3-① スカウト組
屋上から見える空はこんなに青いのに、立つのがやっとだった。
真昼だ。太陽は色もなく輝いて、この国の一番高い場所から見る景色は、もう、遮るものも何もない。
目を上げる。
それでも塔の上には、大きな卵が浮かんでいた。
日の光を浴びてなお、濁った色をしていた。灰色でもなければ、黒とも言い切れない。物の腐ったような色でそれは、太陽に並ぶもう一つの天体のように、その空に佇んでいた。
微かに、罅が入っている。
「――――!」
叫び声が聞こえたから、今度は目を下げる。
塔の下には、いくつもの鎧がひしめいていた。兜を被り、剣を持ち、血に塗れ、旗を振る。傷だらけの兵士たちが口々に何事かを叫び続け、どんどんとその足音に地は揺れる。果敢な者は塔門に何度も何度もぶつかって、その入り口を破ろうとする。
もう、長くは保たない。
首に提げた桃色の宝石を握り締める。
けれど、その兵士たちがこの場所まで登ってくるよりもずっと、空が変わる方が早かった。
パキン、と殻の割れる音がする。
浮かぶ卵の、器が欠けた。
ぼろりとその殻が地に落ちれば、今度は歓喜の声が湧く。何かの名を呼ぶ声がこだまする。それに応じるように、後はあっという間のことだ。
罅が伸びる。
卵が割れていく。
歓声は狂声に変わっていく。理性も何もない熱狂。音という音が、もう耳に届かない。他のものは何も目に入らない。
空の上。
大地に降るように、卵が割れる。
そうしたらその罅の中から、大きな、大きな、
真っ黒な、
夥しい数の、
◇ ◇ ◇
という感じの夢を見たなあということをジェナが思い出せたのは、朝ご飯がオムライスだったからだ。
しかも、ハンバーグまでついてきた。
朝からそのメニューは重すぎる、なんてフレーズはジェナの辞書にはない。起きた瞬間フルパワー。人間その日のうちに死んでしまうとも限らないのだから、朝からたらふく好きなものを食べて夜には一文無し。そのくらいがちょうどいいのだと思っている。
付け合わせのフライドポテトまで平らげれば、他に誰もいない部屋。
結局、王宮で一夜を明かしてしまった。
昨夜のあの催しの後、すぐにアシュリーとは離れることになった。精霊師の大先生は余興が終わればお役御免。誕生日会の主役がさらに演目を進めていく中で、「ご挨拶もしませんで」「いやあこの国にこれほどの精霊師の先生がいらしたとは」と端の方で囲まれる。
逃げる隙もない。
それに、背中を向けて逃げ出すにはもう、好奇心を刺激されすぎていた。
こんなことがなければ言葉を交わすどころか顔を合わせる機会だってなかっただろう貴族たちを「わっはっは」「はは……」と曖昧な笑みで躱し続け、気付くと真夜中。パーティは解散。どこからともなく現れる例のメイド。
案内された部屋で、無防備に一夜を過ごす。
起きたらご飯が用意されてたから、無警戒に食べ尽くす。
お腹がいっぱいになったから、いよいよ考えごとをしたり、それを行動に移す余裕が出始める。
ジェナは、のこのこと部屋を出ていった。
相も変わらず豪華な廊下だ。馬車が直接乗り込んでくるのかというくらいに広いし、自分のような人間が歩くには繊細すぎる。これについて考え込むのはキリがないから、一旦意識の外に置く。
何から訊こうか、と考える。
やっぱり精霊がどうとかってところだな、と結論付ける。
逃げられない一番の理由はそれだ。あの石を握ったときに光がぶわーっと出てきた謎の現象。あんなのを自分が起こせると知ったら、もうその原因を究明せずにはいられない。当たり前のことだ。たとえばいきなり目からパイナップルジュースがドバドバ飛び出てきたとして「うわあ不思議!」とか「ラッキー!」で済ませて何食わぬ顔で日常生活に戻れるだろうか。いや戻れない。戻れるとしたら、相当変な人だと思う。
ということまで考えたあたりで、はたりとジェナは足を止めた。
