13.丁次の信条
治彦は茉子の小さな手を握ると、長田家へとって返した。そしてたどたどしい口ぶりで両親に事情を説明した。当時の治彦をもってして、茉子が男になにをされたのか、それとなく察したのだ。
白いコートの男は捕まらなかった。
八月の半ばにコートを着てるなんて、ナンセンスもいいところであろう。茉子の証言は信憑性に欠けた。
何者かさえ――厂原地区の住民なのか、よそ者なのか――、見当もつかなかった。なにせお盆の時期である。墓参りに実家へ帰省した者も多かった。特定は困難を極めた。
結局、事件はうやむやに終息していった。
診療所での検査では、加害者の体液をふくめた遺留物は検出されなかったのだ。気を揉む茉子の両親の手まえ、やたらと事態をかきまわすべきではないと、田舎特有の暗黙の了解が広がった。忘れてしまおうということになった。
その三日後だった。
今度こそ悲劇が起きてしまった。またしても最上 茉子が忽然と消えたのである。
両親の捜索願が提出されてから、およそ一ヶ月を費やして、所轄の警察官総出で、地元消防団や猟友会の力も借りて茉子の足どりを追った。
付近一帯と周辺の山々を探したが、その行方はつかめなかった。
正味二十六日間、厂原地区では異例の山狩りが行われた。しかしながら、草の根をかきわけても衣類の一片すら発見できなかった。
その事件はテレビニュースでも報道され、ふだんは平穏な山間部にも多くの報道陣や新聞・雑誌記者が押し寄せ、村は物々しい騒ぎにふりまわされた。
いろんな憶測が飛び交った。
水面下で犯人捜しが行われたが、犯人逮捕には結びつかなかった。
平和な限界集落のゆったりとした時間も、このときばかりは激流のように流れていき、なんの進捗も見せないまま、ついに一年がすぎてしまった。
結局、最上 茉子の骨の欠片のひとつさえ見つけられなかった。捜査は打ち切られた。
厂原地区の住民は口々に、こうささやいた。
「最上 茉子ちゃんは神隠しに遭ったんだ」と。
両親は山狩りにも積極的に参加し、命を削る思いでわが子の名をくり返し叫び続けた。その両親さえも疑いの眼を向けられたが、両親やその親族に、茉子を誘拐、及び殺害し、どこかへ遺体を隠す動機は見当たらなかった。
あれから九年経った。
いまも治彦のなかで、最上 茉子の思い出は凍結している。かたときも忘れたことはない。いったい茉子はどこへ消えたのか。
みずから姿を隠すとは考えられない。きっと白いコートの男が、なんらかの形で関わっているはずだ。
確信があった。一度目にさらわれたのはほんの小手試しにすぎない。
あのときに、もっと地域住民が一体となって守ってやるべきだったのだ。
悪魔は二度目に本気を出す。いちど餌食にされたら、もう返してくれない。
あの日の茉子は純粋のまま、時をとめられ、治彦だけが成長していた。
アカマツ林での収穫後、丁次とその孫は、六人行者岳の奥へと進んでいた。
林を突っ切った。小高い山を尾根伝いに歩き、行者が命がけで乗り越えなければならないような大岩をやりすごし、鎖場が設置された崖を這いつくばってのぼった。そのルートを背負いかごをかついだまま登らなくてはならない。両手が使えるだけ慰みとはいえ、苦行にも等しい道のりだった。
自宅を出て、行者岳に入ってから二時間は経過していた。丁次はスマートフォンで時間を見た。
一〇時五十三分。電波は届かず、圏外となっている。
それにつけても治彦である。さすが陸上できたえたスタミナも落ちてきたらしく、口が閉ざしがちになっている。なんとか丁次の健脚についていくのが精一杯という体だった。
丁次は内心ほくそ笑んでいた――おれも九十になるとはいっても、いまだ現役と胸を張れるほど気力体力で力がみなぎっていた。腹の底から活力が沸きあがってくる。まだまだ世代交代しないでもいいのではあるまいか?
かわいい孫に松茸が異様に採れる猟場を教えようと先導してはいるが、本音は教えたくないのだ。というか、手柄はこの手でつかみ、誰かに称賛されたい。
称賛は言いすぎかもしれない。
臆病なくせして皮肉屋の宗教はともかく、おしとやかな佳苗か、行きつけのカラオケスナックの山城ママに褒められたかった。子供じみた承認欲求だと笑いたければ笑うがいい。狩りの腕は誰にも負けん。
四十代の美人ママに、こっそりおすそ分けすれば、熱烈なハグと、頬っぺたにキスをいただけた。それだけで丁次は十は若返りそうだった。自身の松茸が勃った。
そうだ。おれが秘密の猟場で山の幸をせしめ、売り払った金で、わが長田家をバックアップしたいのだ。
純粋にそれだけだった。おれがゼニを稼ぎ、称賛を浴び、そして家のためによかれと思うことをすること。
至ってシンプルな考えではないか。
家が繁栄すれば、それに勝る幸せはない。
間抜けなばあさんが棚田から転げ落ち帰らぬ人になろうが、おれが軽トラの暴走運転でおっ死のうが、息子夫婦たちが路頭に迷うことなく笑顔で暮らしてくれたなら、あとはどうだっていい。
どうだっていいのだ!
隣近所の家が没落しようと、厂原地区のみんなが困窮して離散しても、長田家にはなんら関係がない。そんなのクソ食らえだ。
極端な話、すべての日本国民が大地震と津波で被災し、途方に暮れるような事態になったとしても、長田家だけが無事ならば、あとはどうだっていい。
おまえは日本人としてあるまじき考えだ、非国民、売国奴と罵られようが、屁とも思わん。むしろ、なにがいけない?
あとは知ったことではない――それが丁次の人生におけるスタンスだった。
こうやって荒波を泳いできた。守るべきは、自身の命と身内だけでいい。長田家という誇り高き血筋だけを固守する。父や祖父もそうやってきたのだ。
毎年いまの時期、なんどか山へ通い、茸狩りで稼いだ。
とくに秘密の猟場で松茸を採りまくり、稼ぎまくった売り上げを複数の銀行にあずけた。その金で厂原地区有数の、二〇〇坪の敷地に二世帯住宅をかまえることができた。地元ではひそかに、松茸御殿とささやかれている。
もっと財産を築けたはずだ。
というのも、ここ最近、マンション経営が裏目に出てしまっていた。
住人によるトラブルが重なり、事故物件となったのは運が悪すぎたとしか言いようがない。いらぬうわさだけが一人歩きし、入居者がおおかた出ていってしまい、借り手が見つからなくなった。八つある物件が無人となっているのだ。
維持費だけが嵩んだ。その失敗も大きかった。丁次は狩りや松茸採りと、市場で高値で取引する才能はあっても、経営力と運にかけては見放されているようだった。
そんなマイナスもあり、せっかく稼ぎまくった貯蓄は目減りしていた。
なんとしても、失った分は松茸シーズンで取り返さなくてはならない。秘密の猟場でゼニを稼ぎまくってやる。
今年の梅雨はうんざりするほど長雨が続いた。台風もさんざん日本列島を痛めつけた。夏になれば酷暑で国民を疲弊させ、ヒートアイランド現象で毎年日本一暑い地域として知られる埼玉県熊谷市では、昨年以上の最高気温四十二度を記録したほどだった。熱中症対策をしていない老人は淘汰された。
つまり、松茸が豊作になる条件をそろえていた。――これに期待するしかあるまい。