8-② 王
あの夜に空の卵がもたらしたのは、もっと鮮明で、もっと詳細な『幻の続き』だった。
星に指先が触れた瞬間、ジェナの瞳に映る景色が移り変わる。ついさっきまで立っていた夜天の下から、本当に見たかった場所へ。アシュリーが死に戻ってくる前。自分と別れた後。
失われた歴史が、本の頁を捲るように広がった。
「王。ご体調はいかがですか」
「……良く見えるなら、僕の努力も大したものだね」
そこは、まだジェナが一度も入ったことのない場所だった。
自分の部屋はもちろんのこと、あのパーティ会場と比べたって、ずっと絢爛な部屋だ。真っ赤な絨毯が敷かれて、数々の装飾が置かれて、天井から吊り下げられたシャンデリアは、どんな宝石よりも眩く輝いている。色硝子から差し込む光は床の上に紋様を落とし、奥には、一際高く備え付けられた大きな椅子がある。
そこにアシュリーは、ほとんど沈み込むような姿で座っていた。
顔色は、どう見たって悪い。化粧を施して随分マシに見せているらしいけれど、それがわかってしまう程度には、地の蒼白が際立っている。指は痩せ、手首は掴むだけで折れてしまいそうで、瞳すらも力を失っているのか、時折ぐらりと揺れるほど。
そして、その衰えはアシュリーだけに限ったことではなかった。
「騎士団が帰還しました! これより宰相が団長を伴い謁見にまいります!」
うん、と彼が顎を引いてから入場の報せが入るまでは、それほどの時間もない。謁見の間の扉が開く。そうして、宰相と団長と呼ばれた二人の者が、姿を現す。
どちらも、満身創痍の姿に見えた。
片方は宰相と呼ばれた男だろう。背が高く、眉の薄い細身の立ち姿。それなりの格があるだろう衣装に身を包んではいるものの、しかし、いかにもそれが間に合わせに映る。髪はぼさぼさのままで、目の下に刻まれた隈はもう生涯取れないのではないかというくらいに濃い。足取り重く、ほとんど身体を精神で引きずるようにして彼は歩く。
片方が宰相と決まれば、もう片方が団長と呼ばれた女だった。こちらの衣装はもっとひどい。大柄とは言い難い身体を鎧で包み、しかしその鎧は何百年も前の戦に使われた遺物のように壊れ果てている。腰に提げた剣も鞘ごと曲がり、外套は巨大な虫に満遍なく食い散らかされたかのようにボロボロになっている。唯一、その当人だけが疲れを見せることなく、毅然と前を向いていた。
二人は玉座の前まで進むと、片方はけだるげに、もう片方は淡々と、アシュリーの前に膝を突いた。
「宰相、ハロルドでございます」
「騎士団長、リルでございます」
うん、と小さくアシュリーは頷いた。
それから、いかにも重たそうにその痩せた手を挙げて、人払いをする。慣れたものなのか、彼を取り巻いていた者たちはすぐにその場を後にする。扉が閉まる。
残されたのは、三人だけ。
「礼儀作法の定期試験は終わりだよ。いつもどおりにしてくれ」
「どうも。融通の利く王が主で助かったよ」
「ただいま戻りました。陛下」
ハロルドが身体を起こして、服の襟元を緩める。リルもまた、ボロボロの外套があまり気に入っていなかったらしく、さっとそれを剥ぎ取ってしまう。
何の躊躇いもない足取りで、二人はすたすたとアシュリーのすぐ目の前まで歩み寄った。
「おかえり。また再会できるだなんて思わなかったな」
「なんでだよ。俺はともかく、こっちは帰ってくるだろ」
「いや、思ったよりも早かったから。僕の方が耐え切れないかと思った」
「悪いのか?」
「まあね」
「こちらの状況も著しく悪化しています。報告をお許しいただけますか」
うん、とアシュリーが頷けば、そこからつらつらと淀みなく、二人は語り出す。
