、はっきりしたことがわかっていない。いかんせん証拠となる文献が残されていないのだ。
冠着山はたしかに俗称を姨捨山と呼ぶことから、深沢 七郎は『楢山節考』を執筆するにあたり、棄老伝説を結び付けて描いたとされている。
一方、日本思想史学者・古代史研究家として知られる古田 武彦は、地元、天台宗の寺院、放光院長楽寺への現地調査の結果、この地に棄老伝説はなかったと結論を出した。
むしろ、人口問題を解決した方法は、棄老よりも子供の口減らしだったのではないか。子供でも、とりわけ水子、すなわち乳児を間引くことだった。
とにかく、かつてこの地に棄老伝説があったか否かは別として、厂原村を含め、長野では義務教育でも取りあげられるほどだし、一般家庭においても広く知られた歴史であった。
丁次がにんまりと唇の端を吊りあげ、
「墓場ときたら、次は姨捨山か。ハル坊、発想が浅すぎるぞ。ましてやここは昔から女人禁制の地であり、山伏たちの修行場。黒不浄はご法度だ」と、言った。「……もっとも、それもまっとうな山伏たちの場合だが」
「つまり、まっとうじゃない山伏もいたってこと?」
「いよいよ核心に近づいてきたな。いまは『行者転ばし』が生まれた話より、松茸の方が先だ。続きはあとでしてやる。とにかく採るのに専念するぞ。虎穴に入らずんば虎子を得ずだ。行くぞ、ハル坊。人生だって、危険のなかにお宝があるもんだ。臆病すぎては大成しない。男子たるもの、多少の危険は覚悟してコトに当たれだ」
「……あいよ」
治彦はあえて声を荒げなかった。
強烈にその場から逃げ出したいとは思っていたが、事ここに至っては、いまさら帰ることができるはずもない。この窪地の斜面をなんとか登ることができたとしても、内臓回廊をひとりで伝って戻るのも、それはそれでありったけの勇気を総動員せねばならない。そもそもあの岩壁は、いまでも開いたままなのかさえ疑わしいではないか。
――とすれば、腹を決めるしかなかった。
まさか異様に松茸が採れる猟場が、こんな骸骨だらけの場所にあったとは……。
が、往々にして世の中うまい話は転がっていないものだと、父、宗教は口を酸っぱくして言ったものだ。リターンを求めると、それなりのリスクがつきまとうのは必定である。山ほどの収穫を得るには、それ相応の危険と恐怖を冒さなくてはならない。安易にハイリターンを期待してはいけないということだ。
二人は人骨を避けながら――それでも避けきれず、ときおり踏み砕いてしまったが――、広場の中央に屹立するアカマツを見つつ、穴の縁のあたりから松茸を採っていった。縁から中央へ向かって採り進めようということになった。その方があやまって踏みつぶしてしまう心配はない。骨は踏んでも、松茸は踏みつけるべきではないと、丁次は言った。
とはいえ縁周辺は、それこそ累々たる人骨が折り重なり、足の踏み場もないほどである。知らずに大腿骨らしい部位を踏みつけると、ボキリと乾いた音が鳴り、治彦は飛びあがる思いをした。
それにしてもこの松茸の数――。治彦は目線をさげ、アカマツの巨木の方に向けて眺めてみた。
恐るべき数量の『つぼみ松茸』が地面から顔を出し、びっしりと生え広がっていた。松茸製のじゅうたんを思わせた。壮観な光景であった。濃密な匂いが立ち込めており、むせ返りそうだ。山菜採り名人や茸狩り師がこの窪地を見たならば、腰を抜かすにちがいない。
完全に傘の開ききったものや、小さなものは採るのを控えた。生長しすぎたものは売りに出したところで、どうせ二束三文の価値しかならないのであきらめるとして、育つ途上にあるものは採りごろになるまで待つべきだった。もっとも、それを踏みつけないよう細心の注意を払う必要があったが。
二人は一心不乱で採り続け、地面におろした背負いかごに収めていった。
型崩れを防止するため、収穫したものをある程度詰めると、アカマツの葉を敷いた。緩衝材がわりになるだろう。その上にまた松茸を積んでいくことをくり返した。




