母の檻
第一章
「随分、子どもが読む本みたいな本を読むんだな」
父の声が、返却カウンター前の静寂を破った。私は手に持った新書の表紙を見下ろす。確かに、大人向けの内容ではあるものの、文字は大きく、行間も広々としている。父がそう感じるのも無理はない。
「目が悪いから」
私は短く答えた。本当は小学生の頃から視力が悪く、中学に入る頃には既に眼鏡が手放せなくなっていた。それでも年々視力は落ち続け、今では文庫本の小さな文字を追うのが苦痛になっている。新書や単行本の、ゆったりとした文字組みが私の目には優しかった。
父は「そうか」とだけ言って、自分が借りる予定の歴史書の背表紙を確認している。その横顔を見ながら、私はこの父との図書館通いが、まだ始まって三ヶ月ほどしか経っていないことを思い出していた。
父が定年退職したのは今年の春だった。四十年近く勤めた会社を離れ、突然できた大量の自由時間を持て余した父は、最初の一ヶ月こそ家でぼんやりとテレビを見て過ごしていたが、やがて毎日のように図書館へ通うようになった。
「一緒に行くか?」
ある日、父が私に声をかけたのは、確か五月の半ばだったと思う。ちょうど私が読みたいと思っていた本があったこともあり、私は頷いた。それ以来、週に一度か二度、父の運転する車で図書館へ行くのが習慣になった。
読書好きの父と私。これが、おそらく私たち親子の数少ない共通点だった。
母は本を読まない。少なくとも、私の記憶の中で母が小説や新書を手に取っている姿を見たことがない。だが、不思議なことに、母には「本を読む人間」への強い憧憬があった。知的で教養ある人間の象徴として、読書という行為を神聖視していたのかもしれない。
だから母は、私と弟を「本を読む人間」に育てることに異常なまでの情熱を注いだ。
幼い頃、母と一緒に買い物に出かけると、必ず書店に立ち寄った。そして私たち姉弟は、それぞれ一冊ずつ本を買ってもらえる。ただし、それは「小説に限る」という条件付きだった。漫画はもちろん、図鑑や実用書もダメ。母が認めるのは、物語だけだった。
図書館にも頻繁に連れて行かれた。母自身は本を借りず、ただ私たちが本を選ぶのを見守っていた。時には「そんな薄い本じゃなくて、もっと分厚いのを選びなさい」と口を出すこともあった。
そのおかげか、私も弟も確かに「本を読む人間」に育った。母の願いは叶ったのだ。
ただし、私よりも弟の方が圧倒的に優秀な読書家だった。弟は驚くほど読むのが速く、しかも一度読んだ内容をほぼ完璧に記憶している。何年も前に読んだ本の登場人物の名前や、細かなエピソードまで鮮明に覚えていて、家族の会話の中で突然引用してみせたりする。
私はといえば、読んだそばから内容が霧のように消えていく。読み終えた直後は覚えているのだが、一週間もすれば大筋しか思い出せず、一ヶ月後には「確かこんな話だったような…」という曖昧な記憶しか残らない。
だから私は読書ノートをつけることにしている。
B5サイズのノートに、読み終えた本のタイトルと著者名、読了日を記し、心に残ったフレーズを抜き書きする。簡単なあらすじと、その本を読んで感じたこと、考えたことを数行書き添える。そうしないと、せっかく読んだ本の記憶が完全に消えてしまうような気がして不安だった。
「人は忘却の生き物だ」
これは父の口癖だ。
父も私と同じく、どんどん忘れていくタイプらしい。書斎の本棚から本を取り出しては、「これ、前にも読んだ気がするなぁ」とつぶやき、それでも懲りずにまた同じ本を読み始める。そして読み終えた後、「やっぱり読んだことあったわ」と笑っている。
私はその姿を見るたびに、自分の未来を見ているような気がした。
第二章
我が市の図書館は、お世辞にも便利な場所にあるとは言えない。
市の中心部から離れた、田んぼと住宅が混在する地域の一角に建っている。最寄りのバス停からも徒歩十五分はかかり、しかもそのバスの本数が一時間に一本あるかないかという有様だ。実質的に、車がなければ通えない場所だった。
私は免許は持っているが、いわゆるペーパードライバーだった。免許を取ってから一年ほどは母の車を借りて運転していたが、ある日、狭い道で対向車とすれ違う際に軽く接触事故を起こしてからは、運転が怖くなってしまった。母は「また練習すればいいじゃない」と言ったが、私にはその勇気がなかった。
だから、父が図書館に行く日に便乗させてもらうことにした。父の運転に甘えて、助手席でぼんやり窓の外を眺めながら図書館へ向かう。これなら気楽だし、ガソリン代も浮く。
父が図書館に行く日までに借りた本を読み終え、次に借りる本のリストを作っておく。
私はあらかじめスマホで、市の図書館のウェブサイトにアクセスして本を検索する。読みたい本が在庫にあるかどうか。あるとすれば、どの棚にあるか。貸出中の場合は予約を入れておく。
父も同じような方法で下調べをしているらしい。
だから、私たちの図書館での滞在時間はわずか五分から十分程度だ。借りたい本はすでに決まっており、その本がどこにあるかも事前に把握している。だから館内に入ったら、まっすぐ目的の棚へ向かい、本を手に取り、カウンターで手続きを済ませて出てくる。実に効率的で、無駄がない。
我ながら忙しないなあと思う。
本当は、もっとゆっくり他の棚を眺めて、思いがけない本との出会いを楽しんでもいいのに。新刊コーナーを覗いたり、司書さんのおすすめ本のコーナーを見たり。そうしているうちに、予想もしなかった面白そうな本が見つかるかもしれないのに。
だが、私たちはそうしない。いや、できない。
その原因は、母に起因する。
母は時間にうるさい人だ。いや、「うるさい」という言葉では生温い。母にとって時間は絶対的な支配者であり、一分たりとも狂いを許さない聖域なのだ。
「図書館には何時に着いて、何時に出るの?」
「帰りに寄り道はしないわよね?」
「遅くとも十二時には帰ってきてちょうだい。お昼ご飯の準備があるから」
出かける前、母は必ずこう確認する。そして私たちが答えたスケジュール通りに行動することを要求する。もし予定より十分でも遅れようものなら、携帯に電話がかかってくる。
「今どこにいるの?何してるの?あと何分で帰ってくるの?」
矢継ぎ早の質問攻撃。声のトーンは冷静だが、その奥に隠された苛立ちと不安が、電話口からでもはっきりと伝わってくる。
ひどい時には、本当に分刻みでスケジュールを決められることもある。
「十時に家を出て、十時十五分に図書館着。十時二十五分には図書館を出て、十時四十分に家に帰ってくる。スーパーには寄らないこと」
母にとって、家族がどこに何時に行き、何時までに帰ってくるかを把握することが、何よりも重要な事項なのだ。それがコントロールできていれば母は安心し、機嫌も良い。だが、予定が狂うと母のストレスは急上昇し、家の中の空気が一気に張り詰める。
病的とも言えるその執着は、長い年月を経て、今ではすでに我が家の動かしがたいルールと化している。
父は時々、まるで諦めと悟りが混ざったような表情でこう言う。
「我が家はなんでもお母さんに従わんといかん。そうすることで家がうまく回る」
そうなのかもしれない、と私も思う。
母が家のルールを決め、母が家を回している。父も私も弟も、母の決めたレールの上を走る列車のようなものだ。レールから外れようとすれば脱線事故が起きる。だから私たちは、黙って母の敷いたレールの上を走り続ける。
母のルールに背いた時、母の怒りの鉄槌が下される。
それは怒鳴り声だったり、何日も続く無視だったり、あるいは延々と続く説教だったりする。母が怒ると家全体が凍りつく。食卓は沈黙に支配され、誰もが母の顔色を窺いながら息を潜める。その重苦しい空気に耐えるくらいなら、最初から大人しく従っていた方がずっと楽だった。
だが、年を重ねるにつれて、その「楽さ」がだんだんとしんどくなってきた。
第三章
それが嫌で、私は二十五歳の時に一人暮らしを始めた。
「自立したい」という建前と、「母のルールから逃れたい」という本音を半々に混ぜて、私は両親を説得した。父はあまり乗り気ではなさそうだったが、最終的には「そうか、もう大人だもんな」と言って認めてくれた。
母は最初、猛反対した。
「一人暮らしなんて危険よ。女の子なんだから」
「お金の無駄じゃない。家から通える距離なのに」
「料理も掃除もまともにできないくせに、一人で生活できるわけがない」
様々な理由を並べ立てて、母は私の一人暮らしを阻止しようとした。だが、私も引かなかった。これは私にとって、母から自由になるための最後のチャンスのように思えた。
結局、ある条件付きで母は折れた。
「両親に合鍵を預けること」
それが母の出した条件だった。
「何かあった時にすぐ駆けつけられるように」というのが母の言い分だった。私は少し迷ったが、それくらいなら、と思って承諾した。まさかその合鍵が、後にこれほどの意味を持つとは、その時は想像もしていなかった。
念願の一人暮らしが始まった。
最初の一ヶ月は、まさに自由そのものだった。帰宅時間を気にする必要もない。休日に何時まで寝ていても誰にも文句を言われない。好きな時に好きなものを食べ、好きな時に好きなだけ本を読める。
これが自由か、と私は思った。こんなにも素晴らしいものだったのか、と。
だが、その幸福は長くは続かなかった。
ある日、仕事から帰宅すると、玄関の靴が微妙にずれていることに気づいた。確かに朝、きちんと揃えて出かけたはずなのに。嫌な予感がして部屋に入ると、キッチンのゴミ箱の中身が別のビニール袋にまとめられており、冷蔵庫の中身の配置が変わっていた。
そして、テーブルの上にメモが置いてあった。
「冷蔵庫の中、賞味期限切れのものがあったから捨てておいたわよ。もっとちゃんと管理しなさい。あと、お風呂場のカビがひどいから掃除しておいた。週に一度は掃除すること。―母」
背筋が凍った。
母が、合鍵を使って勝手に部屋に入ってきたのだ。
その日の夜、私は母に電話をかけた。
「勝手に部屋に入らないでほしい」
できるだけ冷静に、だが はっきりとそう伝えた。
母は悪びれる様子もなく言った。
「何を言ってるの。心配だから様子を見に来ただけじゃない。実際、部屋は汚いし、冷蔵庫の管理もできてないじゃない。一人暮らしができるって言ったのはあなたでしょう? だったらちゃんとしなさい」
「それでも、勝手に入るのは…」
「合鍵を預けるって約束したでしょう。それは何かあった時のためだけじゃなくて、ちゃんと生活できてるか確認するためでもあるのよ。親として当然のことをしてるだけ」
議論は平行線だった。母は自分が正しいと信じて疑わず、私の言い分には一切耳を貸さなかった。
それからというもの、母の「訪問」は定期的に続いた。
