秘密結社に気をつけろ!
秘密結社に気をつけろ! 手渡されたチラシの見出しを読んで思わず足を止めた。週末のスーパーの特売品か、新しくオープンした整骨院の割引、そんな内容を期待していたのに、当てが外れた。見出しの下にはこう書かれている。 悪の怪人が毒を街に撒いている。皆知らぬ前に毒に侵されている。 気をつけろ、目を覚ませ。飲み込まれるな。 飲み込まれるなとは強いメッセージだ。頭の中に黒ずくめの戦闘員や、戦闘員を率いる怪人がよぎった。 幼稚園の頃、俺はヒーローものの特撮ドラマに熱中していた。卒業アルバムの将来なりたいものの欄に当時放映されていた戦隊物の主役の名前を書いたものだ。 とはいえ、実際の世の中に悪の秘密結社は存在しない。一体これはなんのチラシなのだろう。怪人が毒を撒いている? 最近インターネットでもよく目にする陰謀論という奴だろうか。 どんな人間がこんなチラシを配っているのかと振り返る。チラシを配っているのはネクタイこそしていないものの黒いスーツを着た男で、特段おかしな所は無かった。「壮亮?」 ただその俳優のような精悍な横顔と癖毛の頭髪に見覚えがあった。思わず彼の名前を口に出していた。 だが壮亮と思った人物はこちらに気づいた風でもない。妙なチラシを配っているその男が友人という確信も持てず、通勤途中という事もあって踵を返した。
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「尾崎って仲良かったっけ?」 将司がそう言った時、思わず今朝会ったよと言いそうになった。だが、今朝見たチラシを配っている男が高校時代の友人である、尾崎壮亮であるか確信はなく、いったん質問に対して「まあまあ」と答える。「ただ社会人になってからは殆ど会ってないな」 大学を卒業して社会人になって10年近くになる。時の流れは早いものだ。卒業したばかりの頃は友人と飲む時は決まって繁華街の中にある、安さが売りの騒がしい居酒屋だった。その後夜通し遊ぶ事も少なくなかったが、今はもう少し静かな、繁華街からは離れた店で会う事の方が多い。「将司は仲良かったっけ?」そんな話は聞いた事がなかったが、一応確認する。「いや」と将司は否定する。「二十歳の時に同窓会があったろ、あれ以来会ってない」 その将司が何故今壮亮の話題を?と疑問に思った直後「奥さんが亡くなったらしい」と続けた。「それで変になっちまったって噂になってる」 頭の中には今朝のチラシの浮かんでいた。確かにまともな内容ではなかった。だが、悪の秘密結社と妻を無くした事はどうにも結びつかない。「この間な、お前の住んでる最寄駅で尾崎を見たって奴がいるんだ。妙なチラシを配っていたらしい」「あれ、やっぱり壮亮だったのか」「会ったのか?」「今朝、駅前でチラシを配ってた。俺も久しぶりだったから確信はなかったけど、壮亮だったんだな」「らしい。目立つからな、あいつ。それで声をかけたらチラシを渡されて」「秘密結社に気をつけろ、か」 将司は何も言わずに頷いた。「今同棲してんだろ、気をつけるように言っといた方がいいぞ」 何があるか分からないからな、と将司は言う。確かに祐希に何かあったらと思う。ただ、「秘密結社ってなんだ」 分からない、という風に将司は首を振った。