「まず、騎士団は前回の再編成から三割の死者が出ました」
「……そうか」
「私の力不足です。申し訳ありません」
「責めるなよ。同士討ちでさんざっぱら死に絶えた貴族様たちの代わりに、寄せ集めでやってんだ。補給物資だってそろそろ底を尽く。やり方が上手いとか下手だとか、そういう問題じゃねえ」
「端的に申し上げて、限界かと」
そうか、とアシュリーは頷く。
わずかに瞼を閉じる。開く。それから彼は、窓の方に首を傾けて、
「そんなに強いかい。この国を滅ぼそうとする力は」
ぽつりと、そう呟いた。
ハロルドもリルも、しばし口を噤む。アシュリーと同じように、視線を向ける。色硝子の窓が並ぶ中、その区画だけは透明な窓が嵌っていて、その先に空が見える。
真っ黒な卵が浮かんでいた。
無数の異形が、その殻に入った罅をこじ開けて、わらわらと地上に垂れ落ちている。
「少し、真面目な話をしようか」
アシュリーは、紙の束を取り出した。
それはよくまとめられた書類だ。周辺各国との折衝の結果と、呑み込まされた数々の条約の扱い方。そうして得られた国外勢力からの助力と、現存する国内戦力を把握した上での、これからの戦況の推移予測。国内経済への影響。数年後の人口予想。
かつて誇った栄華など、見る影もない。
アシュリーはその紙の上に書かれた未来図を、しかし淡々と説明していく。二人もまた、時に訊ね、時に意見し、それらの事実をより細かく、はっきりと、己の中に呑み込んでいく。
そうして話は、一番最後の項目に至る。
アシュリーが咳き込んだ。
「――――っ」
「おい、大丈夫か!」
「陛下、薬を」
リルの言葉に、激しく咳き込みながらも彼は首を横に振る。リルがハロルドを見る。とりあえず水だけでも、なんて気休めのやり取りの後、リルが鎧を着たまま走り出す。
戻ってきて、コップを一杯口に含ませる。
ふ、と一息を吐いたアシュリーの顔色は、憔悴の底にある。
「今日の分の薬はもう飲んだのか」
「飲んだ。もう、身体の方が保たない」
「……そうか」
「それでこちらというわけですか」
リルが手の中にある書類を振る。ハロルドが、遅れてそれに目を落とす。
「――禅譲?」
しばらく、アシュリーは何も言わない。呼吸を整えている。辛抱強く二人は、彼が再び口を開くのを待つ。
「この国の王に、最後に残された役割があるとすれば」
けほ、と短い空咳の後、彼は言った。
「それは、王冠を誰かに託すことだ」
「冗談はやめろ」
ぐっとハロルドが身を乗り出す。ほとんど掴みかかるような勢いで彼は、
「わかってんのか? 俺はあんたと違って、王家の血筋でも何でもない。こんなことさえなけりゃ一生ただの料理人で人生を終えるような、普通の人間なんだよ」
「だから、その正統性を僕が与えるんだ」
「そんなもんまっぴらごめんだって言ってんだ! 俺は何も好き好んでこんな立場に――」
その途中、はっと彼は言葉を止める。
アシュリーは、彼の怒号にも近い言葉にもまるで堪えた様子はない。静かな湖のような目をしてじっと、彼を見つめ返している。
ハロルドは一つ舌打ちをすると、その身を引いた。
「悪かった。ちょっと頭冷やしてくる」
あんたも冷静になれ、と一言残して、彼は歩み去っていく。謁見の間の扉をくぐって、やがてその背が見えなくなる。
残されて、二人。
「あらら」
リルが、珍しくおどけたような調子で言った。
「大変ですね、陛下」
「うん?」
「また宰相殿のご指示で薬師総動員の健康診断です。かえって大変お疲れになるでしょう」
はは、と力なくアシュリーが笑う。それからまた、彼女を見つめて、
「君はどう思うかな。リル」
「率直に申し上げても?」