多い時には週に一度、少なくとも月に二度は、私の留守中に母は部屋に入ってきた。そして掃除をし、冷蔵庫を整理し、時には私の机の引き出しを開けて中身を確認していた。読みかけの本に挟んだメモ、日記、クレジットカードの明細書。ありとあらゆるものが母の目に触れていた。
「昨日、○○さんとランチに行ったんだって?その人とは仲がいいの?」
ある日、母が電話でそう言った時、私は悟った。母が私の手帳を読んだのだ、と。
プライバシーなど、もはや存在しなかった。一人暮らしをしていても、私は依然として母の監視下にあった。いや、実家にいた時よりも、ある意味では監視は強化されていたのかもしれない。実家にいれば母の目の前で生活しているから、わざわざ部屋を漁る必要はなかった。だが一人暮らしをしたことで、母は「見えない部分」を埋めるために、より侵入的な手段を取るようになったのだ。
私は鍵を変えることも考えた。だが、それをすれば母との関係は決定的に壊れるだろう。そして母は、私が想像もできないような手段で報復してくるかもしれない。
「母ルール」から逃れる術はないのだと、私は知った。
一人暮らしを始めて一年半後、私は実家に戻ることを決意した。
「やっぱり一人だと寂しくて」という建前を使って、私は両親に帰りたいと伝えた。母は「そうでしょう、やっぱりね」と言って、まるで自分の勝利を確信したような笑みを浮かべた。
本当の理由は違う。
どうせ逃れられないのなら、抗っても仕方がない。それならいっそ実家にいた方が、無駄な家賃を払わずに済む。貯金もできる。そう合理的に判断したのだ。
だが、心のどこかでは分かっていた。
これは敗北なのだと。
自由を求めて家を出たが、結局は母の手のひらの中から出られなかった。それを認めて、再び檻の中に戻っていく。それが私の選択だった。
第四章
実家に戻ってから三年が経った。
二十九歳になった今、私は再び父と一緒に図書館に通っている。あの一人暮らしの日々は、まるで遠い夢のようだ。
図書館から帰る車の中で、父がふと言った。
「お前、最近、元気ないな」
「そう?」
私は窓の外を見たまま答える。田んぼの向こうに、小さな神社が見えた。
「お母さんと、何かあったのか?」
「別に」
嘘だった。母とは毎日のように小さな衝突があった。帰宅時間、休日の過ごし方、友人との約束、服装、髪型。ありとあらゆることに母は口を出し、私はそれに従うか、従わずに母の不機嫌を買うかの二択を迫られた。
「そうか」
父はそれ以上追及しなかった。父もまた、母のルールの下で生きている。父に相談したところで、何も変わらない。父自身がそれを一番よく知っているのだろう。
信号待ちの間、父は前を見たまま言った。
「俺もな、お母さんには長いこと従ってきた。それが一番楽だと思ってな」
「……」
「でも、たまに思うんだ。これでよかったのかって」
父のその言葉に、私は思わず父の方を見た。父は相変わらず前を見たままだったが、その横顔には、私の知らない何かが浮かんでいるように見えた。後悔? 諦め? それとも、別の何か?
「でも」と父は続けた。「もう変えられんからな。これが俺たちのやり方だ」
信号が青に変わり、車は再び動き出した。
家に着くと、母が玄関先で待っていた。腕時計を見ながら、わずかに眉をひそめている。
「十二時三分よ。三分遅いじゃない」
「すまん、信号に捕まってな」
父が謝る。私も「ごめんなさい」と小さく言って、靴を脱ぐ。
母は何も言わずにキッチンへ戻っていったが、その背中には明らかな不機嫌が滲んでいた。今日の昼食は、きっと静かなものになるだろう。
部屋に戻り、図書館で借りた新しい本をベッドの脇に置く。タイトルは『自由について』。哲学者が書いた、自由とは何かを考察する本だ。
皮肉だな、と思う。
私は本を開き、最初のページを読み始めた。
「人間は自由であるように定められている。しかし、至る所で鎖につながれている」
ルソーの言葉が、冒頭に引用されていた。
私はその一文をノートに書き写し、ペンを置いた。そして窓の外を見る。
曇り空の下、隣家の庭で猫が一匹、のんびりと毛づくろいをしている。
私はいつ、あの猫のように自由になれるのだろうか。
それとも、もう一生、この檻の中で生きていくのだろうか。
答えは出なかった。
ただ、本を読むことだけが、今の私にできる、小さな抵抗のような気がした。母の選んだ本ではなく、私自身が選んだ本を読むこと。母の知らない世界に、少しの間だけ逃げ込むこと。
それだけが、私に残された自由だった。
第五章
図書館通いが日課になって半年が過ぎた頃、私は一人の女性と出会った。
その日、珍しく父の具合が悪く、図書館行きがキャンセルになった。借りていた本の返却期限が迫っていたこともあり、私は思い切ってバスで図書館へ行くことにした。
「十時のバスに乗って、十一時には帰ってくるから」
母にそう告げると、母は訝しげな顔をした。
「一人で?帰りはどうするの?」
「十時半のバスで帰ってくる」
「本当に十一時に帰ってこられるの?」
「帰ってこられる」
母はしばらく私を見つめていたが、やがて「分かったわ」と言った。「でも、必ず十一時には帰ってきなさい。一分でも遅れたら電話するからね」
私は頷いて家を出た。
バスの中で、私は久しぶりの一人の時間を味わっていた。父と一緒の時も悪くないが、一人でいる時間には独特の軽さがある。誰にも気を遣わず、ただ窓の外を眺めていられる。
図書館に着いたのは十時二十分。返却と貸し出しを済ませ、さあ帰ろうと出口に向かいかけた時、ふと新刊コーナーが目に入った。
いつもなら素通りする場所だ。だが今日は、時間に少し余裕がある。バスの時間まであと十分。少しだけなら、と思って足を向けた。
新刊コーナーには、色とりどりの本が並んでいた。小説、エッセイ、実用書、写真集。どれも魅力的で、私は思わず立ち止まって背表紙を眺めた。
「それ、面白いですよ」
突然、隣から声がかけられた。
見ると、私と同じくらいの年齢の女性が立っていた。ショートカットの髪、縁なしの眼鏡、シンプルな白いシャツに黒いパンツ。手には何冊かの本を抱えている。
私が手に取っていたのは、ある女性作家のエッセイ集だった。
「あ、そうなんですか」
「その人の本、他にも面白いのがたくさんあるんです。私、ファンで」
女性は人懐っこい笑顔で言った。その笑顔には、警戒心を解きほぐす不思議な力があった。
「そうなんですね。実は、この作家さん、初めてで」
「だったら、これもおすすめです」
女性は棚から別の本を取り出して私に見せた。
私たちはそのまま、しばらく本の話をした。おすすめの作家、最近読んだ本、好きなジャンル。話しているうちに、私は腕時計を見て驚いた。
十時三十五分。
バスの時間を五分過ぎていた。
「あ、すみません、バスの時間が……」
私は慌てて女性に謝り、図書館を飛び出した。次のバスは十一時。母との約束の時間には、どう考えても間に合わない。
走りながら携帯電話を取り出すと、すでに母からの着信が三件入っていた。
第六章
案の定、家に着いたのは十一時十五分だった。
玄関を開けると、母が廊下に立っていた。その表情は、怒りを通り越して何か別の感情が浮かんでいた。
「どういうこと?」
母の声は静かだったが、その静けさが逆に恐ろしかった。
「ごめんなさい。バスの時間を間違えて……」
「電話に出なかったわね」
「図書館の中で、マナーモードにしてて」
「図書館は十時二十分に着いたはずよね?そこから十時半のバスに乗るまで、十分しかない。なのに、なぜバスに乗り遅れるの?」
母の論理は正確だった。私に言い訳の余地はなかった。
「新刊コーナーを見てて、時間を忘れて……」
「新刊コーナー?」
母は眉をひそめた。
「あなた、借りる本はもう決めてあったんでしょう?なぜ新刊コーナーなんか見る必要があるの?」
「ちょっと、興味があって」
「興味?約束の時間より、興味が大事なの?」
母の声が少しずつ大きくなってきた。
「そうじゃなくて…」
「そうじゃない?じゃあ、何?私との約束なんてどうでもいいってこと?」
「違う。ただ、少し時間があったから」
「時間があった?」
母は信じられないという顔をした。
「時間があったから約束を破っていいと思ってるの?あなた、社会人でしょう?時間を守るって、一番基本的なことじゃない」
正論だった。母の言うことは、いつも正論なのだ。だからこそ、反論できない。
「ごめんなさい」
私はただ謝ることしかできなかった。
母はため息をついた。
「もういいわ。でも、次からは絶対に時間を守りなさい。約束は約束なんだから」
母はそう言って、キッチンへ戻っていった。
私は部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。借りてきた本を見る気にもなれなかった。
ただ、あの図書館で会った女性のことを思い出していた。
あの人は、時間に追われているようには見えなかった。ゆったりと本を選び、楽しそうに本の話をしていた。まるで時間が彼女のために流れているかのように。
私とは、まったく違う世界の人に思えた。
第七章
それから二週間後、私は再び図書館であの女性に会った。
今度は父と一緒だった。本を返却した後、父が「トイレに行ってくる」と言って席を外した隙に、私は何となく新刊コーナーへ足を向けた。
すると、そこに彼女がいた。
「あ」
私たちは同時に声を上げた。
「こんにちは。この前はすみませんでした、急に走って行っちゃって」
「いえいえ。バス、間に合いました?」
「間に合わなくて……一本遅れちゃいました」
「あら、それは大変でしたね」
女性は少し申し訳なさそうに笑った。
「でも、あの後、あなたが教えてくれた作家さんの他の本、予約したんです」
「本当ですか?嬉しい」
私たちは再び本の話を始めた。前回途中で終わってしまった話の続きをするように、自然に言葉が続いた。
「あの、よかったら」
女性がふと言った。
「今度、一緒にお茶でもしませんか?本の話、もっとゆっくりしたいなって」
私は一瞬、戸惑った。この人と、もっと話したい。でも、母は私が誰かと会うことを快く思わないかもしれない。いや、確実に快く思わないだろう。
「どうでしょう、来週の土曜日とか」
土曜日なら、父が図書館に行く日だ。図書館の後、少しだけ時間を作れるかもしれない。
「少しの時間だけなら」
私はそう答えていた。
「いいんです、三十分でも。図書館の近くに、素敵なカフェがあるんですよ」
「分かりました。じゃあ、来週の土曜日」
私たちは連絡先を交換した。彼女の名前は、芹沢瞳と言った。
父が戻ってきたので、私たちは別れた。
車の中で、父が言った。
「友達か?」
「ううん、図書館で知り合った人」
「そうか。友達ができるのはいいことだ」
父はそう言って、それ以上何も聞かなかった。
