エピローグ(了)
馬鹿と精霊は高いところが好き、という言葉がある。
それを最初に言い出したのが誰なのかは知らないけれど、なかなか観察眼の鋭い人間だったのではないかとジェナは思う。
だって、少なくともどちらかは当たっている。
「そういえばさ」
「えっ、あっ、うん!」
大声で返事をすれば、当然アシュリーは面食らった顔をした。けれど元々が穏やかだから、大してその表情も長くは続かない。どうしたのと笑って、すぐにいつも通りの態度に戻る。
一方でジェナは、心底慌てている。
今更。
「どうするの、この卵は」
「どうするって?」
「開けるのかなって。それともこのままにしておく?」
よくよく考えてみれば、思い当たることがいくつもあるのだ。
たとえば一番わかりやすいところで言えば、最初にアシュリーが吐いた嘘。自分は彼の婚約者だとか、そんなデタラメのこと。
実はあれは、ジェナにとっては一つのミステリーだった。
最初は単なる嫌がらせとか、王族の高貴なおたわむれみたいなやつだと思っていた。だって自分を庇うだけなら、そんな大袈裟で面倒そうな嘘を吐く必要はないから。が、どうも彼の人となりを知るうちに「そんなことをするような人間か?」という気持ちが芽生え始める。兄と姉を相手にはさらりとその嘘を嘘だと伝えてしまったりするし、本当に意図がわからなかった。
なんでわからなかったんだ、と今になれば思う。
もう完全に、そういう意味だったとしか思えない。
遠回しなのか直接なのか、もはや判断が付かないくらいに大胆な、願望の吐露だったとしか思えない。
「ジェナ?」
「えっ、うん! いいんじゃない!」
「え? このままにしておくの?」
このままにしておくわけがない。
わけがないので「いや」とかそういうことをジェナは言う。が、その先に繋がる言葉が出てこない。それどころじゃない。こんなの明日やればいい。
「ジェナ」
今は、もっと重要なことがある。
「大丈夫? 体調、どこかおかしかったりする?」
ぐ、とアシュリーが顔を覗き込んだ。
内側から破裂するかと思った。
彼は至って真剣な様子だった。本気で心配しているのだと思う。実際、その心配は結構妥当なものであるはずだ。彼がいくらもう一度人生をやり直したと言っても、こうして卵の前に立つ精霊の姿を見るのは初めてなのだから。目の前にいるその精霊の様子がおかしかったら、もしかするとまたあれに取り込まれてしまうのかもと心配してしまうのも、全く自然な思考だ。
その心配は、全く必要がない。
完全に関係のないことで、ジェナは追い詰められている。
「だ、大丈夫、だけど……」
それなりに暮らしてきたから、これまでにもそういう話を振られる機会くらいはあった。つまり、「どういう人が好みなの」とか、そういうのだ。そしてそのたび、ジェナは全くその質問にピンと来ていなかった。こういう質問にピンと来ない人間がどういう答えを口にしてその場をやり過ごすかというと、大きく分けて次の二つが挙げられる。
一つ、「自分を好きになって、大切にしてくれる人かな」
二つ、「そんなのないよ。好きになった人が好みかも」
今、その二つが現実に、同時に発生してしまっている。
そんな馬鹿なことがあるのか。自分はそこまで単純な存在なのか。ジェナは自分自身に問い掛けてみるが、どれだけ心の奥に潜ってみても「いいえ」と答える声は一向に聞こえてこない。代わりにまた、自分でも「今更気付くのか」と言いたくなるようなことに気付く。
この場所に初めて来たとき、つまり、高いところに登りたさに堂々と不法侵入を犯して、この塔の頂上でアシュリーに会ったときのこと。
あれはラッキーだったな、とずっとジェナは思っていた。精霊祭の準備でもしていたのだろうか、たまたま彼があそこにいてよかった。いなかったらもう二度と会うこともなかったかもしれないし、別の人がいたらとんでもない大事件になっていた。結構自分たちは相性が良い。タイミングが良い。
そうじゃないかもしれない。
ただ彼は、何年もかけて自分を見つけられなかったから、一番自分に会えそうなところで待っていたのかもしれない。
来る日も来る日も。
ずっとずっとこの場所で、待ち続けていたのかもしれない。
「……あのさ」
「ん?」
そういうことに気付いてジェナは、とうとう意を決することにした。
もう横顔をこっそり見たりなんてしない。呼び掛けて、きっぱりと正面から彼の顔を見つめてやる。
それだけで、さらにたくさんの出来事が思い起こされる。
これまでかけられてきた優しい言葉に込められていた、一つ一つの思いに気付いていく。
そしてとうとう、「貴族の作法ってやつなんだろうな」と勝手に消化していた、あの喫茶店での手の甲へのキスにまで記憶は差し掛かり――
「何か、」
それを打ち消すためにも、必死になってジェナは、その質問を口にした。
「何か、私にしてほしいことってある?」
アシュリーの目が、大きく開く。
彼はすぐには答えない。腕を組む。顎に手を当てる。じっくりと考えるような素振り。それを待つ間、ジェナの心を凄まじい感情の嵐が襲う。
結婚してって言われたら、どうしよう。
どうするんだ。するのか。してしまう気もする。本当に? 今までそんなの自分がすることになるだなんて考えたこともなかった。それってどんな感じなんだろう。どんな生活を送ることになるんだろう。いや待て、そもそも一般的な結婚生活を想定するのは間違っている気がする。相手は王族なわけだから。でも王様になるのって順番通りだとお兄さんなんじゃなかったっけ。順番通りだよね。今回は何もないし。王様にならなかった王族ってどうなるの?