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「え、やば」 将司と夕食を食べた翌朝、祐希に尾崎壮亮の話をすると目を丸くした。「秘密結社ってなにそれ?宗教? 怖いね。でも何で奥さんが死んで秘密結社?」 昨晩の自分と同じ、というか誰でもそうだろうが、なぜ秘密結社なのかという問いを祐希は早口で浮かべた。祐希は思いついた事を一気に喋る癖がある。「繋がりが良く分からないよな」「明日、チラシ貰ってこようかな」 祐希の発言に、一瞬動きが止まる。「勘弁してくれよ」 冗談だと祐希は笑うが、実行しかねない怖さがあった。「心配だから止めてくれ」遠回しに言っても伝わらないので率直に自分の気持ちを口にした。祐希は何も言わなかったが目の端が笑っている。嬉しかったらしい。「仲良かったんでしょ、どんな人なの?」「どんな人か」 家が近所で中学、高校、大学まで同じ学校に通っていたが、大学は学部が違う事もあって普段は食堂などでたまに出くわすくらいで頻繁に連絡を取るという事もなかった。 仲は良かったが、何となくそのまま疎遠になってしまっている。 それに高校時代ともなると最早10年以上前の話で、壮亮どころか、一体あの頃自分達がどんな風に過ごしていたかもあやふやだった。「ああ」一つの思い出が頭に浮かんだ。「あいつ怒ってたな」「え、やば、やっぱヤバい人?」「違う、違う」佑は手を振った。「大学の時さ、あー祐希は高校生か? まあとにかく流行ったろ、ウイルス」 大学生最後の年の春から数年間、世界中をウイルスが襲いパンデミックが起きた。マスクが予防に有効と分かると皆外出する時はマスクの着用が半ば義務付けられ、世界中の人が全く同じようにマスクをしていたのだから教科書に載るような異様な数年間だった。「あー、あったね、そんなこと」「あの時さ、変なフェイクニュースが出回ったんだよ、スマートフォンになる前のチェーンメールみたいな感じで、チャットアプリに知り合い伝いに送られてきた。知り合いの知り合いが政府の関係者で、街が封鎖される情報を掴んだとか何とか」 同じような内容で、その手のフェイクニュースはどこからともなく繰り返し送られてきたが、最終的には送る方も飽きたのだろうか、いつの間にか消えていた。 ただ世界的なパンデミックという異常な状況の中、初期のフェイクニュースの真偽は確かめる事が難しかったのも事実だ。自分は本気にはしなかったものの、本気にしてしまった人は少なからず居たようだ。「まあちょっとしたパニックになって、そしたら家の近所のスーパーでさ、おっさんが怒ってんだよ。あの時日用品がちょっと品薄になってただろ? なのに倉庫に有る在庫を出せって、街が封鎖されるんだからその前に買うんだって」 倉庫にも無いと説明しているにも関わらず男が粘る物だから店員の女性は困り果てていた。その時ヒートアップする男性に声をかける若者がいた。壮亮だった。「街が封鎖されるって、このメッセージの事かって? 携帯開いてさ。こんなもんガセに決まってんだろって、知り合いに政府の関係者がいない俺にも回って来たよっておっさんに突きつけた」「はっきり言うね」「まあそういう奴なんだ。それにあの時は怒ってた」 男性は急に冷水を浴びせられて、それでも引っ込みがつかなかったのかまだ何か言っていたが、そこで壮亮が怒りを露わにした。女性店員に詰め寄っていた男性と同じか、それ以上の勢いだ。「こんなもん真に受けた奴が偉そうにしてんじゃねえよ。嘘に決まってんだろこんなもん」 自分の頭で考えてんのかよと吐き捨てる。自分以上の怒りを露わにする壮亮を見て却って冷静になったのか、男性は結局そのまま店を出て行った。「形的にはさ、店員さんを助けたわけじゃん。でも、あいつはあいつで迫力あったもんだから店の中シーンとしちゃってさ」 壮亮自身も何処か居心地が悪そうだった。俺は自分に気づいていなかった壮亮に声をかけた。「何してんだよお前は」 壮亮は少し気まずそうに笑った。「買い物だよ」「待ってるから一緒に帰るか」「ああ」 その後、買い物を済ませた壮亮と家の近所まで二人で歩いたのを覚えている。あの時、何を話したんだったかな。「悪い人では無さそうだ」祐希の一言で過去に行っていた意識が現在に戻る。祐希はカフェオレを一口飲んだ。「ただちょっと、おっさんが可哀想だね」 予想していなかった感想に少し驚いて視線を向けると祐希は、少し慌てたように手を振った。