炎上
――ピンク色の髪をした若い男。派手な衣装に下品な笑顔。
どこかで見覚えがあった。
炎上系動画配信者〈きよし@〉だ。
【ターゲット:動画配信者(突撃系)】
【依頼内容:SNS上での炎上誘導。目的=信用失墜】
思い出した。ニュースで見た顔だ。
長谷川市議宅に押しかけ、市議の妻にカメラを回しながら質問を浴びせていた、あの男。
報道はすぐに沈静化したが、強烈な髪色と下卑た笑い声は記憶に残っていた。
紗季は一瞬ためらった。
けれど、「承諾」をクリックする指は止まらなかった。
依頼の承諾ボタンを押した瞬間、専用サーバーへのアクセス権限が開かれた。
膨大な個人情報の断片、住所、交友関係、過去の投稿。
紗季は目にも留まらぬ速度でデータを整理し、ターゲットの弱点を洗い出していく。
「……女癖。借金。スポンサーとのトラブル……」
指先がキーボードの上を踊るたび、匿名のSNSアカウントが量産される。
AIが吐き出す文章を微調整し、ターゲットにとって都合の悪い情報を“偶然”流出したように見せかける。
その合間に、過去の動画を切り抜いて拡散用の短尺を生成する。
「モラルなき突撃」「被害者を二度殺す」といったキャッチコピーを添えて。
わずか数時間。
タイムラインにはきよし@を批判する声が雪崩のようにあふれ出していた。
――炎上の火は、もう誰にも止められない。
だが紗季は画面を見つめながら、胸の奥にいつも重たいものを感じていた。
(……わたしがやっている事はあいつらと同じ)
数時間後。
きよし@は自らのアカウントで必死に火消しを試みていた。
「誤解です」「デマです」と叫んでも、燃え広がった炎は止まらない。
スポンサー契約解除、チャンネル登録者激減、事務所からの契約打ち切り――。
紗季の仕掛けた火種は、彼の居場所を容赦なく焼き尽くしていった。
やがて通知音が鳴った。
【ジョブ完了。報酬が送金されました】
電子通貨の残高が跳ね上がり、数字が鮮やかに輝く。
(……終わった)
安堵と同時に、冷たいものが背筋を這った。
人ひとりの人生を狂わせたのに、報酬はただ数字でしかない。
紗季はモニターに映る残高を見つめながら、自分の心が少しずつ摩耗していくのを感じた。
だが、その余韻も束の間。
再び通知が点滅する。
【新規ジョブが届いています】
モニターの点滅を眺めながら、数年前の記憶を思い出していた。
――小学校六年の夏。
当時一年生だった弟・流星は、学校から帰る途中で忽然と姿を消した。
警察の捜索も、両親の必死の呼びかけも、何の手がかりも得られなかった。
駅前でのビラ配り。街角で泣きながら頭を下げる両親。
けれどネットには「親の監督不行き届きだ」「自作自演だ」と心ない言葉が溢れ、家族をさらに追い詰めた。
活動は次第に衰え、両親の関係も冷え切り、家は崩壊寸前となった。
近所にも出歩けなくなり、いつしか家族は引っ越しを余儀なくされた。
紗季はモニターを見つめ、深呼吸した。
弟を探すために潜り込んだネットの奥底。
その行為こそが、彼女を天才ハッカーへと変えていった。
そして気づけば、裏社会の闇にまで足を踏み入れていたのだ。
◆
紗季は普段、SNSをほとんど使っていなかった。
アカウントはあるものの、フォロワーは十人程度。フォローも百件ほど。学校の友達は恐らく紗季がSNSをやっている事すら知らないだろう。
そんな紗季のもとに、唐突にDMが届いた。
――〈その参考書、僕も使ってるんだ〉
(!?)
メッセージに添えられていたのは、昨日買ったばかりの参考書の写真。誰にも見せていない。鞄に入れて家で開いただけのはずなのに。
(……なんで? 誰が知ってるの?)
