四話 強襲、エビル・クラーケン
「みんな起きろぉぉぉぉっ!! 敵襲だぁぁぁっ!!!」
カンッ!! カンッ!! カンッ!! と見張り台にいた男が鳴子を強く打ち付け、船員たちに非常事態が起きたことを知らせる。
月明かりが照らす海域の只中にある連絡船。
その周囲には一見何もいないように見えるが、叩き起こされた船員たちは寝ぼけ眼を擦りつつ足早に持ち場へと向かい、発光鉱石で作られた探照灯で辺りを照らす。
そして、探照灯に照らされし出された『敵』を見た途端、全員の眠気が吹き飛んだ。
段々と海面へとせり上がってくる『敵』はまるで船と並走するようにその白い巨体を動かす。
その白い巨体には無数の手が生えており、その一本一本が人間の数倍の太さを持つ。
ようやく露わになったその全長は、この連絡船を優に超えていた。
「嘘だろ……あれはエビル・クラーケンじゃねぇか!? なんでこんな所に沸いてやがる!?」
「エビル・クラーケンって、あのS級討伐対象に指定された……」
「くそっ!! あと少しでガルグイユに着くっていうのに!!」
「来るぞぉぉぉっ!! 障壁を展開しろおおおおっ!!」
見張りの男が叫ぶと同時に襲い掛かって来る巨大烏賊エビル・クラーケンの触腕。
直撃すればこんな木製の船では一溜りもないが、ギリギリ展開の間に合った障壁術によってその攻撃はガードされる。
しかし、完全には防ぎきれず、その余波は船内を大きく揺らす。
「畜生!! 今ので障壁術師が一人倒れやがった!! なんつう威力だ!?」
「攻撃魔術が使える奴はありったけ叩き込め!! 奴を近づけさせるな!!」
船員たちは各々が使える攻撃魔術の詠唱を始め、次々と放つ。
巨大烏賊に降り注ぐ火炎球や雷。
だが、そのどれもが烏賊の皮膚に触れる前に展開された障壁によってかき消されていた。
「何だと!? 烏賊野郎が障壁魔術を使いやがった!?」
「大砲を持って来い!! 弓も銃も使える物は全部使え!!」
エビル・クラーケン自体が障壁を展開したことに驚きつつも、船員達は応戦し続ける。
いや、応戦せざるを得ないと言った方が正しいか、この連絡船の性能ではエビル・クラーケンを振り切ることは到底かなわず、降参した所で命はない。
残っている術者たちが障壁魔術で何とか触腕による攻撃を防ぎ、その後ろから放たれる魔法、矢、銃弾、砲弾、とありとあらゆる飛び道具がエビル・クラーケンに襲い掛かる。
しかし、そのどれもがエビル・クラーケンに大したダメージを与えることは出来ず、触腕が叩き付けられた障壁への多大なダメージが反映されて障壁術師が一人、また一人と倒れ、とうとう最後の一人になった。
「くっ……っ!!」
しかし、その術師にも相当の負荷が掛かっていたのか、膝をついてしまった。
何とか片手を前に出して障壁の展開こそ維持しているが、一撃防ぐにはあまりにも心もとない、弱々しい障壁だ。
「来るぞおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
しかし、エビル・クラーケンは慈悲も容赦も持ち合わせていない。あるのはただ、人間を食らいたいという本能だけ。
しかし、獲物が簡単に手に落ちてくれない事に苛立ったのか、今までより強い勢いでその弱々しい障壁目掛けて放たれる二振りの触腕。
他の誰もが諦め、目を閉じるが、障壁術師は諦めない。雄たけびを上げて最後の力を振り絞り、一瞬だけ障壁が強くなる。
その直後に障壁に叩き付けられる触腕。しかし、拮抗したのはほんの束の間。限界を迎えた障壁が、崩壊を始める。
「ここまでなのか……くそっ!!」
「いいえ、良く止めてくれましたわ」
障壁術師の声に対して返答したのは、凛とした少女の声だった。
次の瞬間、恐る恐る目を開けた船員たちは、信じられない物を見ることになる。
ひび割れ、崩れゆく障壁を超えてきたエビル・クラーケンの両触腕の先端が、何者かによって綺麗に一刀両断されていたのだ。