「店員さんに当たってたのはよくないけどさ、おっさんだって不安だっただけじゃん? 多分。分からなくもないよ」「そうなの?」 揶揄する意図は特になかったが聞き返していた。祐希はあまりネガティブな感情を表に出す方ではない。むしろいつも前向きで不安とは縁遠い人間に思えた。「そうだよ、だってあの時毎日ニュースもウイルスの話題ばっかりで感染者数もどんどん増えて、このままどうなっちゃうの?って私も思ったもん。まあ独り占めは良く無いけどさ」 でも、と祐希は続けた。「その話聞くといくら奥さんが亡くなったって言ってもおかしくなっちゃったとは増々思えないね。冷静だし、論理的なタイプっぽい」「そうなんだよなあ」 壮亮が結婚していた事にも、そのパートナーが既に亡くなっている事にも驚きだが例えそうであっても壮亮が自暴自棄になったり、常識外れの行動に出るとは考えにくかった。「今度会ったら聞いてみるか」 自分は行くんじゃんと祐希が口を尖らせる。
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「自分の頭で考えてるのか?」 仕事帰り、駅前にまた壮亮が居た。昨日と同じ黒いスーツを着てビラを配っている。ビラを受け取ると同時に俺はそう言った。目が合った壮亮は、俺を認識して驚いた表情を見せたが、すぐにニヤリと笑った。「考えてるよ」 今朝の予感が確信に変わる。壮亮は頭がおかしくなっている訳でもないし、自棄になってこんな事をしているのではない。 何か目的や意図があるのだ。「何だよ、秘密結社って」「秘密結社は秘密結社だよ、よくご存知だろ?」「何で俺がよくご存知なんだ」「将来の夢はヒーローじゃなかったのか。お前の戦う相手だろ」「それ、幼稚園の時の話だよ。ていうか、よく覚えてるなそんな事」 立ち話をしている僕達のすぐ脇を女子高生が通る。壮亮は女子高生にもビラを差し出す。つい受け取ってしまった女子高生は、その内容を見て怪訝な顔で一瞬壮亮を見たが、不審に思ったのか足早にその場を後にする。「お前、いい加減捕まるぞ」「今時ビラ配ったくらいで捕まらねえよ」 確かにと同意しそうになる。もっと過激な内容のチラシを繁華街のど真ん中で配ってる人たちもいる。彼らが正規の許可を取っているとは考えにくかった。 いや、そういう問題ではないし、そんな事を言いたいのではない。何故こんな事をしているのかが聞きたいのだ。「お前さ-」「あ、佑」 言いかけた時、後ろから声がした。振り返ると買い物袋を下げた祐希が立っていた。「帰り? 友達? たまたま会った? 飲みに行ったりする? あ、うち来るー? あ、お酒飲みます? ビール買いに行こうかな」「一旦、ちょ待って」 祐希の言葉を遮る。止めないと一人でどんどん突っ走ってしまう。「帰りで、友達で今たまたま会った、飲みには行かないし」壮亮をこのまま家に連れて行くかを一瞬迷った。駄目な理由はないが唐突すぎるか、などと考えていると「今日は予定があるので帰りますよ」と壮亮が言った。 壮亮を見ると涼しい顔をしている。祐希に視線を戻し「そう言う事だから、先帰っといて、俺もすぐ帰るから。あ、荷物俺が持って帰ろうか、いい? 分かった、じゃあいいや」 ごゆっくりと祐希は壮亮に笑いかけると、そのまま帰って行った。「奥さんか?」「予定だ、まだ籍は入れてない」 壮亮の話に触れるか迷う。詳しい状況は分からないが、壮亮は妻を亡くしている。「俺も今日は帰るわ」 またな、と言うと壮亮は駅の向こう側に歩いて行った。