背筋を冷たいものが這い上がり、スマホを持つ指が震えた。
翌朝の通学電車。
潮田駅の次――エキスポ前駅で、またあの男子生徒が乗ってきた。
紗季の数メートル先に立ち、つり革に手をかける。制服は同じ。だが一学年上だろうと見て取れた。
(……また、あの人)
偶然だと思おうとした。だが、このところ何度も同じ状況に出くわしている。紗季の胸に、言い知れぬざわめきが広がった。
放課後。
紗季は時々、人目を避けるために潮田駅から二駅離れたドラッグストアを利用していた。
そこでなら、同じ学校の誰かに生理用品を買う姿を見られる心配もないからだ。
その日も棚に手を伸ばしかけ――凍りついた。
通路の先に、またあの男子生徒が立っていた。すでに商品を手に取り、ゆっくりとこちらを見やる。
視線が合った瞬間、にやりと笑ったように見えた。
(……どうしてここに? 私がこの店を使ってるなんて、誰も知らないのに)
血の気が引く感覚。足早にレジに向かい、背後を振り返ることなく店を出た。
その夜。紗季は意を決して調べ始めた。
学校のPC端末に忍び込み、名前を突き止めた。
それは紗季にとってはお手の物だった。
――羽田信二。三年生。(いる この人だ。)
口に出した瞬間、唾をごくりと飲み込んだ。。
ただの偶然ではなかった。確信が背筋を冷たく締めつける。
翌日から、被害は加速した。
自宅の電話に無言電話。
「見てるよ」「その服、似合ってた」といったDMが届き、添付された写真には団地の近所や、帰宅途中の横顔が写っていた。
(……もう、偶然なんかじゃない)
紗季は慌ててカーテンを引き、スマホを抱きしめた。
誰もいないはずの部屋の中で、全身の震えが止まらなかった。
その夜。
不意にインターホンが鳴った。
心臓が跳ね、モニターを覗き込む。
そこに映ったのは――羽田信二だった。
「……パソコン、得意なんだよね」
薄く笑みを浮かべるその声に、紗季の血の気が一気に引いた。
裏の顔を覗かれたのではないか――そんな恐怖が、全身を締めつけていた。
その瞬間、背後の玄関ドアが開いた。父が帰宅してきたのだ。
「ただいま」
慌ててモニターを見直すと、すでに誰の姿も映っていなかった。
「さっき、誰か来てなかった?」と紗季が問うと、父は不思議そうに首をかしげた。
「いや……誰もいなかったけど?」
その返答に、紗季の胸はさらにざわめいた。自分にしか見えていないのか――そんな疑念が、静かに心を締めつける。
翌朝。団地のポストを開けると、茶封筒が差し込まれていた。
差出人はなく、宛名だけが〈天野紗季様〉と殴り書きされている。
訝しみながら封を切ると、中から小さなマスコット人形が転がり落ちた。
黒ぶち眼鏡、セミロングの黒髪――まるで自分を模したような造形。
そして髪の部分を指で触れた瞬間、ぞっとした。
(これ……本物の髪?)
「キャッ!」 紗季は思わずそれを床に投げつけた。
数日後。
図書委員の仕事で帰宅が遅れ、潮田駅を降りたのは夜九時を回っていた。
駅から団地まで続く長い坂道は、街灯もまばらでほとんど真っ暗。
足早に歩いていると、背後から足音が重なった。
「天野さん」
声に心臓が跳ねる。
振り向くと、そこにはやはり羽田信二が立っていた。
紗季の血の気が引いていく。
「この前の人形、受け取ってくれた?」
「天野さんのために、心を込めて作ったんだ」
「髪の毛は僕の髪と、天野さんの髪を混ぜてある。かわいいだろう?」
紗季の呼吸が乱れる。羽田はさらに言葉を重ねた。
「僕は君のこと、なんでも知ってるよ。だって結婚するなら知っとかなきゃいけないだろう?」
「きっと僕たち、幸せになれる」
その声はすぐ背後から迫り、息が首筋にかかるほどだった。
紗季は堪えきれず、涙が滲む目をこらえて走り出した。
「くっ うう……」
団地の階段まで、あと十メートル。
背後から肩をつかまれた。
「ねえ、待ってよ。待ってったら――紗季」
「キャーッ!」
思わず叫び声をあげる。
その直後、団地の入り口から降りてくる人影があった。
(よかった……誰か来てくれた)
胸の奥に安堵が灯る。
しかし街灯に照らされた顔を見た瞬間、紗季の足が止まった。
そこにいたのは、階下に住むあの目つきの悪い青年だった――。