切り落とされた触手の先端はボトリ、と音を立てて甲板に落ち、未だにうねうねと蠢いている。
「何だ……何が起きた!?」
「上だ!! 見張り台の所!!」
船員の一人が声を上げ、そのほかの全員が帆に設置された見張り台を見る。
そこには、月明かりに照らし出された一人の少女がいた。
色取り取りの花が描かれた黒い東の国の装束を着た少女は頭に狐の耳を、そして腰に七本の尾を持ち、その顔にはいつもと変わらず蠱惑的な笑みを浮かべている。
その白くか細い手には、まるで常闇を物体化したような、そんな表現がしっくりくるほど黒い刀身を持つ打刀が握られていた。
「獣人族の女の子……? いや、それにしては尻尾が多くないか?」
「しかも、あのエビル・クラーケンの触手を一撃で切っただと……?」
「いやー、流石は月夜羽々斬。『千変万化の切れ味を』って売り文句は伊達じゃないぜ」
あまりにも現実離れしたその光景に呆然としている船員の間を、一人の少年が称賛の言葉を漏らしながら歩いていく。
見張り台に立つ狐耳の少女と同じく東の国の着物を羽織り、額には傷の入った黒い鉢金を付けた少年だ。
その手には黒い鞄と、大型の骨で作られたのか真っ白な細長い筒の様な物を持っている。
「お、おい。坊主。お前、あの娘のことを知っているのか?」
「知ってるも何も、七奈は俺の最高の護衛だぜ。あの刀も俺が鍛えたしな」
「遅れて申し訳ありません。どうもブヨブヨした物への最適化は苦手でして」
そう言いながらも見張り台からマストの梁を伝い、軽やかにムクロの前に着地する七尾の狐少女、七奈。
頭に黒い鉢金を巻いた少年ことムクロは鞄を甲板に置くと、たまたま隣にいた船員に尋ねる。
「なぁ、あいつって何属性の攻撃が効くんだ?」
「? 一応、火か雷が有効って話を聞いた事があるが……」
「なら、こいつで決まりだな」
ムクロは懐から取り出した黄緑色の液体が充填された小瓶を、骨で作られた筒の中に装填し、自らの触腕が断ち切られたことに驚きを隠せないまま、七奈の斬撃を警戒して距離を開けたエビル・クラーケンに向けて構える。
「コイツを食らいなこの烏賊野郎!! 人の風呂の時間を邪魔しやがって!! 酒の摘みにすっぞ!?」
罵声と共に筒に施された引き金を引くムクロ。
すると、その動作に連動して筒の中に込められた瓶の液体が内部で縮退、融合を始め、砲身が青白い光を帯び始める。
そして光が臨界まで強まった瞬間、その砲口から青白い光がエビル・クラーケンに向けて一直線に吐き出される。
「まさか……そいつは魔水銃か!? けど、そいつは確か射程が短いんじゃ……」
魔水銃。
それは技術の発達により生まれた、この世界の新たなる飛び道具である。
魔力の込められた液体、通称エーテルを筒内部に施された結界や障壁を用いて限界まで魔力を縮退させることによって、疑似的に攻撃魔法や魔術と同じ現象を起こす武器だ。
原理的に言えば、水の入ったタンク内に圧縮空気で圧力を加え、それを解放することで水を長距離まで飛ばす水鉄砲と似ている。だが、現行出回っている物は技術不足なのか、すぐに縮退させた魔力が拡散してしまい、射程が短い。
「はっ!! 俺の品を甘く見て貰っちゃ困るぜ!! 魔水長銃は――――———そこまで届くんだよぉっ!!」
ムクロの自信ありげな声と共に、夜の海に響き渡るおぞましい鳴き声。
その声の正体は、法撃がエビルク・ラーケンの展開した障壁を貫通し、ひれを貫いていた事による不快さから来たものだった。
ムクロの放った法撃は届いていたのだ。
「まだまだぁ!! だらっしゃああああああああっ!!」
だが、ムクロの攻撃はそこで終わらない。
ムクロは『魔水長銃』の引き金を引いたまま、反動に負けないように足を踏ん張って銃を振った。本来なら単発しか放てない筈の法撃を一直線に照射したまま。
それによって強制的に向きが変えられた法撃はジリ、ジリと音を立ててエビル・クラーケンのひれを焦がし、そして溶断した。
