1.「おれを置いて逃げろ、ハル坊!」
そこは暗い山。
道なき道を治彦は突き進んでいた。
すぐ眼の前を、祖父である丁次の背中が見えた。鉈をふりまわし、前方にさえぎる藪をなぎ払っていた。
祖父の取り乱しようはただごとではなかった。
あと十歳で、なんと百歳になろうという高齢なのだ。それだけに人生の荒波を泳ぎきってきた王者の貫禄があり、いつでも穏やかな湖面のように落ち着いていたものだ。
その祖父があせり、怯え、窮地から生き延びようと死に物狂いになっていた。うかつに近づけば、勢いのついた刃物でとばっちりを受けかねない。
治彦はうしろが気になってしかたがなかった。
まだ追手の気配はない。とはいえ山に分け入ってから、例の視線をずっと感じていたのだ。
非難するような、シベリアの永久凍土もかくやというばかりの冷たい視線。
それは二人が禁を破ったからにほかならない。
鬱蒼たる雑木の鉄条網をかきわけ、倒木を飛び越えた。物音を立てぬよう息を殺し、できるだけ歩いた痕跡を残さず、暗い山中を進む。一心不乱だった。
まさしく人跡未踏にふさわしい草木の繁茂ぶり。
このまま丁次に置いてきぼりを食らえば、藪の牢屋に閉じこめられることになるだろう。
それだけはごめんだ。こんな山に取り残されたら、それこそ半日足らずで気が狂ってしまうにちがいない。――治彦は歯を食いしばり、祖父に従うしかなかった。
しだいに闇が山を包みこもうと、巨大な手のひらでふさぎにかかる。
時間の感覚がわからない。いまは昼間なのか、それとも夕方なのか。暗い翳りが足もとから忍び寄った。
丁次は息を切らせながら鉈をふるっている。片時も手をとめない。二の腕が引っかき傷だらけになろうが、おかまいなしに奥へ奥へと入っていく。さながらクサビを打ち込むように。
いくら伸び盛りの治彦でも、祖父の持久力と健脚には恐れ入った。命がけの強行軍。『入らず山』に踏み込んでから、はや五時間がすぎていた。さすがの治彦の体力も限界がきていた。
治彦は声をひそめながら、
「じいちゃん、歩くの速い。もっとゆっくり行こ。あいつはまだ近づいちゃいない。このへんで休憩させて――」
と、言った。
鉈で雑木を切り払っていた丁次の手がとまった。
灰色をした作業着の背中が汗をかき、まるい染みになっている。
直立不動の姿勢で、うつむいた。
頭の形がおかしいと思った。
まわりが暗すぎて、よく見えない。
気を悪くしたのだろうか? 入らず山に侵入するにあたり、できるだけ口は利くなと注意されていただけに、怒らせたら目も当てられない。
ちがう――祖父の様子が変だ。
ゆっくりふり返った。
それは見なれた、あの丁次ではない。
それはうめいていた。
誰がこんなことをしたのか! 瞼や唇が閉じられ、開かぬよう黒い糸で縫い付けられていた。
悲鳴すらあげることができず、むーむーと喉の奥でくぐもった声をしぼり出しているではないか。
それだけではない。
あるべきところに、あれがない。どうりで不自然な頭部だと思った。
耳がないのだ!
本来あった部分には、無残な切り口があき、この暗がりのなかで、頬からあごにかけてマシンオイルじみた黒い血液をたらたらと流していた。鋭利な刃物でそぎ落とされたにちがいない。耳はどこにも落ちていなかった。
治彦は悲鳴を押し殺し、とにかく丁次の身体を支えた。その場にしゃがませ、落ち着かせる。
山に入るまえ、丁次からもらった小型ナイフの刃をおこす。切っ先を相手の唇に近づける。
手のふるえがとまらない。丁次自身も苦しみ悶え、身体をよじらせている。へたにやると、よけい怪我させてしまう恐れがあった。
耳からの出血で、すでに治彦の手がベタベタだ。
「じいちゃん、苦しいだろうが我慢して。すぐにこの糸を切ってやる」
ナイフの刃先を上にして持ちかえ、唇にあてた。黒い戒めを引き上げるようにして切ろうとした。
唇を縫い付けてあったのは、ただの糸ではない。
なんと、人間の髪の毛を編んだ紐状のものだ。瞼をふさいでいるのも、長い毛髪をより合わせて作った紐だ。いったい、どうやって縫い付けたのか?
紐を引き切ると、蛭のように絡みついた。
治彦はうめいて手をふり払った。
どうにか口が動くようになった丁次は息をあえがせ、こう叫んだ。
「おれを置いて逃げろ、ハル坊!……おれがまちがってた。こんなとこに来たのがいけねえんだ。奴を出し抜くなんて、人間さまは傲慢すぎた! すまん、おれたちはこんなところに来るべきじゃなかった!」
その瞬間、治彦は眼を醒ました。思わず半身を起こした。
あまりの疲労で、倒れた拍子にうたた寝したらしい。まわりを見まわしたが、あいかわらず『入らず山』の真っただ中だった。
ひたすら密度の濃い森にいる。いまだ出口は見えない。
丁次とはぐれてから、いったいどれほどの時間がすぎたことか。