玲奈の話
7
「雨」
自分のことを、月島玲奈と名乗った女の子は、窓の外に目を向けると言った。
「雨か」
樹も玲奈の言葉に誘われるようにして、窓の外に目を向けてみた。今日一日は持つだろうと思っていたのだが、とうとう降り始めたようだった。傘は持ってきていなかったので、あとでコンビニで買わなければならないな、と、樹はちょっと憂鬱な気持ちで思った。
今、樹と、和也のふたりは、月島礼奈と向き合うような形で学食の椅子に腰かけていた。あのあと、月島玲奈と名乗った女の子……ふたりの前で超能力のような力を使って見せた女の子に、樹と和也のふたりは、話したいことがあるからと言って、この学食に連れてこられていた。そしてほんの数分前に、三人はお互い簡単に自己紹介を済ませたところだった。ちなみに、玲奈は学部は違うが樹たちと同じ大学に通う大学生で、年齢も樹たちと同じ二十歳であるらしかった。
「でも、きみが突然現れたからびっくりしたよ」
と、和也は玲奈の顔を見ると、微笑して言った。
「まさにナイスタイミングだったでしょ?」
玲奈は和也の顔を見ると、得意そうに微笑して言った。
「あなたたちふたりが学食で魔法について話をしているのが偶然耳に入ったのよ」
と、玲奈は続けて説明した。
「だから、もしかしたらって思って、あなたたちのあとを追うことにしたの。そしたら、案の定、あなたたちふたり、まるで一目を避けるみたいに森のなかに入っていくでしょ?だから、間違いないって思ったの。あなたたちも、わたしと同じなんだって確信したの」
玲奈はそう言ってから、口元にどこか不適な笑みを浮かべて、樹と和也のふたりの顔を見回した
「……それで、俺たちに話したいことっていうのは?」
樹は自分と向かい側の席に腰かけている玲奈の顔を真っ直ぐに見つめると、訊ねてみた。自分たちのことを尾行していたことといい、あの力のことといい、彼女は一体何者なんだろうと樹は気になった。
「……わたしの父が言っていたのよ。近いうちに、大きな転機が訪れるだろうって。お前と同じような力が使える者が現われるだろうって……」
玲奈は樹の顔を見つめ返すと、緊張しているような面持ちで告げた。
「……お父さん?」
樹はいくらか不思議に思って玲奈の言葉を反芻した。どうして彼女の父親が出で来るのだろうと樹は思った。
「……もしかして」
それまで黙っていた和也が玲奈の顔を見ると、遠慮がちな声で言った。玲奈は何?といように和也の顔を見つめた。
「……そのお父さんの名前って、もしかして、月島大輔だったりする?」
「……そうだけど?でも、どうして?」
玲奈は訝しむように和也の顔に向けていた目を軽く細めた。
「……そうか。やっぱり」
和也は興奮した様子でひとりごちると、
「いや、最初、月島っていう苗字を耳にしたとき、もしかしたらそうなんじゃないかって思ったんだよ」
和也は表情を輝かせて言った。
「以前、本で読んだんだ。月島大輔には娘がひとりいるって。だから、もしかしたら、そうなんじゃないかって思ってたんだけど……でも、まさか、こんなところで、あの月島大輔の娘と会えるとは思わなかったな」
「ちょ、ちょっと待って。どういうこと?」
樹は全く話の流が読めなかったので、いくらか慌てて訊ねた。
「月島大輔って誰?もしかして、和也の知り合いか誰かなの?」
「いや、そうじゃないよ。えーと、なんと言ったらいいのかな?」
和也は樹の顔を見ると、眉を八の字にして、いくらか困惑した様子で言った。
「樹は知らないの?」
と、和也は続けた。
「月島大輔って言ったら、オカルト界では知らないひとはいないっていうくらい有名なひとだよ。ときどきテレビにもでてるし」
「ほら、よく、超常現象番組とかで、奇抜な意見を言ったりする、コメンテイターがいるでしょ?いつも黒い帽子を被った」
樹が黙っていると、更に和也は続けて言った。それで、ようやく樹もピンと来た。
「もしかして、月島妖怪博士!?」
それは痩せて背の高い、いつも黒い帽子を被っている男のひとだった。樹もテレビで何度か目にしたことがあった。かなりとんでもない、常識外れな意見を言うひとで、いつも司会者や、番組の共演者から失笑を買っている印象があった。見た目は四十代後半から五十代前半といったところで、なるほど、その年齢を考えると、確かに彼が玲奈の父親だったしても頷けると樹は思った。
「妖怪博士は渾名で、本名じゃないわ」
玲奈は樹の発言に少しだけ迷惑そうに唇を尖らせて言った。
「ごめん」
樹は玲奈の顔を見ると謝った。
「べつに謝らなくてもいいけど」
玲奈はどことなく不機嫌そうな表情で答えた。
「僕、月島大輔の大ファンなんだよ」
和也は玲奈の顔に改めて視線を向けると、感激した口調で言った。
「月島大輔の本は全部揃いで持ってる」
「……そ、そうなんだ」
