魔獣
レイチェルはフロントガラスの向こうに信じられない光景を目にして急ブレーキをかけた。幸い、通行量の少ない郊外の道路だったので、後続車がレイチェルの車に激突するようなことはなかった。それまで助手席で居眠りしていたマイケルが驚いたように運転席のレイチェルの横顔を見つめた。
「おい、一体どうしたんだ?」
マイケルは抗議するように言った。
「……あれ」
レイチェルはフロントガラスの向こうに目を向けたまま、掠れた声で言った。
「……一体どうしたんだよ」
そう面倒臭そうな口調で言ったマイケルは正面に視線を向けて絶句した。なんと、車からほんの数メートル先の空間に、紫色がかった黒い皮膚を持った、得体の知れない、翼を持った巨大な生物がいるのだ。体長は優に十メートルは超えているだろう。翼を広げればもっとになりそうだった。その生物の後ろ姿は蝙蝠に似ていた。その生物はレイチェルたちに対して背を向ける格好で、アスファルトの道路に落ちているものを夢中になって貪っているようだった。よく見てみると、それは人間だった。巨大な生物の翼のあいだから、人間のものと思われる、手足が覗き見えていた。
……大変だ。人が襲われている。レイチェルは少しのあいだあまりのことに我を忘れていたが、ふいに職務を思い出して、乗っていた車両から飛び出して行った。さっきに比べるといくらか小雨になってきているとはいえ、相変わらず降り続ける雨がレイチェルの衣服を冷たく湿らせていった。
「気をつけろ」と言いながら、マイケルがあとからついてくる。レイチェルは銃を構えた。
「やめないさい!」
レイチェルはその蝙蝠のような後ろ姿をした、巨大な生物に対して命令した。しかし、無論、獣がレイチェルの言葉を解するはずもなかった。肉を食するクチャクチャとした不快な音がレイチェルの耳に聞こえてくる。しかも、それは恐らくは人間の肉を食べている音なのだ。
「やめなさいって言ってるでしょ!」
レイチェルはそう言ってから、紫色がかった、黒い滑らかな皮膚を持った生物の背中に向かって銃弾を発砲した。銃弾は見事に生物の背中に命中した。しかし、それは生物に致命傷を負わせることはできなかったようだった。生物はキィーという鳥類を思わせる鳴き声を上げると、食事を中断して、レイチェルの方へと向き直った。レイチェルは正面から見た、その生物の恐ろしい容姿に、激しい恐怖を覚えないわけにはいかなかった。顔はどちらかというとネコ科の生物を思い起こさせ、その顔はびっしりと黒い体毛で覆われていた。不気味な赤い光を放つ目が四つあり、口は耳元まで大きく裂け、その口からは鋭角的な歯が覗き見えた。顔とは対照的に腕は無毛で、背中に生えた二枚の翼同様、紫色がかった黒色をしていた。しかも、腕は四本あり、手には鋭い爪があった。腕の一本は、千切り取ったものなのか、男性の頭部らしきものを握りしめていた。胴体は腕同様に無毛で、腹にかけての部分は蛙を思わせるつるりとした白色をしていた。
「ゴォウ!」
その明らかに地球上の生物ではないとわかる、恐ろしく醜い姿をした生物は大きく口を開くと、レイチェルとマイケルのふたりを威嚇するように吠えた。レイチェルとマイケルのふたりはありったけの銃弾を、目の前の巨大な生物に対して打った。銃弾が命中すると、獣は顔を反らして苦悶の表情を浮かべたが、しかし、その放った銃弾に対して相応しいだけの効果は出ていない様子だった。その赤く光る四つの目を持つ獣は、ゆっくりと、レイチェルとマイケルのふたりに向かって前進してきた。そのうちに銃弾を打ち尽くしてしまったらしく、レイチェルは銃弾を発砲することができなくなった。それはマイケルも同じらくし、すぐ側でマイケルが銃の引鉄だけをひくカチャカチャという音が聞こえてきた。
「ゴォウ!」
すぐ目の前まで迫ってきた獣が再び大きく口を開いて吠えた。それと同時に獣の口から生臭い匂いが漂ってくる。
「逃げよう」
隣でマイケルが言った。レイチェルは無言で頷くと、巨大な生物に背を向けると、全速力で走り出した。しかし、そのふたりの行動を予測したかのように、獣は軽く飛び上がると、レイチェルたちの進行方向に舞い降りた。そして、追い詰めたぞと言わんばかりに小首を傾げて、レイチェルとマイケルのふたりを見下ろした。
どうしよう…。レイチェルは判断に迷った。銃弾の替えならあったが、それは車のなかだった。…逃げるしかない。でも、どこへ?逃げたとしても、さっきのようにすぐに追いつかれてしまうだろう。それに、そもそも、敵に無防備な背中を見せて逃げるなんて危険じゃないだろうか。さっきは気が動転していたのか、迂闊にもそのまま逃げだしてしまったが……。
レイチェルがそんなことを思考していると、獣が四つあるうちのひとつの腕をふたりに向かって振り下ろしてきた。ビュン!という風を切る音が聞こえ、レイチェルは咄嗟に屈んでその攻撃を交わした。が、しかし、マイケルは一瞬反応が遅れてしまったようで、辛うじて直撃を避けることはできたものの、マイケルの身体は化け物の腕にはね飛ばされて、軽く三メートル程宙を舞い、やがてアスファルトの地面に叩き付けられた。
「マイケル!」
と、レイチェルは振り向いて同僚の名前を叫んだが、返事はなかった。レイチェルは同僚の方の向けていた顔を、正面の化け物の方へと戻した。
「グルルル」
という獣の喉を鳴らすような音が聞こえた。
「グワォウ」
獣はその巨大な口を開いて、レイチェルに向かって咬みつこうとしてきた。
……駄目だ。もう逃げられない!レイチェルは観念して瞳を閉じた。しかし、その瞬間、不思議なことが起こった。獣は突如として仰向けにひっくりかえると、身体を激しく痙攣させながら苦悶の声を上げ始めたのだ。
レイチェルが呆然として獣の様子を見下ろしていると、獣の身体からは何か白い煙のようなものが上がりはじめ、獣の身体は半ば溶解し、やがて動かなくなった。レイチェルは獣が完全に動きを停止したことを確認すると、慌てて跳ね飛ばされた同僚のもとへと駆け寄った。