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8-③ どこにいても



「そうして目を覚ますと、あなたはここにいた。この場所で起きて……」

「自分が若返っていることに気が付いた。若かりし頃というか、幼かったけどね。びっくりしたよ。手のひらが紅葉みたいに小さいんだもの」


 精霊の塔の屋上。

 真っ白な日の光を浴びながらアシュリーは、ジェナの語った『失われた歴史』を肯定するように、そう言って笑った。


 すごいな、と彼は声を上げる。


「もっと外形的な部分だけを知っているんだと思ってた。君は人の心も読めるんだね」

「読めるっていうか。人を見れば『嬉しそう』とか『つまらなそう』とかわかるでしょ。それがもう少し鋭くなった感じ」

「今も?」


 今は、とジェナは首を横に振る。あの不思議な、心がはっきりと目に映るような感覚は、今はそれほどのものではなくなっている。


「普通。今までと同じくらい」


 そうか、とアシュリーは瞑目して頷く。


「じゃ、安心だ」

「何が?」

「こっちの話。でも、そこまでわかってるならもう、誤魔化しようもないな」


 並んで話そう、と彼は言った。そうして屋上の縁に向かって歩いていく。


 この屋上には、柵がない。


 びっくりした。


「ちょ、ちょっと!」

「えっ?」


 慌てて背中を引っ張ったら、なぜかアシュリーもびっくりした顔をして振り向く。その妙に無防備な表情がかえって不安を煽るから、ジェナの声も大きくなる。


「危ないでしょ! 落ちる!」


 呆気に取られた顔を、彼はした。


 ジェナと、それから屋上の端の間で視線を行き来させる。何を言われたのかを理解する。

 じっ、と掴まれた服の裾を見る。


 ふ、と堰を切ったように笑い出した。


「何。何笑ってるの」

「だって、し、心配性……!」


 あはは、といつまで経っても笑い終わらない。背中をバンバン叩いてやっても、「危ない危ない」なんて冗談めかして言うばかりで、決してその場所から離れようとしない。


 挙句の果てに、膝から下を空に放り出すようにして、結局その場に腰掛けてしまう。


「大丈夫だよ。落ちても死なないから」

「そんなわけないでしょ」

「ここから勢いよく飛び出していって無傷だった人が何か言ってるなあ」


 ぐ、と言葉に詰まる。ぽんぽん、とアシュリーは自分の隣の床を手のひらで叩く。

 仕方ないから、大人しくそこに座ることにした。


「落ちても死なないっていうのは、本当のこと? それともいつもの嘘?」

「いつものって。人聞きが悪いな」

「私が精霊師だって嘘吐いてた」

「人にはね。君には言ってないよ」

「嘘」

「本当だよ。聞かれたらはぐらかして話を逸らしてた」


 確かめてみようにも、そこまで優れた記憶力を持っているわけじゃない。そもそも嘘を吐くのもはぐらかして話を逸らすのも大して悪質度に変わりはない。こいつ、とジェナは唇を尖らせる。


 何が楽しいのか、またアシュリーは笑った。


「何」

「足」


 指を差される。視線を落とす。

 機嫌良さそうに自分の足が、ぱたぱたと揺れているのを見つける。


 止めた。


「あれ、いいのに」

「それより、さっきの質問」


 ああうん、と彼は頷く。微笑んだまま、思い出話をするような優しい声で、


「本当に本当だよ。この場所で目覚めたときに、気が付いたんだ。ちょっとだけ、君みたいな力が使えるようになってるって」


 彼は指先を宙に掲げる。すると、ぽ、と昼間に迷い込んだ蛍のように、淡い光が溢れ出す。

 それがふらりふらりと、水場を探すようにして眼下の街に迷い出す。昼の光に紛れて消えるまでを、二人で見送った。


「だから、落ちても死にはしない。君と同じでね」


 もう、彼は隠し立てをするつもりはないらしかった。

 ぽつぽつとこれまでのことを、まだジェナが知らない、けれど調べてみればいつかはわかるだろうことを語り始める。


「君が助けてくれたんだと思ったんだ」

「……どうして」

「いつも君が優しかったからかな。走馬灯か何かだと最初は思ったけど、妙にはっきりしてるし、長すぎるから。そのうちこれはメッセージなんだと思うようになった。『もう一度チャンスをあげるから、頑張れ』って」