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「え、あの人が例の秘密結社の?」 帰宅後、夕食の席でさっきの男が秘密結社に気をつけろというビラを配っている件の壮亮であると伝えると、祐希は目を丸くした。「普通じゃん、全然おかしい感じしなかったけど。何だったらいい人そうだった、スーパーで怒ってた話も信じられないくらい」「そうなんだよ」 年齢のせいもあるのだろうが、久しぶりに話した壮亮は学生時代よりも柔和な雰囲気を漂わせており、頭がおかしくなったどころか以前よりもとっつき易い印象すら与えた。「おかしくなってないとしたら」祐希は大袈裟に考え込むような仕草をする。「本当に秘密結社がいるとか」突然の意見に困惑する。祐希はそんな俺を見て「え?無い?」と照れくさそうにした。「本当に秘密結社がいて注意喚起を促してる、いい人とか」 無いと言いかけたが、秘密結社とは言わずともおかしな団体は世の中にいくらでも存在する。「カルト集団とか?」「カルト集団の被害にあって、カルト集団の危険性を訴えている」祐希の推理を視線を宙に彷徨わせながら検討する。「なくはない、けど」「けど」「壮亮っぽくないな、もしあいつが本当にそう言う被害を受けたとしても対抗策がビラ配りにはならない気がする。だってビラなんて配ったって何も解決しないだろ、もっと効率の良い方法を選ぶ気がするんだよな。あの方法で解決できる課題が思い浮かばない」「意味なんてないのかも」「え?」「なんか、こう意味が有るか無いか分からないけどやってみよう、みたいな事なのかも」 壮亮の事を思い浮かべる。それはもっと壮亮らしくない。あいつは意味の無い事をするタイプではない。少なくとも自分の知る限りは。「ていうかさ」黙り込んでいる俺に祐希が言う「二人、ちょっとタイプ似てる?」「え?」考えた事もなかった。まあ仲は良かったし馬が合うのは間違いないだろうが。「そうかな?」「佑もあんまり意味無い事しないよね、いつも冷静だし」「そんな風に見えてたとは」素直に驚きを口にする。まあ言われてみればそうかもしれない。「不安とか無さそうだもん」「あー確かに」 不安が無いと言えば嘘になる。人間だから、当然気分が落ち込む日もあるし抱えている仕事の案件が上手くいくかどうか不安で憂鬱な時もある。 だけどどんなに憂鬱な事だとしても選択肢は常に二つだ。向き合うか、投げ出すかだ。そして投げ出すのはあまり好きじゃない。やるだけやって、後は天に祈るしかない。そもそも気分なんて勝手に上がり下がりする物だから、いちいち気にしていたらキリが無い。つまり不安にならない訳では無いが、あまり気にしてなかった。 自分の性格について深く考えた事はなかったが、言われてみればそれは人に比べると不安が無いと言えるのかもしれない。「祐希は不安とかあんの?」 自分自身の内省よりも、自分にとってはパートナーの幸せの方が大事だ。それに会話の流れの中で、何となく祐希の発する言外にある空気のような物が少し不穏な温度を帯びている気がして質問する。「まあ、あるよ」 祐希の発言にどきりとする。ひょっとしてマリッジブルーという奴だろうか。まだプロポーズもしていないが。「え、ちなみにどんな不安?」不用意に飛び込んでいいか逡巡したものの、思わず質問していた。「うーん、なんかこれって原因がある訳じゃ無いんだけど、たまにこう胸に来るものが」祐希は指を胸の前でクルクルと回す。「無い? そういう事」 正直、あまり無かった。「何かさ、たまに思うんだよね本当にこのままでいいのかって」 それは本格的にマリッジブルーという奴ではなかろうかと焦る俺に「あ、別に佑がどうとか仕事が嫌とか根拠がある訳じゃないよ?」 ただ、と祐希が続ける。「学生の時はさ、中学高校大学と3年くらいで一区切りするじゃん? でも大人になると自分で決めないと区切りが無いんだよね、先も長いし、これでいいのかなとか、何か起きたらどうしよう、とか考えちゃうのよ」 思いがけない告白に、つい黙ってしまう。「あ、でも本当具体的に悩んでる事がある訳じゃないから全然大丈夫よ」祐希が殊更に明るく言う「フラれると思った?」そう言って笑う。 勿論、僕は祐希が場の空気を変えようとわざと冗談を言って話を切り替えた事くらいには気付いていた。 だからこそ、それ以上掘り下げる事はできなかったし、はっきり原因のわからない不安に対して何の根拠も無いのに、大丈夫とも言えず、とりあえず適当な軽口を叩いてその場を凌いだ。