家に帰ってから、私は母に土曜日の予定を告げるべきか悩んだ。正直に言えば、母は反対するだろう。でも、黙っていて後でばれたら、もっと大変なことになる。
夕食の時、私は意を決して言った。
「来週の土曜日、図書館の後、少し友達とお茶してきてもいい?」
母の箸が止まった。
「友達?誰?」
「図書館で知り合った人」
「図書館で知り合った人が、友達なの?」
母の声には不信感が滲んでいた。
「この前、本の話をして。それで、今度一緒にお茶しようって」
「名前は?どんな人なの?年齢は?何してる人?」
母の質問攻撃が始まった。
「芹沢瞳さん。私と同じくらいの年齢で、本が好きな人です」
「職業は?」
「まだ、そこまで詳しくは……」
「詳しく知らない人と、会うの?」
母は呆れたような顔をした。
「だから、これから知り合おうと思って」
「でも、何時に帰ってくるの?土曜日は夕食の準備があるから、遅くても三時には帰ってきてほしいんだけど」
「三時……分かりました」
図書館に十時半に着いて、十一時にカフェに行くとしたら、正味一時間半しか時間がない。移動時間を考えたら、実際に話せるのは一時間程度だろう。
でも、それでもいい。少しでも、母のルールの外側の世界を見てみたかった。
第八章
土曜日が来た。
父の車で図書館に着き、いつものように本を借りる。十一時ちょうど、私は図書館の前で瞳さんを待った。
「お待たせしました」
瞳さんは五分後に現れた。今日は淡いブルーのワンピースを着ていて、図書館にいた時とは少し印象が違った。
「カフェ、すぐ近くなんです」
瞳さんに案内されて、図書館から徒歩三分ほどの場所にある小さなカフェに入った。古い民家を改装したような店で、窓際の席からは小さな庭が見えた。
「ここ、私の隠れ家みたいな場所なんです」
瞳さんはコーヒーを注文し、私はカフェラテを頼んだ。
「あの、実は聞きたかったんです」
瞳さんが言った。
「読書ノート、つけてますか?」
「つけてます。読んだ本の内容、すぐ忘れちゃうので」
「私もです!」
瞳さんは嬉しそうに笑った。
「私も読んだそばから忘れるタイプで。だから、ノートにメモしておかないと、何を読んだかも分からなくなっちゃう」
私たちは読書ノートの話で盛り上がった。どんなことを書いているか、どんなノートを使っているか、そんな他愛のない話。
でも、その他愛のなさが心地よかった。
「あのね」
瞳さんがふと真剣な顔になった。
「この前、あなたが慌ててバスに乗らなきゃって言った時、すごく焦ってる様子だったから、ちょっと気になってたんです」
「ああ、あの時は……」
「何か、時間に厳しい理由があるんですか?」
私は少し迷ったが、話してみる気になった。母のこと。時間のこと。ルールのこと。
瞳さんは黙って聞いていた。
「それは… 大変ですね」
瞳さんは慎重に言葉を選んでいるようだった。
「でも、なんとなく分かります。私の母も、ちょっと似たところがあったので」
「似たところ?」
「私の母も、すごくコントロールしたがる人でした。何時に起きて、何時に寝て、何を食べて、誰と会って。全部把握していないと気が済まない人で」
「でした、って……」
「五年前に亡くなったんです」
瞳さんは静かに言った。
「それまで、ずっと母の言う通りに生きてきました。結局、私が自由になったのは、母がいなくなってからでした」
私は何と言っていいか分からなかった。
「ごめんなさい、重い話をしちゃって」
「いえ……」
「でもね」
瞳さんは私の目を見て言った。
「母が亡くなってから思うんです。もっと早く、自分の意思を伝えればよかったって。母に従うことが当たり前になりすぎて、自分が何をしたいのかも分からなくなってた」
「……」
「あなたは、何がしたいですか?」
突然の質問に、私は言葉に詰まった。
何がしたい?
自分が何をしたいのか、考えたこともなかった。いつも、母が何を望んでいるか、母がどう思うかばかり考えていた。
「分からない……です」
私は正直に答えた。
瞳さんは優しく微笑んだ。
「いいんです。すぐに答えが出なくても。でも、時々、自分に聞いてみてください。『私は、何がしたい?』って」
時計を見ると、十二時を回っていた。
「あ、そろそろ帰らないと」
私は慌てて立ち上がった。三時までに帰る約束だが、余裕を持って行動しないと母は心配する。
「また、会えますか?」
瞳さんが聞いた。
「はい、会いたいです」
私は心から思った。
「よかった。じゃあ、また来週」
カフェを出て、私はバス停に向かって歩いた。
振り返ると、瞳さんが窓越しに手を振っていた。
私も手を振り返した。
胸の中に、温かいものが広がっていくのを感じた。
第九章
瞳さんとの出会いは、私の中で何かを変え始めていた。
毎週土曜日、図書館の後に一時間だけ会ってお茶をする。それが私たちの習慣になった。
母には「図書館で本を選ぶのに時間がかかる」と言い訳した。父は何も言わなかったが、私が図書館の滞在時間が長くなっていることには気づいているようだった。
瞳さんと話していると、時間を忘れた。
本の話から始まって、仕事のこと、日常の些細なこと、子どもの頃の思い出。どんな話をしても、瞳さんは否定せずに聞いてくれた。
「あのね、私、フリーランスでライターをしてるんです」
ある日、瞳さんが教えてくれた。
「だから、時間の使い方は自分で決められる。それが、私にとっての自由なんです」
「いいですね」
「でも、母が生きていた頃は、会社員でした。母が『安定した仕事に就きなさい』って言ったから」
「それを、辞めたんですか」
「母が亡くなって、しばらくして。自分の人生、誰のために生きてるんだろうって思ったら、もう会社にいる理由がなくなって」
瞳さんは窓の外を見ながら言った。
「怖かったですよ。でも、もっと怖かったのは、このまま誰かの期待に応え続けて、自分の人生を生きないまま終わることでした」
私はコーヒーカップを両手で包んだ。
「私には、できないかもしれません」
「できないって、決めつけなくていいんですよ」
瞳さんは優しく言った。
「小さな一歩から始めればいい。例えば、自分が本当に読みたい本を選ぶとか」
「読みたい本?」
「あなた、いつも『読むべき本』を選んでませんか?」
図星だった。
私は無意識のうちに、「読んで損のない本」「ためになる本」ばかり選んでいた。それが「正しい読書」だと思っていた。
「たまには、ただ面白そうだから、という理由だけで本を選んでもいいんじゃないですか」
瞳さんの言葉に、私はハッとした。
そういえば、いつから私は「楽しむため」に本を読まなくなったんだろう。
子どもの頃は、ただ面白いから本を読んでいた。物語の世界に没頭して、時間を忘れるのが楽しかった。
でも、いつの間にか、本を読むことすら「意味のあること」でなければならなくなっていた。
「次は、心から読みたい本を選んでみてください」
瞳さんは言った。
「義務じゃなくて、欲望で」
その日の帰り道、私は図書館に寄った。
そして初めて、「ためになる」とか「読むべき」とか、そういう基準を一切無視して、ただ「面白そう」という理由だけで本を選んだ。
それは、恋愛小説だった。
母なら「くだらない」と言うだろう。「もっと知的な本を読みなさい」と。
でも、私は読みたかった。ただ、それだけの理由で。
家に帰って、母に「ただいま」と言う前に、私はその本をカバンの奥深くにしまった。
部屋に戻ってから、こっそりとその本を開く。
最初のページを読んだ瞬間、久しぶりに感じる高揚感が胸に広がった。
これが、私の選んだ本。
誰のためでもない、私のための本。
小さな反逆だったが、それは確かに私の一歩だった。
第十章
恋愛小説を読み終えた夜、私は久しぶりに読書ノートに長い感想を書いた。
物語の筋書きだけでなく、登場人物の言葉に心を動かされたこと、ラストシーンで泣いてしまったこと、主人公が自分の気持ちに正直になる場面に勇気をもらったこと。
ペンを走らせながら、私は気づいた。
「ためになる本」を読んでいた時は、こんなに心が動くことはなかった。あらすじと、抽出された教訓のようなものを機械的に書き写すだけだった。
でも今、私は本当に書きたいことを書いている。
ノートを閉じた時、携帯が震えた。瞳さんからのメッセージだった。
「今日借りた本、どうでしたか?」
私は返信した。
「すごく良かったです。久しぶりに、本を読んで泣きました」
すぐに返事が来た。
「それは良かった!やっぱり、本は心を動かすものでないと」
そして、次のメッセージ。
「来週、いつもより少し長く時間取れませんか?紹介したいカフェがあるんです」
私は時計を見た。夜の九時。母はリビングでテレビを見ている時間だ。
長く時間を取る、ということは、帰宅時間が遅くなるということだ。母は許さないだろう。
でも、私の指は返信を打っていた。
「どのくらいですか?」
「二時間くらい。そのカフェ、ランチがとても美味しいんです」
二時間。ランチ。
それは明らかに、いつもの「ちょっとお茶」の範囲を超えている。
私は深呼吸をした。
「行きたいです。でも、母に何て言えば……」
「正直に、友達とランチするって言ってみたらどうですか?」
正直に。
そんな簡単なことなのに、それができないのが私たちの家だった。
「やってみます」
送信ボタンを押した後、私は長い間、携帯を握りしめていた。
第十一章
翌朝、朝食の席で私は言った。
「今度の土曜日、友達とランチに行ってもいい?」
母の手が止まった。父も新聞から顔を上げた。
「友達?図書館の?」
「はい」
「ランチって、何時から何時まで?」
母の質問が始まった。
「十一時から、一時くらいまで」
「一時?遅いわね」
母の眉が寄る。
「でも、せっかく誘ってもらったから」
「どこで食べるの?そのカフェって、ちゃんとした店なの?」
「ちゃんとした店です」
「値段は?あまり高い店じゃないでしょうね」
「そんなに高くないと思います」
母は箸を置いた。
「あなた、最近、その人とよく会ってるわね」
「……週に一回です」
「週に一回は、よく会ってるのよ。その人のこと、どこまで知ってるの?」
「名前も知ってるし、仕事も聞いてます」
「仕事?何してる人なの?」
「ライターです」
「ライター?」
母は怪訝な顔をした。
「フリーランスってこと?不安定な仕事じゃない」
「でも、それは瞳さんの仕事だから」
「瞳さん、って呼ぶくらい親しいの?会ってまだ一ヶ月くらいでしょう」
母の尋問は続いた。
「まあ、いいわ。でも、一時には必ず帰ってくること。それと、その人の連絡先、教えなさい」
「連絡先?」
「当然でしょう。あなたが誰と会ってるのか、親として知っておく必要があるわ」
私は言葉に詰まった。
瞳さんの連絡先を母に教える?それは何か、とても大切なものを明け渡すような気がした。