こちらの攻撃が通ったことに、船員たちは歓喜の声を漏らす。
「すげぇぜあの兄ちゃん!! 見たことも無え道具使ってあのエビル・クラーケンに一撃かましやがった!!」
「一体、どこの工房のやつを使ったんだ?」
「ふふん、どうよこの性能!! まだ試作品だが、この『魔水長銃』は魔水銃の欠点である射程を伸ばす事だけに念頭を置いた品だぜ!! まぁ、見ての通り本体はデカくなっちまったし連射も出来ないが、代わりに威力は折り紙付きだし今みたいに魔法撃を放出したまま薙ぎ払うなんて芸当も出来るん――――――――」
「宣伝してる場合ですかムクロ様!? まだ相手は生きています!!」
『——————————グオオオオオオオオオオオオッ!!』
思わず得意げになって今しがた使った魔水長銃の宣伝を始めるムクロだが、それを遮るかのように怒りの咆哮を上げるエビル・クラーケン。
どうやら自分のひれを貫かれたばかりか切断されたことに大層ご立腹らしい。
烏賊などの軟体動物には『痛み』と言う概念は無いらしいが、やはり『不快な刺激』としては感知しているようだ。
「ちっ、ひれだけにしといてやったのに、まだおいたが足りないか? なら今度はそのイカ腹をぶち抜いて……ん?」
改めてエビル・クラーケンに対して魔水長銃を構えるムクロだが、ふと彼の鼻腔を嗅ぎ覚えのある臭いがくすぐった。
ツンとした酸っぱい臭いだ、同時に何かがシュウシュウと音を立てている。
まるで、酸が物を溶かした時に起きるような――――――――
そんな嫌な予感と被筒を支えていた指に妙な熱さを感じた瞬間、骨で作られた砲身が異様な音を立ててボコボコと膨れ上がった。
「やべぇ!? 爆発するぞ!!」
それを見るや、ムクロは狙いを付けるのを止めて慌てて銃床を持ち、砲身が膨れ上がった魔水長銃をエビル・クラーケン目掛けて遠投する。
見えていたのか、エビル・クラーケンはそれに反応し、それを腕で弾き飛ばそうとしたその瞬間、限界まで膨れ上がった魔水長銃はその場で雷属性の魔力を爆発的に放出し、爆発四散した。
弾き飛ばそうとした腕はその爆発に吞まれ、先端から少しが千切れ飛んだがそれだけだ。大したダメージにはなっていない。
「おい!? 銃が爆発しちまったぞ!?」
「うーん、やっぱり獣の骨じゃ縮退させた魔力に耐え切れなかったか。それとも俺が無理矢理照射して撃ったのが不味かったかいやいやあれは量産品にも搭載する予定の機能だからそれに耐えきれる本体じゃないとまずいのかとなるとやはり大型飛竜クラスの骨でも使わないと強度が確保できない――――――」
「冷静に分析してメモしてる場合か!? どうすんだよ!?」
「もうダメだぁ……お終いだぁ……」
「まぁまぁ焦りなさんなって。何も俺の作品はあれだけじゃないんだぜ?」
唯一の飛び道具である魔水長銃が爆発したというのに、悠々と改良案と反省点をメモしていたムクロに対して船員が悲痛の叫びを上げる。
だが、ムクロは特に焦る様子もなく船員の一人に『箱庭』を預けると、空中に手をかざす。
すると、一瞬だけ紋章の様な物が出現し、その中から彼の武器が姿を現す。
ムクロは自分の作り出した圧縮空間である『箱庭』から、直接武器を転送したのだ。
それは、一見すると巨大な『盾』だった。
竜の頭を模して造られたその黒い盾はムクロの体の殆どを隠してしまうほど大きく、攻撃用なのかその表面には無数の打突用の棘が見られる。
だが、その裏側は決してこれがただの盾ではないことを物語っていた。
中央には鞘ごと剣が装備され、その脇には色こそ違えど先程ムクロが魔水長銃に装填した物と同じ、エーテルが充填された小瓶がいくつも詰め込まれたケースが取り付けられている。
そして、その先端にはこれまた打突用なのかやや大きめの杭が装備されていた。
「すごいだろ? 四十二式魔力解放盾と三十七式魔力吸撃剣の合わせ技だぜ」