 それで、と彼は改めて、これまでの道のりを教えてくれる。


 まずは兄と姉の間に発生した不和を取り除くべきだと考えたこと。子どもの身で厄介な貴族たちを相手取るのは骨が折れたけれど、最終的な結果を知っていたのが幸いした。その上、誰が頼りになる味方なのかもわかっている。声をかけられる限り、そして自分の力の及ぶ限りを奔走して、国の政治体制を安定させた。


「こういうの、向いてないと思ってたんだけどね。一度極限状態を経験したからかな。どうにか今の形にまで持ってくることができた。ジェナの目から見て、今の王家はどう?」


 訊ねられて、ジェナは言葉を探す。

 一番最初に浮かんだそれを、そのまま声に出した。


「仲が良さそう」


 はは、とアシュリーは笑った。


「そっか。それなら嬉しいよ。……兄上のことも、姉上のことも、僕は嫌いじゃなかったから」


 それから、と続いていくのは一番身近で、一番知らないこと。


「君のことも調べた」

「その力で?」

「そうとも言えるし、そうでないとも言えるかも。精霊の塔の地下って、もう入った?」


 もう入ったも何も、そんな場所の存在は知らない。

 首を横に振れば、彼は教えてくれた。


「精霊の力を使って開く隠し部屋があるんだよ。そこが図書室になっていて、きっと建国の頃の精霊に直接訊いたんだろうね。昔の詳しい文献が、たくさん残ってる」

「え」


 そんなの、とジェナは思う。


「ずるい」

 こっちはあんなにぐずぐず調べたのに、と。


「僕も結構時間をかけて気が付いたんだよ。最初は診療所を探しに行ったりしてたんだ。でも、君の姿は見つからなかった。それで他に当てもなくなって、塔を隅から隅まで探して、ようやく見つけたんだ」


 本によるとね、と彼は、


「精霊は、世界に反応して生まれ方を変えるらしいんだ。ねえ、ジェナ。君は自分がどんな風に生まれたか覚えてる?」

「どんな……」


 言葉に詰まったのは、まさか本当に誕生の瞬間を思い出そうとしていたからではない。

 ただ、こんなことは滅多に訊かれないし、訊かれても大して答えようのないことだからだ。


「知らない。気にしたことないし」

「物心がついたのはいつ?」

「いつって……」


 記憶を探る。

 あまり信憑性はないけれど、一応数字を出してみる。


「十年ちょっと前、とか?」

「子どもでも生きていける世界だったから、君は幼い姿で生まれたんだと思う」


 それは、不意に訪れた一つの答えだった。


 失われた歴史を覗いても解消できなかった疑問の一つ。どうしてアシュリーが元いた時間では、自分はもっと年上の人間に見えたのか。


「精霊はときどき生を受けて、この世界を見て回る。そうして歩くのに力が必要なら、君はもっと成熟した姿で生まれる。でも、今回は違った」


 ジェナは、眼下に広がる街並みを見つめた。


 ふらふらと歩き回ってきたから、本当のところ、故郷の場所など覚えてはいない。けれど、確かな記憶が残っている。どこに行っても、大して困ることはなかった。それは、このちょっとした特技があったからという理由だけではない。


