第一章 転移
目覚めた時、ソウタは雪の中にいた。
見上げると、真っ白な空。周囲には雪に覆われた景色が広がっている。だが、異変はそれだけではなかった。自分の手を見ようとして、ソウタは言葉を失った。
手がない。足もない。体も見えない。
「何が...起きてる?」
声は聞こえる。胸も痛い。足も冷たい。だが、それを確認する手段がない。パニックが彼を襲った。ソウタは必死に自分の腕を探した。見当たらない。足を動かそうとした。感覚はあるが、目に映るものは雪景色だけだ。
彼は雪の上で何度も転んだ。見えない身体は、バランスを保つことが難しかった。やがて、絶望感に包まれた彼は、その場に座り込んだ。
どうなっているんだ。何が起きたんだ。
記憶を辿った。確か、彼は日本の自分の部屋にいた。パソコンに向かって仕事をしていた。退屈な日常。つまらない人生。そんなことを考えていた時、白い光が見えた。それきり、意識が途絶えた。
転移?異世界?そんなことがあるのか。
だが、現実を受け入れる必要があった。彼は今、透明人間になってしまった。この白く、寒い世界で、見えない存在になってしまった。
何時間経ったのか、彼はようやく立ち上がった。歩くことを覚えなおす必要があった。見えない足で、どうやって歩くのか。手探りで、彼は歩き始めた。
やがて、村が見えた。いや、見えなかったが、音が聞こえた。人間の声。商人の叫び声。子どもたちの笑い声。生きた世界の音。
ソウタは、慎重に村に近づいた。
村は小さかった。木造の家が立ち並び、商人が屋台を出していた。雪で覆われた通りには、村人たちが行き来していた。皆、温かそうな衣服を纏い、冬を過ごす準備をしていた。
ソウタは、村人たちの会話を聞いた。
「クリスマスがもう近いね。あと一ヶ月ほどで、あの夜が来るよ」
年配の商人が若い従業員に話していた。商人は、布地と装飾品を売っているようだった。クリスマスの飾りが、店の前に山積みになっていた。
「クリスマスの夜ですか。何か特別なんですか?」
若い従業員が聞いた。まるで新しく村に来た者のような言い方だった。
「ああ。この『ウィッシュランド』という世界では、クリスマスの夜に心から願ったことが、一つだけ叶うんだ」
年配の商人は、誇らしげに語った。
「ただし条件がある。その願いが純粋な心から生まれたものであること。そして、他者を思う気持ちが含まれていること。自分のためだけの願いじゃ、絶対に叶わない。この世界の魔法は、利己心を嫌うんだ」
ソウタは、その言葉に耳を傾けた。ウィッシュランド。願いが叶う世界。
なら、自分が願えば、この透明な状態から戻れるかもしれない。
だが、すぐに別の疑問が浮かんだ。他者を思う心が必要だという。透明人間の自分が、誰のために願うことができるのか。
その時、若い従業員が続けた。
「でも、ほとんどの人は自分のために願ってしまうんじゃないですか?」
年配の商人は、深くうなずいた。
「そうだ。だから、ほとんどの人の願いは叶わない。クリスマスの魔法は、心の奥底を見る。純粋な心。他者を思う気持ち。そういった本質を見極めるんだ。だからこそ、この祭りは神聖なんだ」
ソウタは、その言葉を胸に刻み込んだ。他者を思う心。そんなものは、自分にあるのか。
彼は村を探索することにした。見えない身体は、人目につかずに町中を歩き回ることができた。
商店では、クリスマスの準備が進められていた。装飾品、贈り物、食べ物。すべてが、クリスマスという祭りに向けて準備されていた。
ソウタは、食べ物の香りに誘われた。その商店の裏口をくぐり、調理場に入った。誰も見ていない時間帯。ソウタは、焼きたてのパンに手を伸ばした。
だが、途中で止めた。
盗むことはできる。見えない身体なら、簡単にできる。だが、人間としてのプライドが、わずかながら残っていた。
彼は、その場を離れた。そして、仕事を探すことにした。
見えない存在だからこそ、できる仕事がある。人目につかない作業。誰も手がけたくない仕事。
翌日、ソウタは農家の周辺で働き始めた。冬の農作業は、苦労が多かった。凍った地面を掘り起こす。枯れた茎を片付ける。修理が必要な柵の板を直す。
見えない手で、これらの仕事をこなした。
農家の主人・ジャックは、最初は驚いていた。だが、見えない力が悪意を持たないことに気づくと、黙認するようになった。
「何か、ここにいるんじゃないか」
ジャックは、家族に話した。
「見えない者の仕業かもな」
妻のマリアが答えた。
「いや、悪意はない。むしろ、我々を助けてくれている。あの修理は、誰かが見えない手でやった」
ジャックの息子・トムが言った。
「見えない善き存在か。何か、伝説のようだ」
噂は広がった。村に、見えない善き存在がいるという話が。
人々は、その存在に感謝を述べ始めた。祈りを捧げた。見えない存在は、村の守護者になっていた。