ムクロは唖然としている船員に一言そう言うと、上部に突き出ていた剣の柄を握り、抜刀する。
磨き上げられた竜骨を用いて作られたその白い剣は刀身こそ標準的な長さだが、その厚みが違う。
激しい打ち合いに耐えるために作られたその刀身は、もはや盾としての運用が可能なレベルの肉厚さを持つ。
だが、当然ながら剣の形をしている以上武器としても機能し『切断』するのではなく『叩き切る』運用思想だと言う事が読み取れる。
その峰にも、一つだけではあるが液体の入った小瓶が半ば埋め込まれる形で搭載されていた。
「七奈、『蜘蛛の巣』は編み終わったか?」
「わたくしの方はいつでも」
「上等。んじゃ、お化け烏賊退治と行こうぜ!!」
ムクロは七奈の準備が整っているかを確認すると、七奈から受け取った小さな針状の何かを右足の裏に付けて手すりに飛び乗り、何と迫りくるエビル・クラーケンに向け、彼女と共に跳躍した。
跳躍した際に受けた力に耐え切れず、足蹴にした木製の手すりの一部が粉砕する。
妖怪である七奈はともかく、いくら鎧を着ていないとはいえあのような大型の武器を持ったまま、ましてや数メートルの高さにまで跳躍するなど人間では成しえない。
そう、普通の装備の人間なら。
(流石は物理転換帯……燃費はまだまだだが、いい性能してるぜ!!)
ムクロが大型の狼男の剣を持ち上げられたのも、今のこの跳躍も、全ては腰に巻いた『二十一式物理転換帯』によるものだ。
この装備は左腰に取り付けられた運動エネルギーを封入した赤いエーテル入りの瓶、通称『物理瓶』に内包された運動エネルギーを結界術式の応用で気化させたエーテルに乗せ、それを全身に纏うことで、物理的な身体能力を強化するという機能を持つ。
欠点はエーテルが切れるとただの重しでしか無い事と、今の様に長距離の跳躍などを行うと空気中に拡散した使用済みのエーテルが赤い粒子のように煌めいてしまい、隠密行動には向かない点だ。
たった一回の跳躍で左腰の瓶の液体が二割近く減ったことを確認すると苦笑いを浮かべるが、体勢を整えてエビル・クラーケンの触手に着地し、それぞれ別の触手の上に着地した二人は、その上を駆け抜ける。
ヌメヌメする触手の上を走れば誰もが滑るだろうと思うが、二人の履物の裏は接地用の棘が展開できるようになっており、それをスパイクにして安定した走りを見せていた。
二人に向けて襲い来る二つのエビル・クラーケンの触手。
七奈はそれを斬りつけながら進み、ムクロは避けるべくして跳躍する。
エーテルの残量がさらに減るが気にせず突撃、襲い掛かる触手を盾で受け流し、その後も何度も触手を踏みつけて、最も肉薄した所で垂直に飛び上がる。
最高高度まで到達し、斬りつける瞬間に柄に付けられたレバーを強く握る。
すると、刀身に接続された小瓶の中の魔水エーテルが逆流、骨製の刀身全体に徐々に浸透し、色が雷属性の象徴である黄緑色に変色した。
「ずおりゃぁあああっ!!」
ぶよぶよの白いイカ腹に、雷属性を纏った剣撃が襲い掛かる。
落下の勢いと物理転換帯によって強化された腕力が合わさったその一撃は、エビル・クラーケンの皮膚易々とを袈裟切りにし、飛び散って大気に触れ、酸素を含んだエビル・クラーケンの血液が青く染まる。
今の攻撃で瓶の中のエーテルが空になったのを確認してから、魔力解放盾に魔力吸撃剣を納刀すると同時にカラクリが機能し、空になった刀身側の瓶が排出され、盾に搭載されていた瓶がスライドして刀身に装填される。
が、ここまでの一連の動きで物理転換帯のエーテルの残量が尽きたムクロは、再び触手を踏んで飛び上がることなく、自由落下していく。
「おい!! あのままじゃ海に落ちるぞ!!」
「ところが、そうは行かないんだよなぁ……七奈ぁ!!」
「えぇ、こちらに」
だが、ムクロが海面に落下する寸でのところで、彼の体は空中で立っている七奈に受け止められる。
