4-② 味方だよ
自分で自分が信じられないとでも言いたげな呆然の表情で、ハロルドは遠目にジェナとクリスティーンの姿を見つめている。
露店の陰。
向こうからは見えないだろう、的確な立ち位置から。
「……なあ」
「ん」
隣にはリルがいる。
彼女の表情はハロルドとは全然違う。膨れている。逃げてから落ち着くまでのごく短い間に、すでに露店での買い物を済ませていたから。手には揚げ鶏の包みを持っていて、それをもぐもぐと食み始めているから。
「これ、前から『俺だけかも』と思ってたから言ってこなかったんだけどさ」
「ん」
「――なんか、アシュリーの姉貴って怖くねえか?」
リルは何も答えない。
大通りのがやがやとした喧騒は一向に止まない。途切れず人波は流れ続け、たった今置き去りにしてきたジェナの姿も、その人影の隙間からチラつくばかりが精々。
案の定、焦った顔で何かを言い募っている。
やたらに緊張した様子。
それを見つめながらハロルドは、ぽそりと、
「あと、兄貴も」
しばらく、何の答えもなかった。
ハロルドはそれを気にするでもない。二人の姿を見守り続けている。人の流れが一瞬、さらに忙しくなる。ジェナの姿が見えなくなる。それをきっかけに、彼は隣に立つリルに視線を移す。
それでリルもまた、ハロルドに見られていることに気が付いた。
彼女は視線を交互する。彼と、それから手の内にある包み。珍しく数秒悩むような仕草をする。
そっと、それを差し出した。
「あーん」
◇ ◇ ◇
「あー、えっと……」
頼りにしていたはずの相手がすたこらさっさで、どうすればいいかわからない。
ハロルドめ、とジェナは心の中で思う。これが犯罪だとか、余計な捨て台詞を。それさえなければもう少し堂々としていられただろうに。堂々としていたら堂々と犯罪を告白している形になり、そっちの方が危険なのか。よくわからない。
なぜ自分がこんなに緊張しているのかも、よくわからない。
第一王女クリスティーンは、そんなジェナを覗き込むようにして見ていた。
「何してたの?」
そして、もう一度同じことを訊いてくる。
あなたの弟をつけ回していました、と素直に言っていいものか。クリスティーンの後ろにはいかつい騎士も控えているのに? 悩んでいると、彼女は不思議そうな顔をして周りを見る。雨樋に目をやる。視線はそれを伝って、二階の窓に至って、
「もしかして、アシュリーに――」
バレた。
「会いに来たの?」
中途半端な形で。
はいといいえの中間みたいな口の形で「ええ」とジェナは言う。へえ、とクリスティーンは興味深げにジェナを見る。居心地が悪くて目を逸らしそうになって、逸らすのも失礼かと思えばすごく中途半端な姿勢になる。
「今回の精霊祭は慌ただしいものね。あの子もなかなか時間を取りづらいか……」
うん、とクリスティーンは窓を見上げながら頷く。
それから、ジェナの肩に手を置いて、
「私が時間を作ってあげる」
「え?」
とてもさわやかな笑顔で、そう言い放った。
「城下は元々、私の伝手も多いから。外回りまで代わってしまうとあの子の顔を潰してしまうけど、このあたりなら構わないでしょう」
でしょう、と言われてもそんなことは知らない。
しかし流石は王族というか、アシュリーの姉だった。こちらの戸惑いなんか何のその。そうと決まればとばかりに歩き出すから、ジェナはお付きのメイドよろしくその後をついていく。
覗き見しようとしていた、商業ギルドの会館の中。
今までも前を通りがかったことはあったけれど、実際に足を踏み入れる時が来るとは思っても見なかった。クリスティーンは周囲の視線を気にしない。自分の庭のようにスタスタ歩くし、お辞儀をされても真っ直ぐ前を見つめて階段を上っていく。ジェナはそうはいかないから、中途半端にお辞儀を返しながら、彼女の後ろに隠れるようにこそこそと行く。
リルが言ったように、一番奥の部屋だった。
部屋の前に立っていた誰かと、クリスティーンが何事かを喋る。「後でいいから」と彼女はその会話を終わらせて、振り向くや「座って待っていましょう」と廊下のベンチを指す。腰を下ろした直後には、会館の職員が二人分のお茶を差し出してくる。明らかに自分よりも傍に立つクリスティーンお付きの騎士の方が真の身分は高いのではないだろうかと緊張しながら、けれど黙って隣に座っているのも気まずくて、誤魔化しのようにジェナはカップに口を付ける。
口を離す。
「そういえば、二人はどこで出会ったの?」
答えづらいことを聞かれる。
クリスティーンの口ぶりはごく穏やかなものだったが、ジェナにとっては尋問にかなり近かった。びく、と肩が震える。あーっとえーっと。言い訳の海の浅瀬でごぼごぼ溺れる。
本当のことは、もちろん言えないけれど。