「でも、それは……」
「何?教えられない理由でもあるの?」
母の声が鋭くなった。
「もしかして、怪しい人なんじゃないの?だから教えられないの?」
「そうじゃなくて。ただ……」
「ただ、何?」
私は父を見た。父は困ったような顔で、また新聞に目を落とした。助けてくれる気配はない。
「わかりました。聞いてみます」
私はそう言うしかなかった。
「聞いてみる?何を聞くの?連絡先を教えていいかどうか?」
「はい」
「当たり前でしょう。友達なら、連絡先を教えたって何の問題もないはずよ」
母は再び箸を取った。
「まあ、その人が拒否するようなら、あなたとの関係を考え直しなさい。友達のふりをして、何か企んでるのかもしれないから」
その日、私は会社で仕事が手につかなかった。
昼休み、私は瞳さんにメッセージを送った。
「母が、あなたの連絡先を教えてほしいと言っているんです」
しばらくして、返信が来た。
「それは、監視のためですか?」
「多分……そうだと思います」
「分かりました。教えても大丈夫ですよ」
予想外の返事に、私は驚いた。
「いいんですか?」
「あなたのお母さんを安心させることで、あなたが少しでも楽になるなら。でも、一つだけ」
「何でしょう?」
「これは、あなたが選んだことではなく、強制されたことだって、忘れないでください」
その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。
第十二章
土曜日が来た。
瞳さんが教えてくれたカフェは、図書館から車で十五分ほどの場所にあった。古い洋館を改装した店で、窓からは庭のバラが見えた。
「ここ、素敵ですね」
私は思わず声を上げた。
「でしょう?私のお気に入りの場所なんです」
瞳さんは嬉しそうに笑った。
私たちは窓際の席に座り、ランチを注文した。キッシュとサラダのセット。見た目も美しく、味も繊細だった。
「お母さん、連絡先のこと、何か言ってきました?」
瞳さんが聞いた。
「いえ、まだ何も」
実際、母は瞳さんの連絡先を受け取った後、何も言わなかった。それがかえって不気味だった。母は何かを企んでいるのかもしれない。
「あのね」
瞳さんがフォークを置いて言った。
「もし、お母さんから私に連絡が来ても、気にしないでください」
「え?」
「きっと来ると思うんです。あなたのことを色々聞いてくると思う。でも、私はあなたの味方ですから」
瞳さんの言葉に、私の目が熱くなった。
「ありがとうございます」
「それと」
瞳さんは真剣な顔で続けた。
「少し早いかもしれないけど、言っておきたいことがあって」
「何でしょう」
「あなた、このままずっとお母さんの言いなりで生きていくつもり?」
その直球の質問に、私は言葉を失った。
「ごめんなさい、きつい言い方で。でも、あなたを見てると、昔の私を見てるみたいで」
瞳さんは窓の外を見た。
「私の母も、すべてをコントロールしたがる人でした。何時に起きて、何を食べて、誰と会うか。全部、母の許可が必要だった」
「でも、逆らえなかったんですよね」
「逆らえなかった。というより、逆らうという選択肢があることすら知らなかった」
瞳さんは私を見た。
「母が亡くなった時、私は悲しかった。でも同時に、解放された気持ちにもなった。そのことに罪悪感を感じて、しばらく苦しみました」
「……」
「でもね、今思うんです。母が生きている間に、もっと自分の意思を伝えるべきだったって。母に嫌われるのが怖くて、何も言えなかった。でも、結局、本当の私を知ってもらうこともなく、母は亡くなった」
瞳さんの目に光るものがあった。
「あなたには、後悔してほしくないんです。お母さんが亡くなってから『もっと自分らしく生きればよかった』って思うより、今、少しずつでも変わっていく方がいい」
私は紅茶のカップを両手で包んだ。
「でも、どうやって」
「小さなことから。例えば、今日のランチ。一時までに帰ると言ったけど、もし話が盛り上がって一時半になっちゃったら?」
「母が怒ります」
「怒るでしょうね。でも、世界は終わらない」
瞳さんは微笑んだ。
「お母さんが怒ることと、あなたが自分の時間を持つこと。どっちが大事ですか?」
その質問に、私はすぐに答えられなかった。
母を怒らせないこと。それが私の人生の最優先事項だった。でも、それは本当に正しいのだろうか。
「あなたはもう二十九歳。大人です。自分の時間をどう使うか、自分で決める権利があるんですよ」
瞳さんの言葉が、胸に響いた。
時計を見ると、十二時四十五分。
あと十五分で、母との約束の時間だ。
「あの」
私は意を決して言った。
「もう少し、ここにいてもいいですか」
瞳さんは驚いたような顔をして、それから大きく笑った。
「もちろん。デザート、頼みましょうか」
私は震える手で携帯を取り出し、母にメッセージを送った。
「話が盛り上がってしまって、もう少し遅くなります。二時には帰ります」
送信ボタンを押した瞬間、心臓が激しく打った。
すぐに母から返信が来た。
「約束の時間は一時でしょう。すぐに帰ってきなさい」
私は深呼吸をした。
そして、生まれて初めて、母の命令を無視した。
携帯をカバンにしまい、私は瞳さんに言った。
「チーズケーキ、食べたいです」
瞳さんは優しく頷いた。
「いい選択です」
携帯はカバンの中で何度も震えた。母からの着信だろう。でも、私は出なかった。
第十三章
家に帰ったのは、午後二時十五分だった。
玄関の扉を開ける前、私は深呼吸をした。手が震えている。
扉を開けると、母がすぐそこに立っていた。
「おかえり」
母の声は静かだった。怖いくらいに。
「ただいま。遅くなって、ごめんなさい」
「ごめんなさい?」
母は冷たく笑った。
「約束の時間から一時間以上遅れて、ごめんなさいで済むと思ってるの?」
「話が盛り上がって、つい」
「つい?時間を忘れるほど楽しかったのね」
母の声が徐々に大きくなってきた。
「電話にも出なかったわね。何度もかけたのに」
「気づきませんでした」
「嘘をつかないで。メッセージは見たでしょう?私が『すぐ帰ってきなさい』って送ったのに、無視したのよね」
母の目が鋭い。
「あなた、最近おかしいわよ。その瞳って人と会うようになってから」
「おかしくなんか……」
「おかしいわよ!約束を守らない、親の言うことを聞かない。そんな子に育てた覚えはないわ」
母の声が家中に響いた。
リビングから父が出てきた。
「まあまあ、そんなに怒らんでも」
「あなたは黙ってて!」
母は父を一喝した。
「この子が、どれだけ心配だったか分かる?事故に遭ったんじゃないか、何かあったんじゃないかって」
「でも、メッセージは送りました」
「メッセージ?一時に帰るって約束したのに、急に二時になるって、そんなの通用しないわよ」
母は私に詰め寄ってきた。
「あの女、あなたに何を吹き込んでるの?」
「何も吹き込んでなんか……」
「嘘!絶対に何か言われてるはずよ。じゃなきゃ、あなたがこんな風に変わるわけがない」
私は一歩後ずさった。
「私は、変わってなんか……」
「変わってるわよ!前のあなたは、もっと素直で、言うことを聞く子だった。それが今は、親の心配も無視して、好き勝手なことをする」
母の言葉が、槍のように私を刺した。
素直で、言うことを聞く子。
それが、母の望む私だった。
自分の意思を持たない、母の言いなりになる人形。
「でも」
私は震える声で言った。
「私だって、自分の時間が欲しい」
母の動きが止まった。
「自分の時間?」
「はい。たまには、友達と長く話したいし、楽しい時間を過ごしたい」
「友達と話すのが、親の心配より大事なの?」
「そうじゃなくて……」
「じゃあ、何?説明してみなさい」
私は言葉に詰まった。
母の理屈は常に正しい。親が心配するのは当然。子どもは親の心配に応えるべき。約束は守るべき。
全部、正論だ。
でも。
「でも、私はもう子どもじゃないです」
その言葉が、私の口から出た。
母は目を見開いた。
「何ですって?」
「私は二十九歳です。自分のことは、自分で決めたい」
「自分で決める?あなたが?」
母は鼻で笑った。
「自分で決められるなら、なぜ一人暮らしに失敗したの?結局、実家に戻ってきたじゃない」
その言葉に、私は言い返せなかった。
「ほら、何も言えないでしょう。あなたは一人じゃ何もできないの。だから、私が守ってあげてるのよ」
母の言葉が、重く私にのしかかった。
「もう、その瞳って人とは会わないで」
母は言い放った。
「え?」
「あなたに悪い影響を与えてる。そんな人と付き合っても、ろくなことにならないわ」
「でも、瞳さんは……」
「いい人?本当にそう?フリーランスのライターなんて、不安定な仕事してる人が、まともなわけないでしょう」
母の決めつけに、私の中で何かが弾けた。
「瞳さんは、いい人です!」
私は初めて、母に大きな声を出した。
母が驚いたような顔をする。父も、階段の上から降りてきた弟も、固まっている。
「瞳さんは、私の話を聞いてくれます。否定しないで、認めてくれます」
「それが洗脳よ!最初は優しくして、信頼させて、それから変なことを吹き込むの」
「洗脳じゃありません!」
私は叫んでいた。
「瞳さんは、私に『自分で考えなさい』って言ってくれるだけです。何も強制しない。私が何を選んでも、尊重してくれる」
「尊重?」
母は冷笑した。
「それが親の務めだとでも?子どもが間違った選択をしようとしてる時、止めるのが親でしょう」
「私は、間違った選択なんてしてません」
「してるわよ!その女と付き合うこと自体が、間違いなの」
「それは、お母さんが決めることじゃない」
私は自分でも驚くほど、はっきりと言った。
母の顔が真っ赤になった。
「あなた、親に向かって何を言ってるの」
「事実を言ってます。私の友達を選ぶのは、私です」
「この家に住んでる限り、私のルールに従いなさい」
「だったら」
私は言った。
「出て行きます」
静寂が訪れた。
父も弟も、息を飲んでいる。
母は信じられないという顔で私を見ていた。
「何ですって?」
「もう一度、一人暮らしします」
言ってしまってから、私は自分の言葉に驚いた。
本当にそう思っていたのだろうか。それとも、勢いで言ってしまっただけなのか。
でも、口にした途端、不思議と心が軽くなった。
「いいわよ、出て行けば」
母は冷たく言った。
「でも今度は、合鍵は貰わない。一切、援助もしない。自分の力だけでやってみなさい」
「分かりました」
私は頷いた。
「好きにしなさい。どうせすぐに、また泣きついて帰ってくるんでしょうけど」
母はそう言って、リビングに戻っていった。
私は自分の部屋に駆け上がった。
扉を閉めて、ベッドに倒れ込む。
何をしてしまったんだろう。
また一人暮らし?合鍵も渡さず、援助もなし?