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ベッドに潜り込んでからもさっきの祐希の言葉が気になっていた。当の本人は隣で寝息を立てている。穏やかな寝顔だ。だけど不安を抱えているらしい。 まあ全く不安の無い人間なんて存在しないだろうから、そんなに気にする事の程ではないのかもしれない。 そもそも不安ってなんだ?と哲学者じみた問いを頭の中で浮かべてしまう。 勿論自分も不安な時は人生で何回もあった。部活をしていた時、受験の時、就職活動をしていた時、働き始めた時、初めての事や何かに挑戦する時は当然その結果の事を考えて不安になってきた。ただ自分の場合そういった不安も結局は行動力に変換できていたように思う。 そういう意味で言うと祐希の言う通り、自分はメンタルが強いのかもしれない。 いや、そもそもさっきの祐希の不安はそういう具体的な何かに対する物ではなくて、もっと漠然とした不安だ。 天井を見ても思考が堂々巡りをする頭の中に、ふとあの日、スーパーの帰り道の壮亮の言葉が浮かんだ。「何でいい大人があんな事すんのかね」壮亮はまだ少し怒り冷めやらぬ様子でそう言った。「何が起こるか分からないから怖いんじゃねーの」「あ? どゆこと?」「俺に怒んなよ」 不機嫌な返事をする壮亮に苦笑いをしたんだ。「あのおっさん庇う訳じゃ無いけどさ、これからどうなるか分からなくて不安になってパニック起こしてるだけだろ、ああいう人って。ウイルスそのものが怖い訳じゃない」 そうだそんな事を言ったんだ。昔の自分の方がまだ祐希の気持ちを分かってやれる気がした。「何だそりゃ、ウイルスが有っても無くても未来に何が起こるかなんて分かんねーだろ。何か起きたらその時対処すりゃいいじゃねーか」 さっきの自分と同じような考えの壮亮が懐かしくなる。確かに自分達は似た者同士かもしれない。「そういう風には思えないんだろ、しかもあんなフェイクニュースまで流れてくるし」「あんな胡散臭いニュース出鱈目に決まってるじゃねーか、あんなもん誰が送ってるんだ」 矛先がフェイクニュースに向いたものの壮亮はまだ不満そうだった。あの後自分は何て言ったんだったかなと考えて、「あ」、と声を出していた。隣の祐希が目を覚ましていないか目をやるが変わらず寝息を立てている。「さあ、なんか悪の秘密結社とかじゃねーの」 秘密結社という言葉を言ったのは俺だ、と思い出した。
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週末、壮亮を探しに街へ出た。壮亮はこの間とは逆側の出口でビラを配っていた。土日だからだろうか、今日はスーツ姿ではなかった。俺に気づいて片手を挙げる。「一個聞いてもいいか」「いいよ」「お前奥さんが亡くなって頭おかしくなったのか」 壮亮は笑った。「そうかもよ」「違うだろ、ていうか秘密結社ってあの時俺が言ったんじゃねーか」 壮亮は少し驚いたような、漸く気付いたかとでも言いたそうな顔をした。 少し歩くか、と壮亮は言って手に持っていたビラを脇から下げていたカバンに閉まった。
