12.最上 茉子のことは一度たりとも忘れたことはない
その後、アカマツ林でたっぷり一時間をかけて丹念に探した。
結局、収穫は二人合わせて六本だった。
六本採れたことを上等と褒めるべきか、欲張ったサイズの背負いかごのわりには、拍子抜けと言うべきか――。
先に進むことにした。
目指すべきは丁次だけが知る秘密の猟場なのだ。ここでの収穫は初心者の孫にレクチャーをかねた、行きがけの駄賃にすぎない。
小高い山の尾根伝いに歩くと、ところどころ先を越された痕跡があった。広範囲にわたって、松茸が掘り返されている。
穴は松葉をふりかけて塞ぎ、小指ほどのまだ生長途上の小さすぎるものは巧妙に隠されているが、名人の丁次にかかればお見通しだった。
なかには意図的ではないにせよ、『シロ』が荒らされたところもあった。荒々しい靴跡がついている。由々しき事態である。
六人行者岳は長田家の止め山(所有者や地権者のいる持ち山)ではあるが、修験者らの聖地のひとつとして昔から貸し出していた。許可なく入山し、修行してもいいことになっている。長田家は昔から修験者には寛大だった。
しかしながら山の幸を採ることは原則的に禁じている。ましてや『シロ』まで壊されるのは業腹だった。
これはどこかの山菜採り名人か、茸狩り師のしわざか。
あるいは『シロ』を荒らしているところから推測するに、素人による犯行かもしれない。六人行者岳は特殊な止め山とはいえ、無断で採れば窃盗罪が適用される。
まさかと思うが、いちばん疑うべきは山伏が修行するため山に入ったついでに、横取りしたのではないか……。
いずれにせよこういった窃盗対策として、松茸が自生する猟場に有刺鉄線を張りめぐらせ、電流を流し武装している山もあるほどだ。バッテリー式の監視カメラを設置し、盗みを働いた場合、記録映像を警察に届けるとまで警告した看板を据えて。
それだけならまだしも、ガラの悪い人間を雇って用心棒にした事例や、猟犬を配置している山さえめずらしくないという。
もっとも電気柵は、窃盗犯を想定したばかりではなく、猿や猪、熊などの獣害を防ぐために設置しているのだが……。獣も掘り起こして食べてしまうことがある。いずれにせよ松茸を奪おうとする敵は多いのだ。
このように、松茸が生える時期、山は戦場にも匹敵する。
山菜狩り名人・茸狩り師たちは、この時期だけで年間売り上げの三分の一、豊作の年ならば半年分前後を荒稼ぎするという。それが正規の手続きを踏んだ収穫だったらいい。密猟を阻止すべく、止め山の所有者は防衛にも力を入れなければならない。採る側も密猟される側も必死だ。
ふたたび行者道に出た。ふぞろいの岩で組まれた石段は苔むしり、用心しないと足をとられそうだ。
ここにも最近、誰かが登ったらしい足跡があった。
それにしても、丁次の健脚ぶりに舌を巻かずにはいられない。山伏に勝るとも劣らない力強い歩調である。
治彦もさすがにバテはじめていた。陸上できたえてきたつもりなのに、今年九十の祖父に小言を洩らしているようでは、やりこめられるに決まっている。
うつむいたまま歯を食いしばり、先を行く丁次の足だけを追った。
しだいに治彦は内向していった。山で黙々と歩いていると、こういった心理状態によく陥るものだ。修験者さえも入峰することにより、内なる己と向き合うのかもしれない。
――治彦は思い出していた。あれから九年経ったいまでも、当時のことを鮮烈に憶えている。
あの子がさらわれたことを、一度たりとも忘れたことはない。
治彦が小学生になりたてのころだった。まだ六歳だった。
厂原村は長野県の北西に位置し、中央を一級河川が流れている。
見晴らしは日本有数の山岳景勝地である。全面積の八十八パーセントを森林が占め、耕地はわずか三パーセント弱。