でも、不思議と後悔はなかった。
むしろ、胸の中で何かが燃えていた。
携帯を取り出し、瞳さんにメッセージを送った。
「家を出て行くことにしました」
すぐに返信が来た。
「大丈夫?何かあったら、いつでも連絡して」
私は返信した。
「大丈夫です。むしろ、すっきりしました」
本当だった。
何かが、変わり始めていた。
第十四章
その夜、私は一睡もできなかった。
ベッドの中で何度も寝返りを打ちながら、本当に一人暮らしができるのか、自問自答を繰り返した。
前回の失敗がフラッシュバックする。母が合鍵で侵入してきたこと。プライバシーが一切なかったこと。結局、耐えられずに実家に戻ってきたこと。
でも、今回は違う。
合鍵は渡さない。母が勝手に入ってくることはない。
それだけで、前回とは状況が全く異なる。
問題は、お金だった。
一人暮らしには、敷金・礼金、引っ越し費用、家具家電。初期費用だけでも相当かかる。母は援助しないと言った。父も、母に逆らってまで私を助けることはないだろう。
貯金を確認した。実家に戻ってから三年間、できるだけ貯めてきた。額面を見て、少し安心した。質素に暮らせば、何とかなるかもしれない。
朝になった。
目の下にクマを作りながら、私はリビングに降りていった。
母は朝食の準備をしていたが、私を完全に無視した。父は気まずそうに新聞を読んでいる。弟はすでに出かけたようだった。
「おはよう」
私が言っても、母は返事をしなかった。
これが始まりだ。母の「無視作戦」。私が謝るまで、母は口をきかない。
でも、今回は謝らない。
私は自分で朝食を用意し、一人で食べた。
会社に行く準備をしていると、父が声をかけてきた。
「本気なのか?」
「うん」
「……そうか」
父は何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。ただ、「無理はするなよ」とだけ付け加えた。
会社に着いてすぐ、私は不動産サイトを検索し始めた。
条件は明確だった。
・家賃は手取りの三分の一以内
・職場から電車で三十分以内
・セキュリティのしっかりした物件
・できれば、実家から離れた場所
最後の条件が一番重要だった。
母が「偶然」訪ねてこられるような距離では意味がない。できれば、隣の市、できれば別の路線がいい。
昼休み、瞳さんから電話があった。
「昨日は大変だったでしょう」
「はい……でも、決めました」
「本当に出るの?」
「出ます。今度こそ、ちゃんと一人で暮らします」
瞳さんは少し黙った後、言った。
「手伝えることがあったら、何でも言ってね」
「ありがとうございます」
「それと、もし部屋探しで迷ったら、私も一緒に見に行くよ。女性の一人暮らしは、セキュリティが大事だから」
その言葉に、私の目が熱くなった。
「お願いします」
電話を切った後、私はトイレの個室で少し泣いた。
母以外の誰かが、私の味方でいてくれる。
それだけで、こんなに心強いなんて。
第十五章
週末、瞳さんと一緒に物件を見て回った。
不動産屋の担当者は、三十代くらいの女性だった。
「お二人は、ご姉妹ですか?」
「いえ、友人です」
瞳さんが答えた。
「お友達と一緒に物件探しなんて、いいですね。一人だと不安なこともありますから」
担当者は親切で、私たちの条件に合う物件を何件か紹介してくれた。
一件目は駅から近いが、古い建物で防犯面が不安だった。
二件目は新しくてきれいだが、家賃が予算オーバー。
三件目は、程よい広さで、オートロック付き。駅からは少し歩くが、商店街が近くて便利そうだった。
「ここ、いいんじゃない?」
瞳さんが言った。
「ベランダも広いし、日当たりもいい」
私も気に入った。何より、実家から電車で一時間以上かかる。母が気軽に来られる距離ではない。
「この物件、検討させてください」
担当者に伝えると、彼女は笑顔で頷いた。
「いいお部屋ですよ。ただ、人気物件なので、決断はお早めに」
不動産屋を出た後、瞳さんと近くのカフェに入った。
「あの部屋、いいと思う」
瞳さんがコーヒーを飲みながら言った。
「私も。でも、本当に決めていいのかな」
「迷ってるの?」
「少し。やっぱり、不安で」
正直な気持ちだった。
一人暮らしをすること自体は決意した。でも、本当にうまくいくのか、まだ確信が持てない。
「不安なのは当然だよ」
瞳さんは優しく言った。
「でも、あなたはもう決めたんでしょう?だったら、前に進むしかない」
「……そうですね」
「それに、今度は違う。合鍵も渡さないし、自分のルールで生きられる」
瞳さんは私の目を見た。
「怖いのは、失敗することじゃない。このまま何も変えずに、ずっと後悔しながら生きることだよ」
その言葉が、胸に響いた。
「明日、不動産屋に連絡します」
私は決意を込めて言った。
「その部屋に決めます」
瞳さんは嬉しそうに笑った。
「よかった。引っ越しの時、手伝うからね」
「本当ですか?」
「当然。友達でしょう?」
友達。
その言葉が、心に沁みた。
母は「友達」という言葉を、いつも警戒の対象として使った。「その友達は信用できるの?」「友達に流されないように」
でも、瞳さんは違った。
私を信じて、支えてくれる。それが本当の友達なんだと、今更ながら気づいた。
第十六章
契約を済ませ、引っ越し日が決まった。二週間後の土曜日。
実家では、相変わらず母の無視が続いていた。
私が話しかけても、母は聞こえないふりをする。食事の時も、父と弟とだけ話す。私の存在は、まるで空気のように扱われた。
最初は辛かった。でも、だんだん慣れてきた。
いや、慣れたというより、どうでもよくなってきたのかもしれない。
引っ越しの準備を進めながら、私は自分の部屋を見渡した。
二十九年間、この部屋で過ごしてきた。
子どもの頃から使っている本棚。中学生の時に買ってもらった勉強机。高校の時の思い出の品々。
でも、不思議と名残惜しさはなかった。
むしろ、この部屋から出られることに、解放感すら覚えた。
荷造りをしていると、父がノックもせずに入ってきた。
「荷物、多いな」
「本が多いから」
私は段ボールに本を詰めながら答えた。
父はしばらく黙って見ていたが、やがて言った。
「お母さんのこと、許してやってくれ」
私は手を止めた。
「お母さんなりに、お前のことを心配してるんだ」
「心配?監視の間違いじゃないですか」
言葉が鋭くなった。
「まあ、そう言うな」
父は困ったように笑った。
「お母さんも、不安なんだよ。お前が離れていくことが」
「でも、私はもう大人です」
「分かってる。でもな、親ってのは、子どもがいくつになっても心配なもんだ」
父は窓の外を見た。
「俺も、お前が一人暮らしすることには賛成じゃない。でも、お前がそう決めたなら、止めはしない」
「……ありがとう」
「ただな」
父は私を見た。
「無理はするな。困ったことがあったら、いつでも連絡しろ」
「うん」
「お母さんには内緒で、少し援助してやる」
父はそう言って、封筒を差し出した。
中を見ると、十万円入っていた。
「お父さん、これ…」
「いいから取っとけ。引っ越しには金がかかる」
私は封筒を握りしめた。
「ありがとう」
父は照れたように頭を掻いた。
「じゃあ、頑張れよ」
そう言って、部屋を出ていった。
一人になって、私は封筒を見つめた。
父なりの応援なのだろう。
母に隠れてまで、私を支えようとしてくれている。
でも同時に、少し悲しくもあった。
父もまた、母の顔色を窺いながら生きている。堂々と「娘を応援する」と言えない。
我が家は、ずっとそうだった。
全てが母の許可制。母の機嫌次第。
でも、私はもうその輪から抜ける。
そう心に決めた。
第十七章
引っ越し当日。
朝早く、瞳さんが実家まで車で迎えに来てくれた。
「おはよう。準備できた?」
「はい。ほとんど」
私は最後の荷物を運び出した。
母はリビングにいたが、姿を見せなかった。
父が玄関まで出てきた。
「気をつけてな」
「うん」
弟も降りてきた。
「姉ちゃん、頑張れよ」
「ありがとう」
私は家を振り返った。
母は、最後まで姿を見せなかった。
「行こうか」
瞳さんが優しく言った。
私は頷いて、車に乗り込んだ。
車が動き出すと、実家がだんだん小さくなっていく。
私は深呼吸をした。
「大丈夫?」
瞳さんが聞いた。
「大丈夫です。むしろ、すっきりしてます」
本当だった。
確かに複雑な気持ちはある。でも、後悔はなかった。
新しいアパートに着くと、引っ越し業者の人たちがすでに待っていた。
荷物の搬入は、思ったよりスムーズに進んだ。
瞳さんは手際よく指示を出し、私を手伝ってくれた。
「本、本当に多いね」
瞳さんが段ボールを開けながら笑った。
「読書好きなので」
「私もだけど、あなたには負けるわ」
私たちは笑いながら、本を棚に並べた。
作業をしながら、私はふと思った。
これが、私の部屋。
誰にも侵入されない、私だけの空間。
夕方、ようやく片付けが終わった。
「お疲れさま」
瞳さんがペットボトルのお茶を差し出した。
「ありがとうございます。本当に、助かりました」
「いいのよ。これから、何かあったらいつでも連絡して」
「はい」
瞳さんは帰り際、玄関で振り返った。
「あのね、一つだけ言いたいことがある」
「何でしょう?」
「これから、きっと辛いこともある。一人暮らしは楽しいけど、寂しいこともある」
瞳さんは真剣な顔で続けた。
「でも、そういう時こそ、自分を信じて。あなたは強い人だから」
「私、強くなんか……」
「強いよ。お母さんの支配から抜け出す決断をしたんだから」
瞳さんは微笑んだ。
「だから、自信を持って」
瞳さんが帰った後、私は空っぽの部屋に一人で立っていた。