どうするの?
「じゃあ、」
アシュリーが、口を開く。
「今日、もう少しだけここで、一緒にいて」
生まれて初めて、我侭を言ったような顔だった。
彼は控えめにはにかんでいる。たったそれだけの、何でもないような願い事を、まるでとんでもなく大それたことのように扱って、じっと返事を待っている。
うん、とジェナは頷いた。
いいよ。
「本当?」
そんな些細な言葉だけで、彼は顔を輝かせる。思ってもいない幸せが空から降ってきて、そのことを喜ぶような顔。もうこれ以上望むことは何もないという、満足の表情。
ジェナは、視線を逸らした。
逸らした先で、空に浮かぶ卵を見た。
「これ」
見て、言う。
「今、開けちゃっていい?」
そのときにはもう、彼はいつものあの余裕たっぷりの態度に戻っていた。突然の言葉にも動揺することはない。それを横目で見て、ああ、と頷く。
「結局開けるの?」
「ダメ?」
「いいよ。別に僕のものってわけでもないしね。精霊祭で段取りがあるようなものでもないから、好きにしてくれて――」
大丈夫、の言葉を最後まで聞かない。
思い切り、アシュリーの手を引っ張った。
わ、と彼が声を上げる。精霊の力がなくなったのだから、さぞ怖かろう。しかし一方で、こっちはその消えた力が元の場所に流れ込んできたのか、今までで一番、身体が軽い。
だから、ひとっ跳びだった。
ぽん、と卵の上に、二人で飛び乗った。
ちょっとしたざわめきが下から聞こえてきたようにも思えたけれど、そんなことは気にしない。ジェナはアシュリーの手をしっかりと掴んだまま、胸を張って顎を上げる。風が気持ち良い。空がものすごく近くなって、それだけにその果てしないことがはっきりとわかる。
塔よりも、ずっと高い場所。
「びっくりしたあ。どうしたの、急に」
「アシュリー」
名前を、初めて面と向かって呼んだかもしれない。
ぎゅっと、力を込めてジェナは彼の手を握る。落としてしまわないように。彼のささやかな願いを、叶えてあげられるように。
「明日も、一緒にいてあげる」
それ以上のものを、与えてあげられるように。
「明日も明後日も、それから先も。一緒にいたいって言うなら、ずっと一緒にいてあげる」
だから、とジェナは息を吸う。ほんのちょっとのつもりだったけれど、肺に冷たい空気が入り込んでくる。それだけで、もうほとんど言ってしまったようなものなのに、まだ往生際悪く躊躇ってしまいそうになる。
視線が下を向く。
そうしたら、見えた。
かなり遠い距離だ。王宮の中でもない。街のどこかの一角。どうやって入り込んだのか、そもそもどこの建物なのかもわからないけれど、そこに見知った顔がある。
リルとハロルド。
建物の屋根の上で、ハロルドは怯えたように中腰になっている。リルはその横で、彼の腰をがっしりと掴まえている。仕事が忙しいんじゃなかったのか。もう終わらせてきたのか。彼女はいつもの表情でこっちを見上げている。声が届く距離じゃない。けれどその口が、珍しく大きく、ジェナの目にもはっきりとわかるように、こう動く。
がんばれ。
笑って、顔を上げた。
「アシュリー」
ジェナは、もう一度彼の名前を呼んだ。
「うん」
アシュリーは、素直に頷いた。
その顔が、あんまりにも可愛らしく見えたものだから。
あと一秒だって、ジェナは迷わなかった。
「今まで頑張ってくれて、ありがとう!」
そうして空には、無数の虹が咲き誇る。
それは、真昼に現れた流星群だった。
ただの星の光などでは、決してない。過剰なくらいに美しい、子どもが描いた夢のような光景。虹色にきらめく、触れてしまえば消えてしまう宝石のようなそれらが、卵の殻を割って一斉に、空を埋め尽くしていく。
千年経ったって、この光景を忘れる人はいないだろう。
街中を、光と歓声が包み込む。
「うわ、」
「わ――!」
そしてそれは、空の上でだって例外じゃなかった。
卵の割れた勢いで、ジェナはアシュリーと仲良く二人で、さらに上空まで吹き飛ばされた。
