第一章・魔法と魔力 1
第一部 魔界と魔力
一
日本。東京都。
1DKのキッチンにあるダイニングテーブルで、ひとりの男が今朝食を食べている。彼の名前は藤井樹といい、年齢は先月の七月で二十歳になったばかりだ。身長は百七十三センチ。どちらかというと細身の身体つきをしている。中学、高校とずっとテニスをやっていた。長過ぎない髪の毛は薄い茶色に染められている。顔立ちは比較的整っている方ではあるが、のんびりとした、優しそうな雰囲気の顔立ちのせいもあってか、ぱっと見は、あまり美男という印象を受けない。ともすれば、どこにでもいそうな顔立ちをしているようにも見える。そのせいか、藤井樹は頑張ればジャニーズ事務所にも所属できそうな容姿をしているにもかかわらず、あまり異性に持てたという記憶を持たなかった。
彼は都内から少し離れた理系の大学に通っており、専攻しているのは物理学だった。樹は高校を卒業するのと同時に東京にある今の大学に進学した。そしてそれに伴って西武沿線の駅近くにある今のアパートで一人暮らしをはじめた。最初の頃は料理や洗濯といったものが上手くこなせなくて苦労したのだが、最近はだいぶ慣れて来て、自分でも感心してしまうくらい、樹は手早くこなせるようになってきた。ちなみに、今日の朝食のメニューは、トーストと目玉焼きとソーセージとインスタントのコーヒーだった。
樹はコーヒーを飲み干してしまうと、おもむろに、右手の掌をダイニングテーブルの上にあるマグカップに翳した。すると、マグカップはふわりとひとりでに宙に浮き上がり、樹が一人暮らしをしているアパートの天井付近まで到達した。樹はそれを見届けてから、今度はマグカップを自分の手元に引き寄せた。……やはり間違いない。樹は自分の手元に収まったマグカップに視線を落としながらひとりごちるように思った。本当にできるんだ。樹は思った。これはちゃんとした、ほんものの現実なんだ。樹は怖いような、嬉しいような気持ちで思った。
樹がこの一見、超能力のような、魔法のような力が使えるようになったのは、つい昨日の夜のことだった。
その日、大学から帰って来た樹はとりあえずという感じでソファーに腰を下ろすと、テレビをつけようとした。だが、そのとき、いつもソファーの下に設置してある、リモコン置きにあるはずのリモコンは、今朝使ってそのままにしてしまったのか、テーブルの上にあることに樹は気がついた。リモコンを手に取るためにはソファーから立ち上がってテーブルの前まで移動しなければならない。べつに大した距離ではないのだが、そのとき樹は疲れていたこともあって、いちいちリモコンを取るために立ち上がるのが億劫だった。いっそのこと、超能力みたいに、手を触れずにリモコンを手元に引き寄せることはできないものだろうか。樹は半ば本気でそう思った。
すると、驚いたことに、それまでテーブルの上にあったリモコンはひとりでに空中に浮き上がったかと思うと、空中をそのままするすると移動し、ソファーの上に腰掛けている樹の手元に収まった。
樹は驚いて目を見張った。自分は夢でも見ているのだろうかと樹は思った。試しに樹は自分の頬を抓ってみたが、ちゃんと痛みはあり、どうやら夢を見ているわけではなさそうだった。一体何がどうなったのだろう。もしかして、自分は超能力に目覚めてしまったのだろうか?樹はわくわくするような、恐れるような気持ちで思った。
樹はそれからさっきとは逆のことを試してみることにした。つまり、今、手元にあるリモコンをテーブルの上に戻すことはできるだろうかと樹は考えたのだ。すると、驚難なく、リモコンをテーブルの上に戻すことができた。樹がリモコンをテーブルの上に戻そうと頭のなかで思うだけで、手もとにあるリモコンは空中に浮かびあがったかと思うと、空中を移動し、ひとりでにテーブルの上に着地した。
樹は何かの加減でたまたまこういうことができたのかもしれないと思って、その後、何度か同じことを試してみたのだが、本当に、信じられないことに、何度やっても、同じことを再現することができた。リモコンは何度でも、樹がただ思うだけで、空中に浮かび上がり、樹が思う通りに空中を動いてくれた。一体何をどうやったらこんなことができるようになったのか、樹自身にも皆目見当もつかなかったが、とにかく、自分は念動力のようなものが使えるようになったのだ、と、樹は興奮しながらその日はベッドのうえで眠りに着いた。
そして翌日、つまり今日だが、もしかすると、もう念動力のような力は使えなくなっているんじゃないかとびくびくしながら、樹は昨日と同じことを試してみた。それがさっきのマグカップの実験である。
実験は上手くいった。樹はまだ自分には力が使えることを確認した。未だに上手く信じられなかったが、自分は念動力が使えるようになったのだ、と、樹は興奮しながら思った。早速、このことを友達に自慢しよう。樹は考えた。きっとみんなさぞかしびっくりすることだろう……いや、案外、何かの手品の類だと思われてしまって終わりだろうか……樹がそんなことを思いながら残りの朝食を手にしかけたとき、ふと樹の耳に、気になる音声が入って来た。
それは点け放しになっているテレビの音声だった。樹はテレビの方へ注意を向けてみた。最初の部分を聞き逃してしまったので、よくわからない部分もあったが、どうやらヨーロッパのどこかにある研究所で大きな爆発事故があった模様だった。死傷者もかなりの数で出ているらしい。テレビにはヘリコプターを使って空中から撮影しているらしい建物の映像が映し出されていた。
爆発の影響なのか、建物からは白い噴煙のようなものが上がり、建物の周辺には消防車や警察車両、それから取材陣のものと思われる車がたくんさん集まっていた。警察が今爆発の原因を、テロの可能性も含めて、詳しく調べているとアナウンサーは深刻な表情で伝えていた。樹はそのニュース映像を見ながら、何故なのかはわからなかったが、妙な胸騒ぎを覚えていた。