嘘を吐いたのがバレたら、後でもっとひどいことになりそう。
「あの子、たまにそうして知らない子を連れてくるから。不思議な子でしょう」
迷っている間にクリスティーンが話を進めてくれたのは、あるいは立場上、自分だけが話し続けているという状況に慣れていたからなのだろうか。
「それとも、あなたたちは……連れて来られた子たちは、その『不思議なところ』もわかってあげられているの?」
それでも、口ぶりは拍子抜けするくらいに穏やかなものだった。
「――今、」
だからようやく淀みなく、ジェナも言葉を返すことができた。
「実は私も、それを知りたいと思っているところなんです。その、『不思議なところ』を」
「あら」
そうなの、とクリスティーンは笑った。
口元を隠した、小鳥のさえずるような上品な笑み。こんな風に笑うことは自分は一生ないかもしれない、とジェナは思う。
「そう。あなたたちも知らないんだ」
まあ、はい。
ぐだぐだの相槌を打てば、しばらくクリスティーンは何も言わない。間を埋め合わせるようにジェナはお茶で唇を湿らせる。ようやく味がわかるようになってきた。今まで飲んできたものとは断然、香りが違う。口の中がティーポットになったような気分。
やがてばたばたと、扉の向こうが騒がしくなってきた。
会議が終わったのだろう。もうすぐアシュリーたちも出てくるに違いない。そう思えば立ち上がりかけて、けれどクリスティーンが微動だにしないからそういうものなのかと結局座りっぱなしになって、タイミングを逃しながらそわそわとまたティーカップに手を伸ばす。
「よければ、」
同じタイミングでクリスティーンも指を伸ばして、言った。
「これからも仲良くしてあげてね。婚約者じゃなくても」
◇ ◇ ◇
「言ったんですか?」
え、ああ、うん。
よくこれだけの言葉から質問の意図を察せたな、とジェナはかえってアシュリーに感心してしまった。
行きつけの喫茶店とやらがなぜか王族のアシュリーにもあるらしかった。大通りから入って少し入り組んだ場所。椅子や机がどこかの木からそのままくり抜いてきたように重たくて、それに長い年月をかけてお茶の香りが染み込んでいる。メニュー表に書かれた値段はそれほど高くはないけれど、自分一人だったら多分来ない。そんな場所。
窓からは、夕がかる日差しが淡く差し込んでいた。
「この間、兄上も交えて食事を摂ったときにさらっとね」
「さらっと、って。そんな簡単な話ですか? 結構すごい嘘だと思いますけど」
「僕、こう見えて結構すごい嘘を吐くんだよ」
そしてそのたびに許されてる、とまるで悪びれもしない笑顔でアシュリーは言う。
ますます怪しくなってきた。
「あの、」
「ここ、パンケーキが美味しいんだよ。シロップをいっぱいかけると、特に」
「…………」
シロップの壺を渡される。ここまできた以上、美味しくパンケーキはいただく。もぐもぐ食べて、それでもめげずに、
「私に何か隠してること、ありますよね?」
「あるけど、どれ?」
本当に、全く悪びれない。
にこにこしながらパンケーキを切り分けて、口に運ぶ。燻っていた疑問が、ジェナの心の中で大きく膨れ上がってくる。
「私が世界最高の精霊師って、本当ですか?」
「精霊石を自分で使ってみただけじゃ、まだ足りない?」
「大親友っていうのは?」
「主観的にはそうなんだけど、確かに時を戻る前のジェナがそこまで思ってくれてたかはわからないね」
「……何を企んでる?」
かちゃ、とアシュリーがカトラリーを操る手を止めた。
何かを考えているような表情。視線は半ば切り取られたパンケーキの表面に視線は注がれる。その瞳がケーキナイフに映り込む。
とろり、とシロップが皿の上に垂れていく。
「――教えてあげない」
それでも、やっぱり笑ってアシュリーは言った。
もう決まりだ、とジェナは思った。
「やっぱり、何か企んではいるんですね」
机の上に前のめりになって、
「何? 私は何やらされようとしてるんですか? 最終的にどうなるんです?」
「そんなに不安? 僕ってそんなに信用できない顔してるかな」
「顔とかの問題じゃなくて、」
じゃあ何、と頭の中で考えて、
「日頃の行動が」
「もっと悪いよ、それ。今のところ君の助けになることはしても、邪魔になることはしてないのに」
「『今のところ』?」
言葉尻を掴まえて、
「やっぱりこれから何か悪いことをするつもりなんじゃないですか」
「こっちからも訊いていいかな」
「だめです」
「悪いことが起こりそうで、不安なの?」
虚を突かれた。
それはたとえば、「大丈夫?」と優しい手つきで傷に触れられたときに似ている。自分でも気付いていなかった、触れられて、目を向けて、初めてそこにあることがわかるような些細な傷。
些細、なはずだと思う。
