14.欲望は膨張する
やがて丁次の思考も内向していった。山を歩きつつも、内なる己と対峙する。
――おれは秘密の猟場で松茸を採りまくって味を占め、その勢いでついにあの山にまで手をつけてしまった。何人たりとも、分け入ってはいけないと昔からのしきたりがあった。かつては杣師でさえ、よだれが出るほど立派な木々が生い茂っていたので、伐ってみたい誘惑にかられたらしい。なんにせよ、立ち入るのは固く禁じられていた。
あの山は神聖な場所だ。そのほかの霊山とは別格なのだ。
地元の信心深い人間のなかには、山の神が寝床にしているから、人が入ろうものなら、烈火のごとく怒り出すと信じる者もいた。神域に土足で荒らすと、どんな災厄が降りかかるか知れたものではない。山の神はその『入らず山』から、すべての山々に幸をもたらすのだと言ったものだ。
おれは『入らず山』に入ってしまった。人間の領分を踏み越えてしまったのだ。
はじめの潜入はおよそ四十年まえ。おれが五十にさしかかろうとする年だった。最近が十二年まえとして、都合四度、偵察をかねて禁断のエリアに入ったことになる。
人は愚かだ。もっと稼げるものなら、貪欲なまでにさらなる上をめざす。
欲望は膨張していくものである――かのナチスドイツの指導者、アドルフ・ヒトラーが、自身の著書『我が闘争』で、そう記している。
まったくそのとおり。
富を追おうとする欲求は、バルーンのように膨らみ、とどまることを知らない。
しかし、バルーンはいずれ限度を超えると破裂する。破裂するまえに、やめるのが賢いギャンブラーだ。なにごとも引き際が肝心である。欲張ると手痛いしっぺ返しを食らう。
そうかんたんに勝ち逃げできるだろうか?
いつぞやの流行歌じゃないが――わかっちゃいるが、やめられないってやつだ。
おれは山の神が住まう山中に忍び込み、狙いどおり、あれを見つけた。見つけてしまったと言った方が正しいか。
おれはそれを頂戴した。まだつぼみに近いサイズだった。家で栽培することに決めた。これを大きく生長させ中国市場に出せば、とんでもない額で取引できるにちがいない。富裕層はいくらでも大枚を積みあげ、譲ってくれと殺到するだろう。なにせ、あれは本来、古代中国での自生が信じられてきた奇蹟の植物だ。
『入らず山』より命からがらなんとか里に帰り、何度か食している。まずは人体実験としてばあさんに与え、なにも害がないとわかると、おれも口にしたのだ。
効き目は眼には見えない。信じるしかなかった。
おかげで、おれとばあさんはあらゆる病に抵抗ができたのか、健康で生きられることができた。まあ、おれとて九十で現役バリバリとはいえ、世のなかにはいくらでも、同世代の元気なじいさまばあさまはゴマンといる。必ずしもあれを食べ、恩恵を受けたとは言いきれないだろうが。
ばあさんの場合は言わずもがな、あのようなあっけない命の落とし方をしてしまった。
どうやら不老不死の秘薬になり得ると謳いながら、あらゆる病魔に打ち勝つことはできたにせよ、物理的な損傷には効能がないことが判明した。
逆に言えば、首の骨を折り、脳挫傷した者がピンピンしていたら、それはそれで、いらぬ疑いの眼が向けられるにちがいない。
おれにツキがあるのか、見放されたのか、よくわからないことがある。
あの山で収穫した例のモノは、本来削って食しても、また再生するはずだった。
採取したときは手毬ほどの大きさにすぎなかった。出来損ないだったのか、それともおれが育て方をあやまったか、倉のなかで再生することなく、いつしか老女の乳房のようにシワシワとなり、完全に枯れ果ててしまった。
減るのを惜しんで、数回しか味わっていない。枯らしてしまうのだったら、いっそのこともっと食べておけばよかったのだ。
