匿名
兵庫県立・汐路台高校。
昼休みの喧噪に満ちた教室の中で、天野紗季は窓際の席に腰を下ろし、黙々と弁当を口に運んでいた。
黒縁の眼鏡。地味なカーディガン。整った容姿をわざと覆い隠すような装い。笑顔を作ることもなく、淡々と箸を進める姿は、まるで色彩を抜かれた一枚の写真のようだった。
教師も生徒も、彼女を「誰とでもそつなく付き合える無難な生徒」としか見ていない。だが、その仮面の奥に沈む影に気づく者は、誰一人いなかった。
窓の外では、風に揺れる草木がざわめきを立てる。小さな蝶が花壇の花に舞い降りるが、その羽の色も、紗季の瞳には褪せて映った。世界はどこか、音を立てずに止まっているかのように思えた。
――
放課後。
紗季は団地の階段を上がる途中、ふと足を止めた。
一階の部屋から、車椅子に乗った女性と、それを押す青年が出てくるのを目にしたからだ。
夕暮れの風が古い植え込みの葉を震わせ、長く伸びた影をアスファルトに落としている。遠くでヒグラシの鳴き声が途切れ途切れに響いた。
紗季は軽く会釈を返した。青年の視線が一瞬だけ彼女を射抜く。冷たい刃のような眼差し。
その奥に何があるのか、彼女にはわからなかった。ただ胸の奥が、ひやりと凍りついた。
「こんにちは」
彼から短く投げかけられた声は意外にも落ち着いていたが、紗季の返事は上ずり、途切れがちだった。
二人が去った後も、青年の横顔は脳裏に焼きついたまま離れなかった。
――
部屋に戻ると、紗季はカーテンを閉め、机に置かれたノートパソコンを開いた。
青白いモニターの光が、仮面を剥がした彼女の顔を照らす。ここからが、もう一つの現実。
匿名掲示板にログインすると、すでに見慣れたハンドルネームが点灯していた。「Moonless」。
〈Serika:今日も疲れた〉
〈Moonless:おつかれ。学校って、宿題とかテストばっかりちゃうの?〉
〈Serika:そう。でも結局、人間関係の方が疲れる〉
〈Moonless:大人も同じや。客の顔色伺って笑顔貼り付けて……地獄やで〉
〈Serika:仕事、大変そう〉
〈Moonless:でも、こうして誰かと話せるんは救いや。ありがとな〉
紗季は小さく口元を動かした。声にならない微笑。
「ありがとう」と打とうとしてやめ、代わりに「うん」とだけ返す。
〈Moonless:そういや、うちの弟も人間関係ヘタでな。親泣かせてばっかりやった〉
――紗季の指が止まった。
胸の奥を冷たい刃がなぞり、呼吸が浅くなる。
〈Moonless:どうしたん?急に黙ったやん〉
〈Serika:……何でもない。大丈夫〉
平静を装った言葉を打ち込みながら、視界がわずかに揺れた。心の奥に、凍りついた記憶が沈んでいる。
(……言いそうになった。「私にも弟がいた」って)
(でも言えば終わり。匿名やからこそ繋がれるんや)
紗季は息を吐き、画面を閉じかけた。その瞬間、新しい通知が表示された。
【新規ジョブ依頼:SNSアカウントの監視・炎上操作】
【依頼報酬:電子通貨で即日支払い】
送り主は「グローバル・インフォメーション・サービス」通称「GIS」。
表向きはセキュリティ企業だが、その背後に潜むものを、紗季はまだ知らない。
画面に表示されたターゲットの写真を見て、紗季は息を呑んだ。
――ピンク髪の派手な男。ニュースで何度も見た顔。長谷川市議の妻にマイクを突きつけ、笑いながら煽り立てた炎上系YouTuber。
「……こいつ」
唇が小さく震える。胸の奥に重苦しい影が広がっていく。
かつて家族を追い詰めた「ネットの世論」と、今の自分の仕事が重なって見えた。
それでも指は止まらない。静まり返った団地の一室に、キーボードを叩く音だけが響いていた。
窓の外で草木が風に揺れていた。まるで止まった時間をなぞるように。
――あの日から、家族の時間は動きを失ったままだった。