静かだった。
誰もいない。誰の視線もない。
私は、自由だった。
ベランダに出ると、夕焼けが見えた。
オレンジ色の空が、街を染めている。
携帯が震えた。
父からのメッセージだった。
「無事に着いたか?何かあったら連絡しろよ」
私は返信した。
「無事です。心配しないで」
もう一通、メッセージが届いた。
弟からだった。
「姉ちゃん、自由を楽しんでね。俺も、いつか出ていくから」
私は微笑んだ。
弟もきっと、同じように感じていたのだろう。母のルールに縛られる息苦しさを。
部屋に戻り、私は段ボールから一冊の本を取り出した。
瞳さんが勧めてくれた、あの恋愛小説。
ベッドに座り、本を開く。
久しぶりに、誰にも邪魔されずに、心から読書を楽しめる。
ページをめくりながら、私は思った。
これが、私の人生の始まりなのかもしれない。
今まで生きてきた二十九年間は、母の人生だった。
でも、これからは違う。
これからは、私の人生だ。
第十八章
一人暮らしが始まって一週間が経った。
最初の数日は、静寂に戸惑った。
実家では、常に誰かの気配があった。母の足音、父のテレビの音、弟の部屋から漏れる音楽。
でも、ここには何もない。
帰宅しても「ただいま」と言う相手がいない。
夕食を作っても、一人で食べる。
誰も私の行動を監視していない。何時に帰ろうと、何を食べようと、誰にも咎められない。
自由だった。
でも、その自由が、最初は少し怖かった。
ずっとレールの上を走ってきた列車が、突然レールのない場所に放り出されたような感覚。
どこへ行けばいいのか、何をすればいいのか、分からなくなる瞬間があった。
そんな時、瞳さんがメッセージをくれた。
「一人暮らし、どう?寂しくない?」
「少し寂しいです。でも、大丈夫」
「そっか。今度、うちに遊びに来ない?手料理ご馳走するよ」
「本当ですか?行きます!」
瞳さんの存在が、私を支えてくれていた。
週末、私は瞳さんのアパートを訪ねた。
瞳さんの部屋は、私の想像通りだった。
本棚が壁一面を覆い、小さなデスクにはノートパソコンと資料が積まれている。
「散らかっててごめんね。仕事場も兼ねてるから」
「いえ、素敵です」
本当に素敵だった。
ここには、一人の人間が自分らしく生きている痕跡があった。
「これ、私が書いた記事」
瞳さんが雑誌を見せてくれた。
読書に関するエッセイだった。文体は優しくて、でもどこか芯が通っていて、読んでいて心地よかった。
「すごい。こんな文章、私には書けません」
「そんなことないよ。あなたの読書ノート、見せてもらったじゃない。あれ、すごく良かった」
「でも、あれは自分のためだけに書いてるもので」
「自分のために書くことが、一番大事なの」
瞳さんはキッチンで料理をしながら言った。
「誰かのために書こうとすると、途端に書けなくなる。でも、自分が書きたいことを書けば、自然と誰かの心にも届く」
私はリビングのソファに座って、瞳さんの話を聞いていた。
「お母さんが亡くなってから、私は自分のために生きることを学んだ」
瞳さんは野菜を切りながら続けた。
「それまでは、母が喜ぶこと、母が認めることだけをしてきた。でも、母がいなくなって、ふと気づいたの。私、自分が何をしたいのか分からないって」
「……」
「だから、最初はすごく迷った。会社を辞めることも、ライターになることも。でも、やってみたら、案外なんとかなった」
瞳さんは振り返って笑った。
「人生って、思ってるより柔軟なのよ」
夕食は、温かいシチューとサラダ、それに焼きたてのパンだった。
「美味しい」
私は心から言った。
「よかった。実は、料理はそんなに得意じゃないんだけど」
「充分美味しいです」
私たちは食べながら、色々な話をした。
仕事のこと、本のこと、将来のこと。
「あなた、これから何がしたい?」
瞳さんが聞いた。
「まだ、よく分かりません」
「それでいいのよ。焦らなくて」
瞳さんはワインを一口飲んだ。
「でも、たまに自分に問いかけてみて。『私は何が好き?』『何をしてる時が楽しい?』って」
「本を読んでる時が、一番楽しいです」
「じゃあ、それを大事にして。本を読むこと、本について考えること、本について誰かと話すこと。それが、あなたの軸になる」
瞳さんの言葉が、胸に響いた。
帰り道、私は夜空を見上げた。
星が、いくつか見えた。
私は、少しずつ変わっている。
母のルールではなく、自分のルールで生きる。
それが、どういうことなのか、まだ完全には分かっていない。
でも、少しずつ、理解し始めている。
第十九章
一人暮らしが二ヶ月目に入った頃、思いがけないことが起きた。
ある日曜日の午前、インターホンが鳴った。
モニターを見ると、母が立っていた。
心臓が止まりそうになった。
なぜ、ここが分かったのか。
いや、分かっていた。父に住所を聞いたのだろう。
私は深呼吸をして、インターホンに出た。
「はい」
「私よ。開けて」
母の声は、いつもと変わらない冷静なトーンだった。
私は迷った。
開けるべきか、断るべきか。
「開けなさい。話があるの」
母の声が、少し苛立ちを帯びてきた。
私はボタンを押した。
オートロックが解除される音がする。
数分後、部屋のドアがノックされた。
ドアを開けると、母が立っていた。
「入るわよ」
母は私の返事を待たずに、部屋に入ってきた。
部屋を見回し、母は顔をしかめた。
「狭いわね。それに、あまりきれいじゃない」
実際、完璧に片付いているとは言えなかった。でも、散らかってもいない。
「まあ、座って」
私は母にソファを勧めた。
母は座り、周囲を観察するように見渡した。
「一人暮らし、どう?」
「……大丈夫です」
「本当に?」
母は疑わしげに言った。
「ちゃんと食事してる?栄養バランス考えてる?」
「考えてます」
「嘘ばっかり。どうせ、コンビニ弁当とかで済ませてるんでしょう」
母の決めつけに、私は何も言わなかった。
「それで、何の用ですか」
私は単刀直入に聞いた。
母は少し驚いたような顔をした。
「用?娘の様子を見に来ちゃいけないの?」
「合鍵は渡してません。どうやって住所を知ったんですか」
「お父さんに聞いたのよ。当然でしょう」
母は当たり前のように言った。
「娘がどこに住んでるか、親が知らないなんてありえないわ」
私は深呼吸をした。
「お母さん、私はもう大人です。一人で暮らせます」
「それは、まだ分からないでしょう」
母は鼻で笑った。
「たった二ヶ月よ。これから、冬が来る。寒くなったら、一人は辛いわよ」
「大丈夫です」
「大丈夫、大丈夫って。あなた、前もそう言って、結局帰ってきたじゃない」
母の言葉が、胸に刺さった。
「今度は違います」
「何が違うの?」
「今度は、本当に自立します」
「自立?」
母は冷笑した。
「あの変な女に吹き込まれたこと、真に受けてるの?」
「瞳さんは、変な人じゃありません」
「じゃあ、何?いい人?」
母の声が鋭くなった。
「あの女が、あなたを唆したんでしょう。家を出ろ、親から離れろって」
「そんなこと言ってません。瞳さんは、ただ私の話を聞いてくれただけです」
「話を聞く?」
母は立ち上がった。
「私だって、いつもあなたの話を聞いてたわよ。あなたのために、どれだけのことをしてきたか」
「でも、それはお母さんが決めたことです。私が望んだことじゃない」
私も立ち上がった。
「私は、お母さんのコピーじゃない。お母さんの人形でもない」
母の顔が真っ赤になった。
「人形?あなた、親に向かって何を言ってるの」
「事実を言ってます」
私は初めて、母にはっきりと言い返した。
「お母さんは、私をコントロールしたかっただけ。私が何を考えてるか、どう感じてるかなんて、興味なかった」
「それは違う!」
母が叫んだ。
「私は、あなたのことを思って……」
「お母さんのことを思ってでしょう」
私は言った。
「お母さんが安心するため。お母さんが満足するため。全部、お母さんのためだった」
母は言葉を失った。
「私は、もうお母さんの期待に応えません」
私ははっきりと言った。
「私は、私の人生を生きます」
沈黙が流れた。
母は震える手でバッグを掴んだ。
「そう。あなたがそう決めたなら、もういいわ」
母は玄関に向かった。
「でも、覚えておきなさい。いつか必ず、後悔する日が来る」
母は振り返らずに言った。
「その時、泣きついてきても、もう助けないから」
ドアが閉まった。
私は立ち尽くしていた。
膝が震えている。
でも、不思議と後悔はなかった。
ソファに座り込み、私は天井を見上げた。
言ってしまった。
母に、初めて本音を言った。
怖かった。でも、すっきりした。
携帯を取り出し、瞳さんに電話をかけた。
「もしもし?」
「瞳さん……」
「どうしたの?泣いてるの?」
「母が、来たんです」
私は全てを話した。
瞳さんは黙って聞いていた。
「よく言ったね」
瞳さんは優しく言った。
「それは、勇気がいることだったはず」
「でも、もう母とは、元に戻れないかもしれません」
「元に戻る必要はないのよ」
瞳さんははっきりと言った。
「新しい関係を築けばいい。対等な、大人同士の関係を」
「そんなこと、できるでしょうか」
「できるかどうかは、分からない。でも、試す価値はある」
電話を切った後、私は窓の外を見た。
雲一つない青空だった。
私は、母との関係を変えた。
いや、変えようとしている。
それがどういう結果をもたらすか、まだ分からない。
でも、これが私の選択だ。
第二十章
母が訪ねてきてから、一ヶ月が過ぎた。
その間、母からの連絡は一切なかった。