「…………」
道がわからない。
試しに天井を見てみたけれど、そこに地図が書いてあるわけでもない。来たことのない場所だから、道がわからない。人を探して訊こうにも、別に不法侵入して今に至るという経緯には変わりがないので、いきなり再逮捕されそうで怖い。
そもそも、『第二王子』とやらと会おうとして会えるものなのか。
多分、会えない気がする。
そうなるとやっぱり自力でアシュリーの居場所を突き止める必要があるわけで、その手段がないわけで、途方に暮れてジェナは試しにというか冗談交じりにというか、鼻をくんくんと利かせてみる。
美味しそうな匂いがしてくる。
まずはそっちに行ってからでも、尋ね人をするのは遅くない気がした。
廊下があれば歩く。階段があれば下る。その間にジェナは、自分で自分に言い訳をしておく。
不法侵入はたまにするけれど、盗みはやったことがないのだ。
だから、この匂いに釣られているのも決してそうした目的ではないのだ。
そう、決して。
でも、美味しそうなものを口に運ぶのはともかく、じっと見つめるくらいなら誰にだって許されるんじゃないかと思う。見ても減らないわけだし。
そういうわけで彼女は、とうとう厨房へと続くらしき扉を見つける。
手を伸ばす。
三、
二、
「――お?」
一、で向こうから扉が開いた。
「誰? あんた」
「…………」
「厨房に何か用?」
背が高く、眉の細い男だった。
真っ白なコック服に身を包んでいる。ちょうど休憩にでも出かけるところだったのだろうか。とんでもなく運が悪い。
明らかに不審げな顔でこっちを見ている。
言い訳しなくちゃ。
「あ、えと」
迷っちゃって、とかそういうありきたりなことを言おうとした。
その前に、男が言った。
「ああ。あんたが殿下に連れて来られた精霊師の先生?」
え、とジェナは自分の身体を見下ろした。
普通の恰好だ。別に、アシュリーがあのとき持っていたペンダントを首から提げていたりはしない。
顔を上げる。
コックの顔にも、見覚えはない。
「貴族にしちゃ俺と会っただけで焦りすぎだし。かと言って大した身分でもないのにこんな王宮の奥の方にいるのはおかしいだろ」
すると、そんな風に目の前の彼は疑問を解消してくれる。
す、と彼は親指を立てて、背後の厨房を指差して、
「立ち話もなんだから、中に入んな。腹が減ってるなら何かつまんでもいいし。……えーっと、確か……」
「ジェナ」
きっと、と思ったからそれだけは主張しておく。
自分の名前。
「当たり。ってことは本物で合ってるな」
すると彼は、その名も初めから知っていたようにして、
「俺はハロルド。一応、あんたと同じで『スカウト組』」
◇ ◇ ◇
厨房も、これまた広かった。
一体何百人分を作るのかと思わず訊くと、ハロルドは「それほどじゃない」と答えた。パーティがある日はもちろん大変だけれど、それ以外の日はそんなにたくさんの人が住んでいるわけじゃないから、忙しさもさほどではないらしい。
アイスクリームにコーヒーをかけたものを出してもらった。
「死に戻ってきたってところまでは聞いてるんだろ?」
厨房の奥の方に、まかないを食べるためのスペースがある。
そこに向き合って座りながら、ジェナは指先に伝わってくるスプーンの冷たさと、ハロルドの発言内容の両方に驚いている。
「知ってるの?」
「言っただろ、『スカウト組』だって。俺の場合は――」
ある日、とハロルドは語った。
王都から離れた片田舎の洋菓子店でパティシエとして働いていたら、急にお忍びの貴族ご一行がご来店された。小心者の店長は泡を食ってダウン。「あとはエースの君にこの店の命運を託す……」とはた迷惑な遺言とともに狸寝入りに就き、マジか信じらんねえと、ハロルドは安価な材料を誤魔化すためにものすごく複雑な工程で作り上げた創作ケーキをお出しする。
すると、お忍びの貴族様が一言。