「二つ、思うところがあったんだ」

 アシュリーが、長い人差し指と中指を、左手に伸ばした。


「一つは、僕にだけもう一度のチャンスが与えられたこと。王冠を被っている間は本当に大変なことばかりだったし、戻ってきてからもそれなりに苦労した。正直なところ、生まれを嘆いたこともある。でも、そもそも僕はこの地位に生まれなかったら、もっと幼い頃にこの世を去るはずだし、こんな風に苦しむ権利すら与えられなかった」


 そんなのは不公平だ、と呟く彼の視線を、ジェナは追う。

 その先は、ついさっき自分が訪れた場所でもあった。自分の記憶にあるよりも遥かに清潔で、立派になった場所。あのときにはなかった看板が、今はかかっている場所。


「世界の終わりを避けるための手段でもあったんだけどね。世界に反応するのは、精霊だけじゃない。あの『卵』も同じだから」


 視線を上げる。

 空に浮かぶのは、真っ白な卵だ。あの日、空に浮かんでいた濁った月とはまるで異なる。これだけ巨大な異物だというのに、祭りに参加する誰もが、それを不気味がったり、敵視したりしていない。ただぽっかりと浮かぶ、新たな美しい天体。


「卵は世界に感化されて、『恵み』にも『災い』にもなる。思えば、あの濁った卵から漏れ出してきた影たちがあれだけ容赦のない存在だったことにも、はっきりとした理由があるんだ。悪意と殺意は容易く僕たちを飲み込んで、その持ち主にすら制御できなくなる」

「……私にも?」


 訊ねれば、こくりとアシュリーは頷いた。


「もしも君にそれを止めることができたなら、きっと止めてくれただろうから。精霊は卵の『鍵』を持つ者のことだ。きっと、『恵み』と『災い』の性格そのものを変えることはできないし、その殻が罅割れていくことを止めることもできない」


 だから、とアシュリーが言う。

 けれど、その先が続かなかった。


「だから?」

 不思議に思って、ジェナは彼を見た。


 彼の方はと言えば、さっきとほとんど変わらない。空に浮かぶ卵を見ている。違うところと言えば、口を「あ」の形に変えていること。


 何かに気付いたような顔をしていること。


「――あんまり、上手くいってなかったのかな」


 不吉なことを言うから、ジェナも一緒になって、それをじろじろと眺めてしまった。


 たとえば卵の表面に暗い色のシミがついていて、インクを零したように広がりつつあるとか、そういうことを想像していた。けれど、どれだけ隅々まで眺めまわしてみても、そんなものは見つからない。


「何の話?」

「だってほら、前はこの日を迎える前から、中身が溢れ出してきてた。なのに今回は、まだ罅の一つも入ってない」


 もしかして、とアシュリーは言う。


「これじゃまだ、足りなかったのかな」

「そんなことないでしょ」


 本気で悔いているような声色だったから、ついジェナは擁護に回ってしまう。


 ぺらぺらと、知りもしないことばかりを口にした。ほら、こういうのって悪いことで満たすよりも良いことで満たす方がずっと難しいんだから。これだけできたんだから、


「十分、十分。頑張ったから、あんな風に綺麗な卵ができたんでしょ」

「そうかな」

「そうだよ。ほら、そもそも『災い』と違って『恵み』は殻を割らないのかもしれないし。それに、本当に足りてなかったとしても――」


 気休めの言葉の続きを探しているとき、人は、思いもしない真理を口にすることがある。

 まさに今が、ジェナにとってはその時だった。



「今よりもずっと、みんな幸せになる余地があるってことでしょ?」



 きっとそれは良いことだよ、と言ってみれば、何だか本当にそんな気がしてきた。

 卵を見上げながら、うん、とジェナは頷く。自分の口から出てきた言葉に、自分で満足している。


 その横顔を見つめるアシュリーの表情と、その意味に、まだ気付きもしていない。


「……そっか、そうだね」

 彼は、小さく呟いた。それから立ち上がる。うん、と大きく伸びをして、空の青色を瞳に映し取る。


「頑張って、良かったな」


 それは、清々しい終わりの言葉だった。

 隣で聞いて、ジェナはそう感じた。今、彼にとって一つの物語が終わったのだと。病がちの王族として生まれ、精霊に触れ、滅びゆく国を立て直す。きっと、初めから語ればひどく長い、苦難に満ちた季節を、彼は生き抜いたのだと。