父からは時々、「元気か」というメッセージが来た。私は「元気です」と返した。弟からも、たまに他愛のないメッセージが届いた。
でも、母からは何もなかった。
最初は気になっていた。母は本当に怒っているのか。それとも、私が折れるのを待っているのか。
でも、だんだんどうでもよくなってきた。
私には、私の生活がある。
仕事をして、帰宅して、自分で料理を作る。週末は洗濯や掃除をして、本を読む。
時々、瞳さんと会ってお茶をする。
シンプルで、静かな日々。
誰にも邪魔されない、私だけの時間。
これが、私の望んでいた生活だった。
ある土曜日、私は久しぶりに図書館に行くことにした。
一人暮らしを始めてから、図書館からは遠ざかっていた。新しい環境に慣れるので精一杯で、読書する余裕がなかったのだ。
でも、ようやく生活が落ち着いてきて、また本が読みたくなった。
バスを乗り継いで、あの図書館へ向かう。
父とよく通った、あの図書館。
館内に入ると、懐かしい本の匂いがした。
私は新刊コーナーに向かった。
瞳さんと初めて話した、あの場所。
そこで本を眺めていると、誰かが声をかけてきた。
「あれ、お久しぶりですね」
振り返ると、図書館の司書さんが立っていた。六十代くらいの、優しそうな女性だった。
「ああ、こんにちは」
「最近、見かけなかったので、どうされたのかと」
「引っ越しをしまして。少し遠くなってしまって」
「そうだったんですか」
司書さんは微笑んだ。
「お父様も、最近いらっしゃいませんね」
「父も?」
私は驚いた。父は図書館通いをやめたのだろうか。
「ええ。いつも一緒に来られてたのに、ここ一ヶ月ほど」
帰宅してから、私は父に電話をかけた。
「もしもし」
父の声がした。
「お父さん、図書館、行ってないの?」
「……ああ」
父は少し間を置いて答えた。
「最近は、行ってないな」
「どうして?」
「お母さんが、機嫌悪くてな。一人で出かけづらい雰囲気なんだ」
私は胸が痛んだ。
「私のせいで……」
「いや、お前のせいじゃない」
父は慌てて言った。
「お母さんも、色々考えてるんだろう。時間が必要なんだ」
「でも、お父さんまで巻き込んで」
「気にするな。俺は大丈夫だ」
父はそう言ったが、声には疲れが滲んでいた。
電話を切った後、私は罪悪感に襲われた。
私が家を出たことで、父が犠牲になっている。
母の不機嫌の矛先が、父に向かっているのだろう。
これでよかったのだろうか。
私は自由を手に入れたけれど、その代償として、父を苦しめているのではないか。
そんなことを考えていると、瞳さんから電話があった。
「今日、図書館に行ったんだって?」
「どうして知ってるんですか?」
「司書さんから聞いたの。私も今日、行ってたのよ」
「そうだったんですか」
「それで、お父さんの話も聞いた。心配してるでしょう?」
瞳さんには、何でもお見通しだった。
「はい……」
「今から、ちょっといい?」
三十分後、瞳さんが私のアパートに来た。
「これ、差し入れ」
瞳さんはケーキの箱を渡してくれた。
私たちはコーヒーを入れて、ケーキを食べながら話した。
「お父さんのこと、気にしてるのね」
「はい。私のせいで、父まで苦しんでる」
「それは違うよ」
瞳さんははっきり言った。
「お父さんが苦しんでるのは、あなたのせいじゃない。お母さんの問題よ」
「でも……」
「あなたは、自分の人生を生きることを選んだ。それは正しいことよ」
瞳さんは真剣な顔で続けた。
「もし、それでお父さんが苦しんでいるとしたら、それはお父さん自身が、お母さんとの関係を見直すべきだということ」
「父に、そんなことできるでしょうか」
「分からない。でも、それはお父さんが決めることよ」
瞳さんはコーヒーを飲んだ。
「あなたが家を出たことで、家族の力学が変わった。それは事実。でも、その変化をどう受け止めるかは、お父さん次第」
私は窓の外を見た。
夕暮れが近づいていた。
「あなたは、自分を責める必要はないの」
瞳さんが優しく言った。
「あなたは、ただ自分の人生を取り戻しただけ」
その言葉が、少し私を楽にしてくれた。
第二十一章
それから数日後、予想外のことが起きた。
仕事から帰宅すると、父から着信があった。
「もしもし、お父さん?」
「ああ。今、少しいいか?」
父の声は、いつもより真剣だった。
「うん、大丈夫」
「実はな、お母さんと話したんだ」
私の心臓が早鐘を打った。
「お前のことで」
「……何を?」
「お母さんも、色々考えてたみたいでな。お前が出ていってから、毎日のようにお前のことを考えてたらしい」
父は少し間を置いた。
「最初は怒ってた。裏切られたって。でも、だんだん寂しくなってきたって」
「……」
「お母さんなりに、お前を愛してたんだよ。ただ、その表現の仕方が、ちょっと歪んでたのかもしれん」
父の言葉に、私は何も言えなかった。
「それで、お母さんが言うには、お前と話したいって」
「話したい?」
「ああ。ちゃんと、向き合って話したいって」
私は迷った。
また母と話して、また同じことの繰り返しになるのではないか。
「でもな」
父が続けた。
「お母さん、少し変わった気がするんだ。前みたいに、一方的に命令するんじゃなくて、ちゃんと話し合いたいって」
「本当に?」
「本当だ。俺も驚いた」
父の声には、かすかな希望が滲んでいた。
「お前がいいなら、今度の日曜日、家に来ないか?お母さんと話してみないか?」
私は深呼吸をした。
「考えさせて」
「ああ、急がなくていい。ゆっくり考えてくれ」
電話を切った後、私は瞳さんに連絡した。
翌日、カフェで会うことになった。
「お母さんが話したいって?」
瞳さんは慎重に聞いた。
「はい。お父さんは、母が変わったって言うんですけど」
「あなたは、どう思う?」
「分からないです。本当に変わったのか、それとも私を家に戻すための作戦なのか」
瞳さんは頷いた。
「その疑いは、当然よ」
「でも、会わなかったら、何も変わらない」
「そうね」
瞳さんはコーヒーカップを両手で包んだ。
「もし会うなら、一つだけアドバイスさせて」
「何でしょう?」
「境界線を守ること」
瞳さんは真っ直ぐ私を見た。
「あなたの境界線を、しっかり守って。お母さんが何を言おうと、あなたの決めたルールは曲げない。そこだけは、譲らないで」
「境界線……」
「そう。『ここから先は、私の領域。誰も踏み込ませない』って線を引くの」
瞳さんは私の手を握った。
「もしお母さんが本当に変わろうとしてるなら、その境界線を尊重してくれるはず。でも、もし昔と同じように踏み込んでこようとするなら、それは何も変わってないってこと」
私は頷いた。
「分かりました」
「それと、もう一つ」
「何ですか?」
「辛くなったら、いつでも逃げていいからね」
瞳さんは微笑んだ。
「あなたには、帰る場所がある。あなたの部屋が」
その言葉が、私を勇気づけてくれた。
そうだ。私には帰る場所がある。
もう実家ではない。私のアパートだ。
第二十二章
日曜日の朝、私は実家に向かった。
久しぶりに見る実家は、少し小さく感じた。
三ヶ月前まで、ここが私の全てだった。でも今は、違う。
インターホンを押すと、父が出た。
「来たか」
「うん」
父は少し緊張した顔をしていた。
リビングに入ると、母が座っていた。
母も、何か緊張しているように見えた。
「来たのね」
母が言った。いつもの命令口調ではなく、どこか控えめな声だった。
「うん」
私も座った。
しばらく、誰も何も言わなかった。
父が「コーヒー入れてくるな」と言って、席を外した。
母と二人きりになった。
「元気にしてた?」
母が聞いた。
「うん、元気」
「そう……」
母は視線を落とした。
「あのね」
母が口を開いた。
「あなたが出ていってから、色々考えたの」
「……」
「私、間違ってたかもしれない」
母がそう言った瞬間、私は耳を疑った。
母が「間違ってた」と言った。
今まで一度も、母がそんなことを言ったことはなかった。
「私は、あなたのためだと思ってた。あなたを守るため、あなたが間違った道に行かないように、って」
母は顔を上げた。
「でも、あなたはそれを窮屈だと感じてた。私は、それに気づかなかった」
「お母さん……」
「いいえ、最後まで聞いて」
母は手を上げた。
「気づかなかったんじゃない。気づこうとしなかった。あなたの気持ちより、私の安心の方が大事だった」
母の目が潤んでいた。
「あなたが出ていってから、毎日考えたの。私は、何をしてたんだろうって」
母は涙を拭った。
「あなたを育てたんじゃなくて、支配してた。それに気づいたの」
私も、目が熱くなった。
「お母さん……」
「ごめんなさい」
母がはっきりと言った。
「今まで、あなたを苦しめてごめんなさい」
私は何も言えなかった。
母が謝る。
それは、私が想像もしなかった光景だった。
「でも」
母は続けた。
「私、どうしていいか分からないの。あなたとどう接すればいいか」
母は困ったように笑った。
「今まで、命令することしかしてこなかったから」
私は深呼吸をした。
「お母さん」
「何?」
「私も、お母さんを傷つけるつもりはなかった」
「分かってる」
「でも、私は私の人生を生きたい」
「……うん」
母は頷いた。
「それは、当然のことよね」
父がコーヒーを持って戻ってきた。
三人で、コーヒーを飲んだ。
「これから、どうしたらいいかしら」
母が聞いた。
「分からない」
私は正直に答えた。
「でも、少しずつ、新しい関係を作っていけたらいいなって思う」
「新しい関係?」
「うん。母と娘じゃなくて、大人同士の関係」
母は少し考えて、頷いた。
「そうね。それがいいかもしれない」
その日、私たちは長い時間話した。