それを見た船員はホッとする一方、誰もがそれを浮遊魔術によるものだと思っていたが、雲の隙間から覗く月明かりが海面を照らし出した時、何人かの船員は気が付く。
そこに映し出されたのは、正しく『蜘蛛の巣』だった。
船体と触手の間を結ぶ三角形の鋼の糸で編まれた『蜘蛛の巣』の糸の上に、彼女は立っている。
いつの間に触手と船とを繋いだのか、その答えは至って簡単である。
最初に足の裏に付けていたのはこの『蜘蛛の巣』の角の一角であり、一度触手に飛び乗ったのは足の裏に付けた『蜘蛛の巣』の角を触手に埋め込むためだ。これは七奈の履物にも同様である。
そして、飛ぶ直前に船側に付けておいたもう一点とを結べば、三角形型の『蜘蛛の巣』は足場として機能すると言う訳だ。
一方、受け止められたムクロは七奈に背中と膝を抱えられた、所謂『お姫様抱っこ』と言う状態だが、特に恥ずかしがる様子も見せず、動きこそ止まったものの渾身の一撃を浴びせたにも関わらず即座に再生を始めているエビル・クラーケンを見てバツが悪そうに頬を搔く。
と言うのも、彼は七奈の様な驚異的なバランス感覚を持っている訳でも無いので、この状態から降りられない、と言う方が正しいが。
「一応効いてはいるみたいだが、いかんせん図体がデカすぎるな。斬っても斬っても霧が無いぜ」
「でしたら、『アレ』を使ってみては?」
「あー……『アレ』ね。けど、問題はあの船が『アレ』の重量で沈まないかどうか……ん?」
そこまで呟いたところで、ムクロは真下から別の気配を感じた。
海底から這い上がって来る。何か、大きく巨大な物が、しかしそれでいて身に覚えのある気配だ。
記憶を辿り、それが何かピンと来た瞬間、ムクロは叫ぶ。
「七奈!! 船まで戻れ!!」
ムクロの指示を一瞬不思議に思うも、七奈はピンと張られた『蜘蛛の巣』の弾みを利用してムクロを抱えたままその場から二、三回の跳躍を繰り返して、甲板に戻る。
その次の瞬間、エビル・クラーケンは海底から浮上した何かに持ち上げられた。
あまりにも勢いよく持ち上げられたせいで船側の『蜘蛛の巣』の固定が外れ、エビル・クラーケン共々天へと昇っていく。
月明かりに照らし出されたのは濃紺と白銀の鱗を併せ持つ細長い巨体で、月に向かって一直線に伸びたその様子は、まるで海から生えた空に続く柱の様だ。
あまりの大きさ故に、この連絡船以上の大きさを持つエビル・クラーケンすら小さく見える。
その『柱』はエビル・クラーケンを飲み込み、咀嚼するとゆっくりと頭を垂れ、連絡船の甲板にいる人物を見やる。
その瞬間、船員の殆どは恐怖を通り越して茫然とした。
当然だ、頭だけで先程のS級討伐対象魔物、エビル・クラーケンの倍近くの大きさを持つ巨大な『龍』に睨まれているのだから。
周りを見れば、その長い体がこの船の周りを囲んでいるのが分かる。その全長は先程のエビル・クラーケンとは比較にもならない。
エメラルド色の瞳と黄金に輝く巨大な角と牙を持った龍は船員を一瞥すると、その中の一人が嬉しそうに手を振っていることに気が付いた。
「おーい!! 水霊龍のおっちゃーん!!」
『その声……おぉ、クロガネの小僧か。いやぁ、久しいな。確か、依り代を直してもらった時以来か?』
龍はムクロを見つけると、懐かしそうに目を細める。
そう、この巨大な濃紺の龍こそ、ムクロがかつて依り代を直し、再び活動できるようにした海の守り神、『水霊龍』だ。
水霊龍とは、死に掛けの水生生物の魂と肉体を吸い、その鱗に膨大な魔力を蓄え、それを海全体に行き渡らせる役目を持つ霊獣の一種である。
本来なら人間には恐れ多い存在の筈なのだが、敬語を使わない上に『おっちゃん』呼ばわりしているムクロに、船員は畏怖すら覚える。
「おっちゃんも元気そうで何よりだぜ。それよりも、さっきの烏賊の化け物は何なんだ?」
『ここ最近は深海で今の烏賊が異常な繁殖をしていてな。環境が乱れてしまうことを危惧して狩りに出た。しかし、ちょいとわんぱくな奴がいてな。仕留めそこなったからこうして海面まで上がってきたわけだ。私も年老いたものだよ』