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壮亮と連れ立って駅から住宅街に伸びていく大通りを歩いていく。「何の話してたっけ?」「何でお前があんなチラシ配ってるか、と秘密結社って何だって話だよ」「なるほど」さて、何処から話したもんかと壮亮が呟く。「きっかけはまあ、さちが-嫁さんな、死んだ事だな」「原因は何だったんだ」聞き辛かったが、今更躊躇ってもしょうがない。俺ははっきり聞いた。「アルコール中毒だよ」 俺が何か言いた気なのを察知したのか「別に何かの飲み会で無理やり飲まされて死んだとかじゃないぞ?」と壮亮が言う。「普通のアルコール中毒だよ、アルコール依存症になって、ある日飲みすぎてアルコール中毒で運ばれてって感じだな」 アルコール依存症? 信じられない気持ちで壮亮を見た。 勿論知識としてそういった依存症があるのは知っている。ただあくまでニュースや創作物の中で見るだけの話で現実感が乏しかった。「気付いたきっかけはな、階段を踏み外して骨折したんだよ。短い間だったけど入院した。その時に妙に暗いっていうか様子がおかしかった。それで退院の日に帰ったらリビングで酔い潰れてた。流石に病院の中じゃ飲めなくて、禁断症状が出てたんだな、それで暗かったんだよ。まあそれでおかしいって気付いて、問いただしたらずっと前から俺が居ない時は昼夜問わず飲んでたらしい。その後は飲まないようにする俺と、何とか目を盗んでは飲もうとするさちとの攻防戦だよ。飲む量もどんどん増えていってた。その内体が悲鳴を上げ始めた。後はもう坂を転げ落ちるってのはあの事だな。ある日居なくなって、何とか場所を突き止めた時には都内のホテルでアルコール中毒になってた。それですぐって訳じゃないんだけどな、もうすっかり内蔵が駄目になっちまってて、病院に運ばれてから暫くして死んだよ。酷い死に方だった。本人も苦しかっただろうな」 訥々と壮亮は語る。その語り口からは感情が読み取れない。練習していた訳でもないだろうに、澱みない語り口だった。「気づかないもんなのか」 壮亮の性格からして、こんな質問も嫌がりはしない気がした。「気づかないもんだよ意外と、だってまさか昼間っから飲んでるなんて思わないだろ、なんかおかしいなって思っても、それをアルコール依存と結びつけられない。思い込みが目を曇らせる。四六時中飲んでるって分かってからもアルコール依存だなんて半信半疑だった。それに気付いたって言っても24時間監視してる訳にもいかない、実家に帰ってもらう事も考えて向こうの両親とも話しあったりもした。病院にぶち込む訳にも行かないしな、本人だって嫌がるし、俺だってそんな無責任な真似したくないし。まあ心のどこかでは何となるってタカを括ってたんだろうな。何だかんだ言ってどうにかなるだろうと思ってのんびり試行錯誤してた。この間会った、お前の未来の嫁さん」「祐希な」「祐希さんが、昼間絶対飲んでないって言い切れるか? アルコール依存かはさておき、昼間飲んでる時くらいあるんじゃねーの?」 そんな事気にした事も無かった。確かに言われてみれば僕の居ない間祐希が何をしているかは知らない。同棲していると言っても24時間常に一緒にいる訳ではない。「アルコール依存になった原因って何だったんだ」 もう一歩踏み込む。「分からん、本人だって分かってなかったみたいだ。訳もなく不安になってある日昼間から飲んでみたらしい、そしたら止めれなくなったという話は聞いた」 ドキリとする。昨日の祐希を思い出していた。「それ、昨日祐希にも言われたよ」「そうなのか?」「将来の事が訳もなく不安になる時があるらしい」「もうウイルスは無いのにな」壮亮は昔を懐かしむように言う。「無い訳じゃないぞ、あれ」「皆忘れてるだろ、じゃあ無いのと同じだ、俺さ」「ん?」「不安が起こすパニックってのはあれくらい分かりやすい物だと思ってた。あの時怒ってたおっさんとかさ、教科書に載ってたオイルショックの時の写真、トイレットペーパー争奪してる写真な。ああいう風に不安ってのは分かりやすい火種があって分かりやすい形で顕在化して、すぐにおかしいって気づく物だと思ってた。