母の子ども時代のこと。母が私をどんな風に育てたかったのか。
そして、私が何を感じてきたのか。
全てを理解し合えたわけではない。
でも、一歩前進した気がした。
帰り際、母が言った。
「今度、あなたの部屋に行ってもいい?」
私は少し迷ったが、頷いた。
「いいよ。でも、事前に連絡してね」
「もちろん」
母は微笑んだ。
「勝手に押しかけたりしないわ。約束する」
その笑顔は、今まで見たことのない、柔らかいものだった。
第二十三章
それから、私と母の関係は少しずつ変わっていった。
母は週に一度、メッセージを送ってくるようになった。
「元気?」
「今日は寒いから、暖かくしてね」
短いメッセージだが、以前のような命令口調ではなかった。
私も返信した。
「元気だよ」
「ありがとう」
ある日、母から電話があった。
「来週の日曜日、あなたの部屋に行ってもいい?」
「いいよ」
「お昼ご飯、作っていくわ」
「無理しなくていいよ」
「無理じゃないわ。娘のために料理を作るのは、楽しいもの」
母の声が、明るかった。
日曜日、母は約束通り来た。
大きなタッパーを抱えて。
「あなたの好きな肉じゃがと、煮物と、それから卵焼き」
「ありがとう」
私たちは一緒に昼食を食べた。
「部屋、きれいにしてるのね」
母が言った。
「うん、自分なりに」
「前は、もっと散らかってたのに」
母は笑った。
「一人暮らしをして、成長したのね」
その言葉に、私は少し驚いた。
母が、私の成長を認めてくれた。
食事の後、母は本棚を見ていた。
「たくさん本があるのね」
「うん。図書館で借りたり、買ったり」
「この本、面白い?」
母が一冊手に取った。
「うん、すごく良かった」
「今度、貸してくれる?」
私は目を丸くした。
「お母さんが、本を読むの?」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど、珍しいなって」
母は少し照れたように笑った。
「あなたが好きな本がどんなものか、知りたいと思って」
その言葉が、温かかった。
母は、私を理解しようとしてくれている。
「じゃあ、これなんかどう?読みやすいよ」
私は一冊の小説を手渡した。
母はそれを大事そうに鞄にしまった。
「読んだら、感想聞かせてね」
「ええ、楽しみだわ」
母が帰った後、私は部屋で一人、窓の外を見ていた。
母が変わった。
いや、変わろうとしている。
完璧ではない。時々、昔の癖が出る。
「あまり夜更かししないでね」
「ちゃんと栄養取ってる?」
でも、以前とは違う。
命令ではなく、心配。
支配ではなく、気遣い。
そして私も、変わった。
母の言葉を、全て拒絶するのではなく、受け入れられるものは受け入れる。
「ありがとう」と素直に言えるようになった。
それは、健全な距離があるからこそ、できることだった。
第二十四章
ある土曜日、私は久しぶりに父と図書館に行くことになった。
父が「たまには一緒に行かないか」と誘ってくれたのだ。
「お母さんも、もう大丈夫だから」
父は言った。
「というか、お母さんが『たまには親子で出かけてきたら』って言うんだ」
それを聞いて、私は少し驚いた。
以前の母なら、絶対にそんなことは言わなかっただろう。
父の車で図書館に向かう道すがら、父が言った。
「お前、よく頑張ったな」
「え?」
「家を出て、自分の道を行くって決めて。それは、勇気がいることだ」
父は前を見たまま続けた。
「俺には、できなかった」
「お父さん……」
「ずっと、お母さんの言う通りにしてきた。それが楽だと思ってた。でも、お前を見て、考えが変わった」
父は信号で止まった。
「俺も、もっと自分の意見を言ってもいいんだなって」
「お父さん、お母さんに何か言ったの?」
「ああ。お前が出ていった後、お母さんとちゃんと話したんだ」
父は少し照れたように笑った。
「お母さんのやり方は、時々行き過ぎだって。俺も、もっとお前たちの味方になるべきだったって」
「それで?」
「最初は、お母さんも怒ってた。でも、だんだん聞いてくれるようになった」
父は私を見た。
「お前が家を出たことが、きっかけだったんだ。家族が変わるための」
図書館に着いた。
私たちは、かつてのように館内を歩いた。
でも、以前とは違う。
今は、ゆっくりと他の本も眺める余裕がある。
急いで本を選んで、急いで帰る必要はない。
「これ、面白そうだな」
父が一冊手に取った。
「それ、私も読んだ。すごく良かったよ」
「そうか。じゃあ、借りてみるか」
父と本の話をする。
こんな風に、父と対等に話せることが、嬉しかった。
カウンターで本を借りた後、父が言った。
「お腹空いたな。どこかで昼飯食べていくか?」
「いいね」
私たちは近くのレストランに入った。
注文した後、父が言った。
「お母さん、お前に会えて嬉しそうだった」
「私も」
「これからも、時々家に来てやってくれ。お母さん、楽しみにしてるから」
「うん、行くよ」
私は微笑んだ。
「でも、今度は娘として帰るんじゃなくて、訪問者として行く」
父は笑った。
「それがいい。お互い、ちょうどいい距離でいるのが一番だ」
食事をしながら、私たちは色々な話をした。
仕事のこと、趣味のこと、読んだ本のこと。
父は、私が思っていたよりずっと面白い人だった。
ただ、ずっと母の影に隠れていただけだったのだ。
第二十五章
その夜、私は瞳さんに電話をかけた。
「今日、お父さんと図書館に行ってきたんです」
「それはよかった。どうだった?」
「すごく、楽しかった。父と、こんなに話したのは初めてかもしれない」
私は窓の外を見ながら続けた。
「家族が、変わってきてるんです。少しずつだけど」
「それは素晴らしいことね」
瞳さんの声が温かかった。
「あなたが一歩踏み出したから、みんなが変われた」
「瞳さんのおかげです」
「ううん、違うよ」
瞳さんははっきり言った。
「あなた自身の力よ。私は、ちょっと背中を押しただけ」
「でも……」
「あなたは強い人なの。自分で気づいてないかもしれないけど」
瞳さんは続けた。
「母親の支配から抜け出すって、本当に大変なこと。でも、あなたはやり遂げた」
私は目頭が熱くなった。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとう」
「え?」
「あなたと出会えて、私も色々考えさせられた」
瞳さんは静かに言った。
「母との関係、まだ整理できてないことがたくさんあったって気づいた」
「瞳さんでも?」
「うん。母が亡くなってから、向き合うことを避けてた。でも、あなたを見て、ちゃんと向き合わなきゃって思えた」
二人で、しばらく黙っていた。
でも、それは心地よい沈黙だった。
「あのね」
瞳さんが言った。
「来月、私の母の墓参りに行くんだけど、一緒に来ない?」
「いいんですか?」
「うん。あなたに、母を紹介したい。天国の母に、素敵な友達ができたって伝えたい」
私は微笑んだ。
「ぜひ、行きます」
電話を切った後、私は読書ノートを開いた。
最近読んだ本の感想を書こうと思ったが、その前に、ふと思い立って書いた。
「今日、父と図書館に行った。昔みたいに、でも昔とは違う。私たちは変わった。家族は変わった。そして、私も変わった。
母との関係は、まだ完璧じゃない。時々、ぎくしゃくすることもある。でも、それでいいと思う。
大事なのは、完璧な関係じゃなくて、お互いを尊重し合える関係。
私は、ようやくそれが分かった。
そして、瞳さんという友達に出会えたことに感謝している。
彼女がいなかったら、私は今も母のルールの中で生きていたかもしれない。
でも、今は違う。
私は、私のルールで生きている。
それは時に孤独で、時に不安だけど、でも自由だ。
そして、その自由の中で、私は本当の家族との関係を築き始めている。」
ペンを置いて、私は本棚を見た。
たくさんの本が並んでいる。
これは、私が選んだ本たち。
誰かに言われて読んだ本じゃなく、私が読みたくて選んだ本。
私は一冊手に取り、ベッドに座った。
ページを開く。
静かな夜。
誰にも邪魔されない、私だけの時間。
これが、私の人生。
私が選んだ、私の人生。
エピローグ
半年後。
私は図書館の窓際の席で、本を読んでいた。
隣には瞳さんが座って、ノートパソコンで原稿を書いている。
「ちょっと、ここ読んでみて」
瞳さんが画面を見せてくれた。
それは、母娘関係についてのエッセイだった。
「いいですね。すごく心に響きます」
「ありがとう。あなたのこと、少し参考にさせてもらったの」
「光栄です」
私たちは笑った。
携帯が震えた。母からのメッセージだった。
「今度の日曜日、家に来ない?あなたの好きな料理を作るわ。瞳さんも一緒にどうぞ」
私は瞳さんに画面を見せた。
「お母さんから。一緒にどうですか?」
「いいの?」
「もちろん。母も、あなたに会いたがってます」
瞳さんは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
私は母に返信した。
「行きます。瞳さんも一緒に」
すぐに返事が来た。
「楽しみにしてるわ。お父さんも喜ぶわよ」
私は携帯をしまい、再び本を開いた。
窓の外では、桜が咲き始めていた。
新しい季節が、始まろうとしている。
そして、私の新しい人生も、まだ始まったばかり。
これから、どんな物語が待っているのか分からない。
でも、それでいい。
私は、私の物語を、自分で書いていく。
誰かのルールではなく、私自身のルールで。
それが、私の選んだ生き方だから。
本を読みながら、私は静かに微笑んだ。
自由は、こんなにも美しい。
──完──