そうじゃなければ、指摘されるまで気付かないでいられるはずがない。
「どうして?」
「どうして、って」
そりゃそうでしょ、とジェナは頭に浮かんだ理由を次々に口にしていく。
この間までは平民だったんだから。
落差が激しいんだから。
どうやって振る舞ったらいいかなんて全然知らないし。
あなたの言ってることもよくわからないままだし。
自分がここに来たきっかけだって、人に胸を張って言えるものじゃないんだし。
「それに――」
アシュリーは向かいの席で、じっと静かにこちらを見つめていた。
言葉が瞳に呑み込まれていく。しん、と急に店の中が、町が、世界が止まったように見える。夕日の金色に照らされたその目が、遠い、誰も知らない森の奥深くに横たわる、風のない湖のように見える。
息が止まる。
言葉だけじゃない。その瞳の奥に、湖の奥底に眠る何かに、
吸い込まれそうになって、
「あ。始まった」
不意に、アシュリーが目を逸らした。
ふ、と胸が動いて、ようやくジェナは呼吸を止めていたことと、それをもう一度始めたことに気が付いた。焦りとか、誤魔化しとか。そういう感情が浮かんでは消えていく。ちょっとした動悸が、ほんのわずかに背中に浮いた汗とともに消えていく。
落ち着いて、つい、とアシュリーと同じ方向に目線を動かした。
何かが浮いていた。
空に。
「何あれ」
ぽつりと口にして、ジェナは席を立つ。
他の客なんて誰もいなかった。これだけ美味しい店が閑古鳥というのも不自然な話なので、きっとアシュリーが来るとなった時点で貸し切りになったとか、そういうことなんじゃないかと思う。遠くに騎士たちが控えているだけ。
誰に憚ることもない。
よく磨かれたガラスの窓辺に、寄って立つ。
それは空に、ぽつんと浮かんでいた。
小さな点だ。多分、アシュリーが目を留めることがなければ自分じゃ気付けなかっただろうとジェナは思う。橙色に輝く空。もうすぐ紺色の闇に迫られて夜に変わるだろう、黄昏の時。
そこに小さな、丸い点が浮かんでいる。
何だろう、と目を凝らしたそのときから、後はみるみるうちにだった。
「――?」
膨らんでいる、のだと思った。
けれどそれは、沸騰する鍋に浮かぶ泡のような、自然な膨らみ方をしていない。瞬きするたびに急に大きくなる。ぱっ、ぱっ、と紙芝居を捲るようにして、それは急に入れ替わっていく。
ものすごく嫌な予感がした。
些細なはずの傷が、音を立てて開いていくような心地がした。
急に、ジェナの中で燻っていた不安が形を取り始める。この小さな点を、自分はどこかで見たことがある。だからこそこうして、らしくもなく震えたり怯えたりしていたのではなかったか。
思い出す。
夢だ。
濁った色の卵が、空に浮かんでいる夢。街の上に浮かび上がって、誰も手出しはできなくて、それを高いところから見ている。罅が入って、殻が割れて、落ちて、
それから、あの見るもおぞましい黒色が、
出てくるはずだったのに。
「よかった」
いつの間にか、アシュリーが隣に立っていた。
横顔を伺い見る。彼は清々しいような、ただ安堵しているような、屈託のない笑みを浮かべて窓の外を見つめている。だからジェナも、もう一度視線を戻す。
卵は、濁った色なんてしていない。
乳白色の、雲のように滑らかな球体が浮かんでいるだけだった。
それでももちろん、誰の目から見てもこれは異常な物体だろう。今や夢の中のあの姿と大きさだけは並ぶほどになって、この裏路地の喫茶店にまで、街中のざわめきが伝わってくる。
二人の間に漂う空気だけが、不思議と静けさを保っている。
「不安はなくなった?」
ようやく、アシュリーがジェナを見た。
その瞳は、やはり深い色のままだった。凪いだ水面の、その奥に何があるともわからない瞳。今になってジェナは気付く。この人は。
この人は、何かを秘めてここに立っている。
凝縮された時間や、世界のような、何かを。
「一つだけ……」
ぎゅ、と無意識のままにジェナは、胸の前で手を握った。
不安はなくなっていた。胸の奥にあることすら自分でも気付いていなかった、理由もわからない悲しみの種。それが今、あの真っ白な卵を見た瞬間に、土の上から風に乗って羽根が飛び立つように、どこかに消えてしまったのが自分でもわかる。
その代わりが今、心にある。
「あなたは、私の味方?」
真っ直ぐな言葉は、きっと真っ直ぐに届いた。
アシュリーが、ジェナに一歩だけ近付く。握り締めた手を取る。そっと彼女の指から力が抜けていけば、空にその甲を向けるようにして、ひどく優しい手つきで、
「味方だよ」
その指を、唇まで連れ去っていく。
「何があっても、絶対に」
そのとき、ここに来てから『本当の意味で』初めて、ジェナはこう思った。
この人のことを、もっと知りたい。