しかし、水霊龍はムクロの話し方や呼び方には一切気に留めず、話を続ける。
まるで友との語らいでも見ているような錯覚さえ引き起こすその光景を、未だに信じられないと言った様子で見ていた障壁術師の一人に、全身を振るって尻尾と髪の水気を飛ばした七奈が語り掛ける。
「あれが『クロガネ』、そしてムクロ様なのですよ。元々『クロガネ』とは人も妖も幽霊も対等に扱う鍛冶屋ですが、ムクロ様の場合はそれを更に推し進めた、とでも言いましょうか」
「と言うと……?」
「今見ての通り、ムクロ様は誰とでもああ言う風に接してしまうお方です。それが例え魔物だろうと、幽霊だろうと。かく言う私も、貴方方の基準で言えば魔物ですが、それでもムクロ様は私を師として、友として、そして姉として見てくれました……一つ欠点を上げるなら、あまりにもずけずけと踏み込んで行くものですから、皇族相手ですとたまに不評を買って護衛の相手が大変なくらいですわ」
けど、何度言っても懲りないんですもの。と付け加えて苦笑する七奈。障壁術師はその話を聞いてムクロへの考えが改まると同時に、自分の過去を述懐する。
碌な『固有魔法』やスキルを持っていなかったことから家庭でも冒険者育成学園でも軽蔑され、成績もそれほど高いものでは無かった自分。
それでも冒険者への夢を諦めきれず、必死になって身に着けたこの『障壁魔術』も持続性こそ高いが瞬間的な防御力に欠けるという理由で中々パーティーに編入させて貰えず、仮にそうさせて貰ったとしてもその場だけの物ばかりだ。
そして今では学院を自主退学し、こうしてリスクが高い割に報酬の少ない連絡船の護衛を務めて日銭を稼いでいる。
もしも学生時代、自分にあの様な友人がそばにいてくれたら、あのような家族がいてくれたら、自分は変わっていただろうか?
そんな疑問が、障壁術師の心中に浮かぶ。
それと同時にムクロの方も水霊龍との会話が終わったところらしく、その両手には幾つもの黄金色に光る巨大な牙を持っていた。
「良いのか? こんなに貰っちまって」
『なに、ちょっとした詫びみたいなものだ。さて、私の体は海上だとそれほど長く持たないのでな。この辺りで失礼させて貰おう』
「おう、おっちゃんも元気でな」
『人間よ、貴公らに波と風の加護のあらんことを。では、さらばだ』
水霊龍はムクロと茫然としている船員に別れを告げるとその身を海に沈め、本来の居場所へ、深い海の底へと帰っていく。
そして、再び静寂が海上に訪れた瞬間、一方向に向けて強い風が吹き始めた。
「風? ……しかもこの向きは……ガルグイユに向けてだ!!」
「生きた心地はしなかったが、取りあえず一難は去ったって訳だな……よーしお前ら!! 帆を下ろせ!! きっとこいつは水霊龍様が吹かしてくれた風だ!!」
「遅れを取り戻すぞ!! 何としても朝にはガルグイユに着くんだ!!」
しかし、海の男たちもまた逞しかった。
巨大な烏賊と海の守り神に連続で遭遇した後だというのに、恐怖にその心を完全にへし折られること無く、一難が去ったのを感じるとすぐに本職にへと戻っていく。
流石に怪我人は仕事に参加出来ないせいで動ける人員は半分以下になっていたが、その気合いは船中に伝播し、船員たちの士気を上げる。
「これにて一件落着、でしょうか?」
「そうだな。あとは本職に任せときゃ大丈夫だろ」
ムクロは『箱庭』に黄金に輝く牙を放り込んでから担ぐと、おもむろに船首へと向かい、まだ見ぬ西の大陸に向けて叫ぶ。
「待ってろよ新大陸!! お前んとこにある素材、全部試してやるからな!!」
こうして『クロガネ』を乗せた船は、徐々に西側の港町 ガルグイユに向けて進んでいく。
その胸に、未知なる素材への好奇心と、ある一つの誓いを秘めて。
「そして……見ててくれよ、おやっさん!! 俺は創り上げるぜ、俺だけの『クロガネの武装制覇』をな!!」