玲奈は和也の発言に、いくらかリアクションに困っている様子で頷いた。
「……あのさ……ちなみに、俺、その月島大輔っていうひと……月島さんのお父さんのこと、大してよく知らないんだけど、一体どんなひとなの?テレビで奇想天外なことばっかり言ってるひとだっていうイメージしかないんだけど……」
樹は気になったので、和也の顔を見ると訊ねてみた。樹もオカルト関係の話は嫌いではなかったが、しかし、和也のように、わざわざ自分で書籍等を買い求めたりする程ではなかった。
「月島大輔は……月島さんのお父さんは、主に、魔界……魔族に関する書籍を多く出しているんだ」
和也は樹の顔を見ると、生真面目な表情をしてそう答えた。
「魔族?」
と、樹は和也の口からでて来た単語がかなり突拍子もないものだったので、思わず繰り返して言った。そしてそう言ってから、いかにもあの人が研究していそうなことだなと呆れるように樹は思った。
「……樹が、魔族とか、魔界とかって聞いて、あり得ないって思うのはわかるよ」
和也は樹のリアクションに、軽く不満そうに唇を尖らせて言った。
「でも、月島先生の本は、そこらへんのオカルニストのひとたちが出している本とは違って、かなり説得力があるんだ。ほんとうに、そういった世界があるのかもしれないって思わせるものがある」
「ふうん」
樹は和也の熱を帯びたような口調とは対照的に覚めた気持ちで頷いた。タイムトラベルや、UFOならまだしも、魔界や、魔族といった話になってくると、あまりにも常識からかけ離れ過ぎていて、樹としてはとても真剣に耳を傾ける気になれなかった。というより、拒絶反応を起こしてしまう自分がいる。魔族なんてあり得ない、と。漫画じゃないのだから、と。
「魔界というのは、今、わたしたちが存在している世界とはべつの世界に存在しているのよ」
それまで黙っていた玲奈が和也を弁護するように口を開いて言った。樹は玲奈が突然話はじめたので、少し驚いて玲奈の顔を見つめた。
「べつの世界?」
樹は玲奈のその整った顔立ちを見つめながら、繰り返して言った。
「樹」
と、玲奈は初対面であるにもかかわらず、樹のことを呼び捨てにして言った。
「あなたが魔界なんてあるわけがないと思ってしまうのは無理ないけど、でも、それは確かに存在しているのよ。魔界というのは……なんていうのかしら?……一種のパラレルワールドなの。樹もパラレワールドっていう単語くらいは聞いたことあるでしょ?」
「……あることはあるけど……」
樹は玲奈の迫力に圧倒されるように小さな声で答えた。樹も一応パラレルワールドという概念は知っていた。たとえば、物語のなかで、主人公が過去に戻って自分の両親を殺したとすると、今度は生まれてこないはずの主人公がどうやって両親を殺すことができのたかという矛盾が生まれることになる。このとき、この矛盾を上手く解決してくれるのが、パラレルワールドという考え方だった。つまりに、もともと主人公がいた世界はÀで、主人公が自分の両親を殺した世界はAの世界から発生したBという世界になり、両者の世界はそれぞれべつべつに存在していくので問題はないという考え方である。
「じゃあ、樹も知っていると思うんだけど、近年、物理学の世界でも、このパラレルワールドというのは実在しているんじゃないかっていう観測結果が報告されはじめているの」
玲奈は樹が黙っていると話続けた。
「ほんとに!?」
樹は驚いて目を見張った。仮にも物理学を専攻している学生であるにもかかわらず、勉強不足だと言われればそれまでだが、樹は今までそのような事実を知らなかった。
玲奈は樹の顔を見て首肯すると、続けた。
「わたしたちが普段知覚することができないだけで、実は、パラレルワールドというものは無数に、恐らく、無限に存在しているのよ。そこには、このわたしたちが暮らしている現実世界とほとんど変わらない世界もあれば、明らかに違いのある世界、物理法則が全く異なる、異世界のような世界も存在しているの。そしてそういった世界のひとつに、魔界という世界は存在しているのよ」
「……」
樹は玲奈の理論整然とした説明に反論することができなかった。玲奈の話には不思議な説得力があった。もしかすると、ほんとうに玲奈の言う通り、パラレルワールドというものは存在していて、なおかつ、魔界という世界も実在するんじゃないかと樹は思えてきた。
「……月島さんはやけに詳しいんだね」
樹は玲奈の顔を感心して見つめながら言った。
「まるで実際にその世界を見てきたような言い方だけど……」
玲奈はそう言った樹の顔を、少し哀感を含んだ眼差しで見つめた。
「実を言うと」
玲奈は軽く言い淀んでから言った。
「……たぶん、信じてもらえないだろうけど……母は…わたしのお母さんは……異世界……魔界からこちらの世界にやってきたひとだったの」
玲奈は少し小さな声で告げた。