自分の気づかない所で育って、気付いても対処できないなんて思わなかった」「お前らしい」 壮亮は笑った「だよな。そもそも何にだって根拠があると思ってた。さちが死んで初めて気付いたんだよ。不安に根拠なんてないってな。ウイルスが有ろうが無かろうが、不安になる人は居る。ちなみに、お前祐希さんにそう言われて、何て返したんだ?」 俺が答えられずにいると「当ててやろうか」と壮亮が言った。「何も言えなかったんだろ」「正解だ」「あの時のお前ならもうちょっとマシな対応できたかもな」「大人になったって事だろ」昨晩自分自身でも思っていた事を言われて、苦し紛れにそう返した。「そうなのか?」 壮亮は揶揄する風でもない。「大人になって思いやりを忘れちまったか?」「そうかもしれない」壮亮の口調は冗談めいていたが、自分の口から出たのは思ったよりも深刻なトーンだった。「昔はもっと能天気で、その分ゆとりがあった気がする」「何で能天気じゃなくなったんだ?」「何でって、年取って現実的に対処しないといけない問題が増えたからじゃないか?」 社会に出て、もう10年になる。新人だった自分も職場の色々な問題を解決して部下を持っている。親ははっきりとは口にしないものの、孫を期待しているのは明らかだ。様々な役割が自分の肩に乗っているのを感じる。壮亮が言う所の不安の火種は自分の中にも有る。気にしていないと思っていたものの、実際は少なからず影響を受けているものかもしれない。「現実的に対処しないといけない問題って?」「仕事とか、家の事とかあるだろ」「仕事、上手く行ってないのか? 親御さん、病気してるのか」「いや、そんな事はないけど、何が起きるかなんて分からんだろ、俺自身も体壊すかもしれないし」「保険に入ればいい、ちゃんとした奴だぞ」「何の話だよ」「昔みたいに楽観的になれって話だよ、お前まで暗い顔してどうすんだ」 命令形だけど、壮亮の口調は優しかった。「お前は何が有っても乗り越えられるタイプだよ」柔らかい口調だったが壮亮は断言した。「そりゃ俺一人だったらな、何とかなるけど、祐希は俺じゃない。あいつの悩みに根拠もなく大丈夫とは言えねえよ、祐希が病気したら俺がそれを治せる訳でもない」「大丈夫なんじゃねえの」「適当かよ」壮亮がそんな事を言うのに少なからず驚いてしまう。「根拠なく大丈夫でいいじゃねえか、別に。未来がどうなるか分かんねーんだから、大丈夫って事にしとけばいい。楽観的になれよ」 俺は壮亮を見た。壮亮は前を見ている。「理屈が通ってなくて無責任でもいいんだよ。大丈夫だって、そう言う事にしとけばいい」 そこで壮亮は言葉を切った。そして誰に言うでもなく、呟いた。「俺もそう言ってやればよかった」 何も言えなかった。通りには沢山の人が歩いている。この人達も不安を抱えているのだろうか。横断歩道を渡って、逆側の道から、今度は駅に向かって歩いていく。「…で、何で秘密結社?」「ああ、さちが死んだ後に部屋片付けててな、本棚にヒーローが題材の漫画があったんだよ。それであの時のお前との会話を思い出した」「フェイクニュースを流してるのは秘密結社って奴か」「そうそう、その後の会話覚えてるか?」「覚えてるよ。というか、昨日の夜思い出した」「そんな分かりやすい奴らが居たら逆にありがたい」と壮亮は返したんだった。「そいつらをぶっ飛ばしに行けばいい訳だからな」「根拠の無い不安も形を与えてやれば多少はマシな気がする」と現代の壮亮が言う。「不安を煽ってる奴らが居るって事にしとけばいい、俺たちは四六時中ネガティブなニュースを聞いて平気なようにはできてない。でも、俺たちに問題があるわけじゃない。未来が暗くなるって煽ってる奴らが居るんだよ、そう思ったらちょっと気が楽にならないか? 何だよお前らのせいかよって、漠然とした不安よりマシだろ」「それで秘密結社に気をつけろって?」