「『死んで戻ってきたんだけど、僕のこと覚えてる?』ってな」
「あなたは覚えてたの?」
「まさか」
ハロルドは肩を竦めた。
「最初は『何言ってんだこいつ』だったよ。からかわれてんのかと思った」
だけど、とコック服を引っ張って、
「『ここに仕事を用意するから良ければ来ないか』ってそのままスカウトをかけられてな。給料も環境も比べ物にならないし、平民だから礼儀作法なんざ期待されても困るって伝えても『それでいい』『君らしい』と来た。ま、ビビってばっかでも人生何にもならん。物は試しで誘いに乗ってみた」
「……で?」
「で、ってのは?」
「今は信じてるの? その死んで戻ってきたってやつ」
そりゃ、とハロルドが口を開く。
けれど、その続きを容易く告げることはない。彼は少し苦い顔に変わると、うーむと腕を組んだ。
「二択なんだよ」
「何が?」
「あいつが本当にそうやって死んで戻ってきたか、どう見ても一度未来を経験してるとしか思えないくらい優秀か。あんた、政治には詳しいか?」
「全然。王様の顔も昨日始めて見た」
「だよな。俺もこっちに来てから見聞きしたのがほとんどだし」
そうなると、とハロルドは口に手を当てて考える。
ちら、とアイスクリームに目をやって、
「朝飯はどうだった?」
「オムライスとハンバーグ?」
「そう」
「好物!」
もしかしてあなたが作ったの、と訊けば、まあ、とハロルドは頷く。ジェナは尊敬のまなざしを向ける。しかしそのこと自体は本題ではなかったらしく、
「それ、俺にオーダーしてきたのがアシュリーなんだよ」
ジェナは驚く。
……とまではいかない。
「たまたま?」
「一応言っとくと、この王宮に来てから朝食にオムライスとハンバーグを出したのはあんたが初めてだ。その反応だと、やっぱり好物の話はしてなかったらしいな」
もちろん、とジェナは頷く。
そんな細かい話をした記憶は、一切ない。というかまだ、どでかい話すらアシュリーとはできていないのだから。
そんな調子なんだよ、とハロルドは言った。
「ギリギリ『偶然』で済ませられそうなラインで、ズバズバ物を当てるんだ。疫病だとか自然災害だとか、文官の汚職とか。で、ここまで聞いてあんた、あいつが本当に『死んで戻ってきた』と思うか?」
ジェナは、少しの間だけ考える。
考えている間に、「うーん……」と声が出る。
「俺も同じ気持ちってこと。ってわけで、本当にあいつの言うことが全部本当なのかどうかは、自分で判断してくれ。俺はもう、どっちにしろあいつはよくわからんやつだと結論づけることにした」
確かめる方法もないしな、と。
締めくくられれば、まあ確かにそのとおりに思えてくる。死んで時間を遡ってきたなんて常軌を逸した主張、たとえ本当でも受け入れられない気がする。いくら証拠を提示されたところで、手品みたいに裏があるんじゃないかと疑ってしまいそうに思う。
それでも、ひとつだけ気になった。
「スカウト『組』ってことはさ」
「ああ」
「私とあなたの他にも、こういう人ってたくさんいるの?」
訊けば、いや、とハロルドは首を横に振った。
「ちらほら声掛け自体はしてるらしいんだけどな。ああいうおかしな誘い文句でのこのこ王宮まで乗り込んでくる奇特な奴はそんなにいないらしい。実は何人も潜んでるのかもしれないが、俺が知ってる限りでは他には一人だけ――」
きょろきょろと、彼が辺りを見回す。
何を探してるんだろう、とジェナも同じように辺りを見回す。
何もないはずだ。流石は高貴なお食事をお作りになられる場所だけあって、新築のように綺麗に掃除されているし、他のコックの姿もない。もしかすると、と窓の外まで見てみたけれど、精々スズメが横切るくらい。
それでもハロルドは、パンパン、と手を叩いた。
「リル、どうせ聞いてるんだろ。出てこいよ」
そうしたら、天井から出てきた。