雲があれば、それに触れたような高さだ。空の青色がすごく澄んで見えて、太陽の光がもっとずっと近くなって、だから虹の光だって、きっとどこよりも綺麗に映る。さらに言うならそこは凍てつくような寒さで、これだけ寒いなら、近くにあるものを思わず抱き締めたって仕方ない。
仕方ないから、抱き締める。
歓声の中でも言葉が伝わるように、仕方なく頬だって寄せる。
「ねえ、他は!?」
「他?」
「他に何か、してほしいことないの!」
飛び上がったはいいものの、いつまでもこうしていられるわけじゃない。
これでも結構体力を使うのだ。安全に着地することを思えば、徐々に高度を下げていくのがいいに決まっている。だから二人は少しずつ、単に落ちるのよりはやや緩やかな程度の速度で、盛大な落下を始めている。
時間はそれほどない。
そのことをアシュリーもわかっていたのだろう。うーん、と悩む素振りを見せた後、そこまで言われたならという調子で、
「みんながもっと幸せになりますように、とか」
「そんなの――」
「今、叶っちゃったね」
ただの願い事だ、と口にする前に、彼は瞳で指し示した。
ジェナは、高いところが好きだ。
今までは、特にその理由を意識することはなかった。何となく高いところは気分が良いとか、上れるから上ってるとか、多分その程度のこと。言葉にするまでもなくて、訊かれても自信を持って即答できるような類ではない、曖昧な理由だけをその胸に秘めていた。
でも、今は一つ、自信を持って答えられる理由ができた。
たくさんの人々が、笑顔で空を見上げているのが見える。
一番高いところにいるから、一番遠くまでそれが見えた。溢れ出した光を掴まえようとするように、手を伸ばす姿。眩いそれに、目を細める姿。隣にいる誰かと、その光景を共有しようと笑いかける姿。
幸せが溢れているのを、こんなにもはっきりと目にすることができるから。
だから、高いところが好きになった。
「他には……」
隣で、アシュリーも笑っていた。声に釣られて彼を見ると、目と目を合わせて、額だって触れ合ってしまうような距離で、彼は言った。
「今が幸せすぎて、思いつかないかも」
この期に及んで、とその笑みを見て、ジェナは思った。
そんな顔を見せておいて、今更そんなことを言うつもりなのか。大事なことは言わないつもりなのか。どうあっても、こっちから何かを言わなければならないのか。
わかった。
「最初に言ったのは、」
不思議そうな顔をする彼に、ジェナは、はっきり言ってやる。
「そっちだからね」
息を大きく吸った。
それから、ありったけの声で以て、
私、
「――この人と、結婚します!」
地上の隅々まで響き渡るような、大音量だった。
一瞬、街が静まり返る。そして次の瞬間にはどよめき返る。高いところは良い。目立つから。大声で何かを叫んだとき、一斉に注目を浴びて、誰がそれを言ったのか、誤魔化しようもなくはっきりするから。
どうだ、と耳まで真っ赤にして、ジェナはアシュリーをじっと見つめてやる。
彼は呆気に取られた顔をして、その後不意に、ぷはっと噴き出すようにして、
「ジェナ」
すごく優しい声で、彼女の名を呼んだ。
「思い付いた」
「何を!」
「やってほしいこと。このまましばらく、ここにいたい」
「ここって、」
まさか、と思った。
「飛んでてってこと!?」
「そう。ダメ?」
「ダメじゃないけど、なんで!?」
「高いところが好きなんだ」
返ってきたのは、単純な答えだった。
意外な共通点に、どうやって飛び続けようかとか、それがどのくらい大変なことになるだろうとか、そういう心配が一瞬で頭の中から消え去っていく。ジェナはまじまじと彼を見つめる。単純な答えに、単純な質問を重ねる。
「なんで?」
そして彼は、ジェナと違って初めから、しっかりとその理由を持っていたらしい。
迷うこともなく真っ直ぐに、はっきりと。
目と目を合わせて、言った。
「好きな人が、迎えに来てくれるから」
そうして二人は、長い長い待ち合わせの後。
大好きな場所から、最初のデートを始めた。
(了)