息子夫婦たちにあのご利益は与えていない。やつらはまだ元気だ。そんなものは必要あるまい。質の高い医療保険にでも加入しておけばいいのだ。
もちろん、その存在さえも教えていない。たとえ倉のなかに隠したブツが、宗教に見つけられたとしても、風変わりな茸か粘菌でも保存しているぐらいにしか思わなかったろう。祖父の道楽のひとつにすぎないと。
あれをちょろまかしたのは、いまのところおれだけの秘密だ。効能はばあさんと共有しただけにすぎない。
今回、もし治彦との探索で秘密の猟場で成果を出せたならば、かなり危険をともなうだろうが、十二年ぶりに『入らず山』へ行ってみるつもりだ。
臆病だが、天賦の運のよさを持っている孫をつれて潜入すれば、前回のモノより大物を手に入れられるような気がした。確信めいた予感があった。
じっさい、前回潜入したときに、つぼみどころか小指サイズのあれをいくつか見かけていた。正確な場所はうろ憶えだが、体感的に位置はわかっている。山歩きはお手のものだ。きっと探り当ててみせる。うまく生長してくれていればいいが……。
もし立派なサイズのそれを手に入れられたら、長田家は巨万の富を築いたうえ、そして病気知らずの健康体を得ることができるだろう。健康体といっても、不老不死はあり得ない。人体には限界がある。いずれ多臓器不全となり、生涯に幕を閉じよう。せいぜい日本人の平均寿命にプラス二十が関の山ではないか。
おれの寿命はあとどれぐらい残されているか知る由もないが、家族のために、せめて最後の奉公をしてやりたいのだ。
もっと金を貯めて、息子のために田んぼを買ってやりたい。
自宅倉庫には最新鋭を誇る農機具一式をそろえてある。いま以上に土地を広げたとしても、機械化でどうにかなる。税金の問題も、なんとかなるだろう。
あるいは山菜がよく採れる山を買い占め、市の旅行会社と提携を結び、山菜狩りツアーを企画するのもいい。可能なら、そのガイドを請け負うのも一興だ。そこそこの儲けにもつながる。年がら年中は無理かもしれないが。
それがダメだったら――佳苗は料理がうまい。日ごろ懇意にしてもらっている上信越自動車道のサービスエリアに、ジビエ専門店をオープンさせるのも名案だ。流行にのっかるのも悪くない。地元で駆除した獣肉の利用で、地域の活性化も図れる。
いまや鹿による農作物被害額だけでも年間五十九億万円にものぼり、獣害の食害全体のじつに三十三パーセントの割合を占めている。次いで猪が約五十一億、烏が十七億、猿が十二億と、日本の農業は獣害による深刻なダメージを被り、いちばんの悩みの種だ。
やつらは人間さまが手をこまねいていると、ますますつけあがってくる。
人間さまの縄張りを侵したら、どうなるかってことを身をもって知るがいい。
……とにかく、そのジビエ専門店を佳苗らに切り盛りしてもらうのだ。彼女なら器量もいいし愛想は二重丸。客も集まるはずだ。
長田家をもっともっと、潤したい。
よかれと思って、おれは松茸で稼ぎ、息子らを支援しようとしているのだ。それのなにがいけない?
店がうまくいけば、将来治彦を店主に据える腹案もあった。治彦には幼いころからともに山歩きをし、自然とどう向き合うか、仕込んできたつもりだ。
季節ごとの旬の食材を採取するノウハウも叩き込もう。いずれは散弾銃を持たせ、山の獣を狩らせようと考えている。猟友会には必要な戦力だった。会はいまや高齢化が進み、存続の危機に瀕していた。若手が必要だった。むろん、祖父の勝手な押しつけだとはわかっている。
この孫はおれに似て、やることなすことセンスは悪くない。きっといいハンターになるだろう。優しすぎる性格がネックなのと、いささか愚痴が多いのが玉に瑕だった。親が甘やかせたからだ。そろそろ厳しく指導して、言うこと聞くように徹底的にシゴくのもありかもしれない。いまどき、こんなスパルタは時代錯誤かもしれないが。