というのも、東には雄大な妙高戸隠連山国立公園をふくむ標高二〇〇〇メートル級の高山がそびえていた。かたや西には中部山岳国立公園で知られる白馬連峰の二五〇〇メートル前後の険しい峰々が取り巻き、村はほぼ四方を高山に抱かれる形で広がっていた。
六人行者岳は厂原村の裏手に広がり、標高一二〇〇メートルほどにすぎない。とはいえ奥深くまで入り組み、土地勘に長けた先達がいないと、経験値の少ない山伏の入峰はおぼつかない。年間通して遭難者もたびたび見られた。
二〇一五年における国勢調査によると、人口は三〇九八人。調査開始の一九七〇年にくらべ、なんと半数以下へと落ち込んでいる。治彦が六歳だった当時でこそ、四〇〇〇人をかろうじて超えた程度だった。
限界集落とは、少子高齢・過疎化などで六十五歳以上の高齢者が、その集落の人口五〇パーセント以上を超えた場合に定義される。そうなると、冠婚葬祭などの共同生活や存続そのものが危ぶまれるとされている。
例に洩れず厂原地区も、六十五歳以上が五十九パーセントに達しており、行政の課題を突きつけていた。
厂原地区西の端に住む長田家の三軒隣りに、最上 茉子という同級生の女の子がいた。最寄りの小学校へ、治彦といっしょに登下校したものだ。
茉子は小柄な身体ながらよく走りまわる子で、ちゃんと見張っていないと糸の切れた凧みたいに、どこへ行くか予測もつかないような天真爛漫ぶりを発揮した。洗顔する仕草がほほえましい子猫みたいに、誰が見ても愛らしく映る顔立ちをしていた。
純粋すぎると言えば聞こえがいいが、その実、生まれつき人より成長が遅れていた。発達障害を持っていたのだ。
その最上 茉子がある日、一部記憶を失う、ちょっとした騒ぎを起こした。
けだるい八月半ば、盆のさなかのこと。
日曜の昼さがりだった。茉子の祖母が住む厂原地区の南に遊びに出かけるため、田んぼのあぜ道を通ったところまでは記憶にあるという。
この三時間後のことである。
茉子は同じ南でも、祖母の自宅とは正反対にある神社の境内で倒れているところを、近隣住民によって保護された。
幸い茉子は意識を失っていただけで、命に別状はなかった。身体にはいくつかの擦り傷がついていたが、いずれも軽症で、頭部の打撲も見られない様子だった。
ところがいくら厂原駐在所の警察官が話を聞き出そうにも、もともと言葉づかいが要領を得ない子供だったので、三時間の空白は憶えていないと首をふるばかり。拙い口調と身ぶりを交えた。
警察官をふくめ、村の者はたがいの顔を見合わせた。
狐につままれたような話である。詳細な話を引き出そうにも、こうも意思の疎通がはかれないと、埒が明かない。
診療所へつれて行き、精密検査を受けさせた。異状は見られなかった。
後日、なにごともなかったかのように、学校へ通いはじめた。
最上 茉子と肩をならべて歩いた治彦は、思いきって突っ込むことにした。母、佳苗には口どめされていたとはいえ、兄妹のように仲がよかったこともあり、聞かずにはいられなかった。それほど茉子の身を案じていたのだ。
「茉子ちゃん――もしかして、田んぼのあぜで、誰かに声、かけられなかった? 怖いおじさんとかに」
赤いランドセルを背負って、短い髪の毛をひょこひょこさせながら歩いていた茉子は、ハタと立ちどまった。
「怖い人」と、茉子が小さな唇を開いた。機械仕掛けの人形のように、精巧なまでに整った横顔だった。大人になれば、きっときれいな女性になるはずだ。治彦を真正面から見ると、ようやく思い出したかのように、顔色をなくした。「松の木の影。怖い男の人が座ってた。茉子が通りかかったら、いきなり立って」
治彦は眼を瞠った。
「それって誰?」
「男の人。白いコート着てた。烏みたいにバサッと広げたの。そして茉子、コートのなかに閉じ込められて、どっかへつれていかれちゃった」
「……こりゃたいへんだ!」