「意味ないって思うか?」「まあ正直」「まあ、そうだろうな」壮亮は笑った。「秘密結社なんている訳ない、でもそうじゃないかもしれない。俺達に見えてる世界なんて本当に限られたもんだ、俺が全てを把握できるならさちは死ななかった。見落としてたし、自分の納得できる解決策を探しすぎていた。いいんだよ、意味なんかなくたって、とりあえずやってみれば」「お前がそんな事を言うなんて」「意外か」「天地がひっくり返った気分だ」「言いすぎだろ」 それから駅につくまで、取り止めのない話をする。同級生の誰それが結婚したとか、仕事を辞めたとか、そんな話だ。気づけば駅に戻っていた。「これからもビラ配んの?」「さあ、どうするかな、ちょっと考えるわ、意味なんかないとは言ったけどもうちょっと効率が考えた方がいい気もする」「今更かよ」俺は思わず笑ってしまう。「まあ一人でも何か引っかかってたらいいよ」「家来るか? 飯食ってけよ」「いや、いいよ。邪魔しちゃ悪い」 じゃあまたな、と言って壮亮は改札を潜って行った。
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家に帰ると祐希はケーキにクリームを塗っている最中だった。本人は甘い物をそんなに食べないのだが、作るのは好きらしく週末になるとたまにお菓子作りに勤しんでいる。「おかえりーいいとこに帰って来たね、ケーキもう出来上がるよ」「あ、じゃあコーヒー淹れるわ」 お湯を沸かし、祐希の横でドリッパーに豆とフィルターをセットする。沸いたお湯を少しずつ注いでいく。「いい匂いだねー」 いつも通りの祐希だ。でも昨日口にしかけた不安が綺麗さっぱり消え去ってるなんて事はないだろう。「祐希さ」「ん?」「昨日訳もなく不安になる時があるって言ってたろ」「ああ、あ、でも本当なんか具体的にこうって理由がある訳じゃないよ-」「大丈夫だから」 祐希の言葉を僕は遮った。「何があっても俺が何とかするから、だから心配すんな」 祐希は目を丸くしている。「プロポーズ?それ」と笑顔を見せる。「いや、そういう訳じゃないけど」「違うんかい」茶化して言う祐希は笑っていたけど、ちょっと泣きそうだった。その雰囲気を感じていた。背負っていた荷物を下ろして、気が緩んで涙が流れそうになる、あの感じ。気のせいだろうか。「ありがとう。頼りにしてるよ」 祐希が言った。俺は努めていつも通り返事をする。「任せとけ」
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週明け、駅前に壮亮はいなかった。まあまた別の所でビラを配っているのかもしれない。「あの」 声をかけられて振り向くと少女が立っていた。見覚えがあった。「前ここにいた人の知り合いですか?」「それはあの訳の分からないビラを配っていた」「そうです」 そのやり取りで、以前壮亮がビラを渡した女子高生だと気付いた。「あのビラ最初はびっくりしたんですけど、あれですか秘密結社ってなんかの比喩ですか」「まあそうかもしれない」「本当に秘密結社がいるとか」 俺の曖昧な返事に女子高生が神妙な顔で言う。「学校でちょっと話題になったんですよ、確かに、最近おかしなニュースが多いし。もしかしたら、本当にそう言う人たちがいるのかもって」「そうかもしれないな、秘密結社が今日も暗躍して毒をばら撒いてるのかもしれない」 女子高生は更に深刻な顔になった。俺はそれが可笑しかった。素直な子だと感心する。壮亮のビラくばりも満更無意味って事も無いのかもしれない。「それは、ヤバくないですか」「ヤバいよ、世の中が悪くなるように暗いニュースとかフェイクニュースを流してるんだぜ」 大人気なく、女子高生を脅かしてみる。「どうしましょう」 そうだな、学校の皆に言っておいてくれよ、と俺は言う。「秘密結社に気をつけろ!」