 その証拠に、


「あ」

 と、彼は呟いた。


「今、消えた」

「何が?」

「身体の中から、精霊の力が」


 役割が終わったんだな、とのんきな顔をして、


「力を貸してくれてありがとう。精霊さ――わ」


 それどころじゃないと、ジェナは立ち上がって彼の肩を掴む。引っ張る。屋上の、もっと真ん中の方に連れていく。今までだって危なかったのに、精霊の力がなくなったらもう洒落にならない。落ちたら死んでしまう。そう思ってこっちは真剣なのに、アシュリーは驚いた後、すぐにくすくす笑い出す。


 何がおかしいのか、と不満顔で睨みつけてやる。

 そうしたら、ふと思い出した。


「そうだ、二つ目」

「ん?」

「さっき、二つ心に引っ掛かることがあるって言ってなかった?」


 今、こんな風に平和な世界になっている理由のこと。


 一つは覚えている。自分が王族に生まれていなかったら、こんな風に生き延びることはできなかっただろうという考え。きっと、とジェナは思う。それは彼にとっての、穏やかな復讐だったのだろう。


 責務の重さに出自を恨む気持ちと、しかしその出自のために生き延びたという事実。彼は『そうではなかったとしても生き残ることができた』世界を作り上げることで、運命に対して燃やしていたその静かな憤りを消化した。


 そのことはわかるのだけど、


「その二つ目って、聞いたっけ」


 思い出してみようとしても、よくわからなかった。何も、論文みたいに理路整然として話してきたわけではないから。それらしいものを聞いた気もするし、そうでもない気もする。


 記憶を整理しようと、頭を捻る。

 けれどアシュリーは、ああ、と何でもないことのように頷いた。


「君がどこにいるかわからなかったから」


 すぐにはその言葉の意味がわからない。思考を止める。隣に立つ彼の顔を覗き込む。

 彼もまた、こちらを見つめ返してくる。


「君がどこにいても幸せになれるようにって、そう思ったんだ」




 昔々、という言葉で始まる一つの物語がある。

 もうどこの図書館にも残っていないような、とびきり古い話だ。


 ある一人の少女が、一人の青年に恋をした。


 彼女はこれまでそんなことを経験したことがないものだから、とにかく加減を知らない。四六時中付き纏って、四六時中喋りかける。楽しそうなことを他に見つけても、必ず青年の手を引いて、一緒にそこまで連れていく。そうして古今東西、初恋とはそういうものではあるように、やがて少女は行き着くべき場所まで行き着くことになる。


 彼女は花束のようにして、それを青年の胸に押し付ける。


 貰った方が困惑してしまうくらいの、大きな大きな贈り物。

 両腕に抱えきれずに零れてしまった分だけで世界を満たしてしまうような、深い想い。




 そして現在、一人の少女が、その青年と全く同じ目に遭っている。



 ついさっきまで、彼女の目に映っていたのは単なる街であり、国であり、世界だった。隣に立つその人が、苦心の末に成し遂げた一つの成果が現れる場所。けれど今はもう一つ、そこに別の意味が被せられている。


 特別な感覚は、要らなかった。

 古い絵に触れる必要もなければ、空に浮かぶ奇妙な卵に触れる必要もない。それを知るのに不思議な力なんて、何も使わなくていい。


 ただ、人を見て『嬉しそう』とか『つまらなそう』とか、そういうことを察するのと同じ。

 ジェナはここに来て、全てが終わって、全てを聞いて、ようやく気が付いた。




 横顔を盗み見て、心の底から思う。

 この人は、自分に恋をしている。



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