だが、ソウタ本人は、何も感じていなかった。見えない存在として、何かをすることは、無意識の行動に過ぎなかった。人間らしさを失いかけていた彼にとって、仕事をすることは、ただの時間つぶしだった。
その時、少女が転んだ。
ソウタは、それを目撃した。村の広場の階段での出来事。一人の少女が、大きな荷物を運びながら階段を上っていた。彼女は、村の人々からの依頼を受けて、冬の食糧を運んでいたのだ。
彼女の足がもつれた。階段の上から、彼女が転ぶ瞬間。
反射的に、ソウタは彼女を支えた。
見えない手が、彼女の腕を掴んだ。彼女は、転ぶ一歩手前で支えられた。衝撃が走ったが、彼女の体は無傷だった。大きな荷物も、こぼれずに済んだ。
「あ...」
少女は、その場に立ち尽くした。体が浮かぶ感覚。見えない何かに支えられている感覚。心臓が激しく鼓動している。彼女の名は、リル。この村で最も心優しいと言われている少女だった。十六歳。孤児で、生まれた時から村の人々に世話をされながら暮らしていた。
「誰かいるんですか?」
リルは、何度も周りを見回った。だが、誰もいない。農家からも人が出てこない。市場からも。見えない存在。
リルは、その瞬間を理解した。
「ありがとうございます」
彼女は、静かに呟いた。そしてゆっくり階段を降りた。足は震えていた。だが、彼女の心には、何か温かいものが満ちていた。
誰か。見えない誰かが、彼女を守ってくれた。
その後、毎日のようにリルはその階段に現れるようになった。昼間は村人の手伝いをし、夜になると階段に座った。空を見つめた。
ソウタは、彼女の傍に隠れるように立つようになった。見えない存在として。毎晩。
彼は、なぜか彼女を守りたいという衝動に駆られた。もし彼女が危険に晒されたなら。もし彼女が転ぼうとしたなら。そういう時には、いつも彼女を支えるのだ。
日が経つにつれ、ソウタは気づいた。自分は、この少女のためなら、何かをしたいと思うようになっていた。これが、人間の心というものなのか。
やがて、リルが歌い始めた。クリスマスの季節が近づくにつれ、村中がクリスマスの歌で満ちていた。子どもたちが歌い、大人たちが歌い、村全体が祝いの雰囲気に包まれていた。
リルも、その歌を覚えて歌うようになった。
「もし、願いが叶うなら...」
リルの歌は、そこで途切れた。声が震えていた。ソウタは、その時初めて、彼女の心に何か深い悲しいものが隠されていることに気づいた。
彼女は何を願いたいのか。何に苦しんでいるのか。
その夜、ソウタは村の教会の近くで、リルの話を聞いた。彼女は、村の司祭・ゴードンに何かを相談していたのだ。
「リルよ。君の悲しみは何だ。」
司祭は、優しく問いかけた。
「わかりません。ただ...」
リルの声は、弱々しかった。
「私は、この村で何ももたらさない人間です。孤児だから、生まれた時から誰にも必要とされていません。村の人は優しく接してくれますが、それは義務だからです。本当の心から、私を必要としている人は誰もいません」
司祭は、リルに手を置いた。
「君はそう思っているのか。だが、君の存在は確かに村の人々に喜びをもたらしている。君の優しさは、誰もが知っている」
「でも、それは...」
リルは、首を振った。
「それは、社会的な役割だけです。本当の私を必要としている人は、いません」
司祭は、深くため息をついた。
「君は、クリスマスで何を願うのだ」
「私は...」
リルは、長い沈黙の後、語った。
「私は、見えない存在になりたいです。もし、見えないなら、誰も期待してくることがありませんから。失望させることもない。ただ、静かに存在することができる」
司祭は、それを聞いて、何も言わなかった。ただ、リルの肩を優しく抱いた。
その会話を聞いていたソウタは、全身が震えた。
リルも、彼女の心に深い悲しみを抱えていたのだ。見えない存在になりたいと願うほど。
ソウタは、その時初めて、自分が何をすべきかを理解した。
クリスマスまで、二週間。
村中がクリスマスの準備で沸き立ち始めた。商人たちは装飾品を売り、職人たちは贈り物を作った。子どもたちは、クリスマスの夜に何を願うのかについて、興奮して語り合っていた。
だが、リルの表情は、日に日に暗くなっていた。彼女は、見えない存在になることを本気で願い始めていたのだ。
ソウタとリルの距離は、少しずつ縮まっていった。
リルは毎晩、その階段に座った。ソウタは、彼女のそばに立った。言葉を交わさないまま、二人は時間を共有した。
最初は、ソウタが彼女の背中にそっと手を当てることはなかった。だが、やがてそうするようになった。彼女が悲しみに沈んでいる時に、そっと肩に手を置いた。
リルは、その手の温もりを感じた。見えない誰かの手。その手は、確実に存在していた。
やがて、ソウタは彼女の手を握るようになった。見えない手で。握り返してくる彼女の手。その温もり。その信頼。
言葉を交わさずに、二人は深く愛し始めていた。
終わり