「もちろん」
「まっぴらごめんです」
肩を竦めて、大袈裟な身振りで彼女は言った。
今度はアシュリーも、もう少しはっきりとした声で笑った。
「この仕事、前は殺し合いになるくらい人気があったんだけどな」
「志望者が皆お亡くなりになってしまいましたから。何事も流行り廃りです」
「案外やってみたらやりがいのある役職かもしれないよ。それにほら、君たちならきっと向いているだろうし」
何て言ったって、とアシュリーは語る。
片や統率能力と実務能力の二本柱を以て、包囲されていた地方都市の小さなレストランからこの王宮まで、数々の難所をくぐりぬけ、数多の避難民を導いてきた聡明なる宰相様。
もう片や、男爵家に残された一本の名剣を手に、旅の途中で無名の勇士たちを拾い上げ、とうとうこの王都に防衛線を敷くに至った、勇猛なる騎士団長様。
「もしもこの国に幸運なんてものが残っているとしたなら、君たちのような人物がいたことだ。人心を惹きつけるカリスマがあって、それに応える能力もある」
「僭越ながら、陛下は王には向いておられませんからね」
「はは。はっきり言われたな」
ええ、とリルは頷いて、
「部下に望む役職を与えることができませんから。ハロルドは先ほど言った通り料理人として、私は……そうですね。時折誰かの手伝いをするだけの自由人として暮らしたいと思っています。重たい王冠をわざわざ頭の上に載せたいとは、これっぽっちも思っていません」
「…………」
「もっとも、自らの願望の有無にかかわらず戴冠を義務付けられた陛下の前では、このような些細な願いすら過大な贅沢かもしれませんが」
いいや、とアシュリーはやわらかく首を振った。
「そんなことはないさ。生き方を選びたいというのは、当然のことだ」
「陛下のお口から出てくると、なかなか含蓄のあるお言葉です」
さて、と彼女は紙束を目の前に掲げる。ぽんぽん、と手の甲でその表紙を叩いて、
「禅譲の件、ひとまず承知いたしました」
アシュリーが眉を上げる。
「いいのかい」
「私は王に向いていませんが、この状況で他に引き継ぐことができる人間がいないと言われれば、それにも納得できます」
できればハロルドにやらせるつもりですが、と彼女は言って、
「陛下のお身体のためにも、心配事は減らしておいた方がよろしいでしょう」
「……すまないね」
「陛下」
ん、とアシュリーが顔を上げる。リルはそれを見下ろす。
いかにも丁寧な一礼の後、彼女は言った。
「大変素晴らしいお働きでございました」
そのやり取りを最後に、アシュリーの容体は急速に悪化の一途を辿る。
起きている時間よりも、眠っている時間の方が遥かに長くなった。元々あった食欲不振もさらに強まり、二日に一度は粥すらも摂れなくなる。ほとんどベッドの上から動くこともできなくなり、最後の王族としての役目は急速に縮小していく。王宮と呼ばれたかつての権威の頂はやがて、残された全ての人々にとって、近く捨て去るべき場所に変わっていく。
ある日、水を飲むことができなくなった。
それから彼は、四日間の眠りに就く。
きっと、と誰もが噂をした。
穏やかな方だったから、眠るように行ってしまわれるのだろう。
◇ ◇ ◇
けれど最後に、彼は一度だけ目を覚ました。
他の誰もが知らないことだ。
真夜中のように思えたが、アシュリーは死の際にあってもまだ己の状況を知る賢さを残している。あるいは真昼なのかもしれないと、揺れる意識の中で考えていた。もうこの両の瞳が、太陽の光を十分に受け取ることができなくなっているだけなのかもしれない。
ぎっ、とベッドが揺れる。
動いた。
そのことに彼は漠然とした驚きを覚え、その後に「ああ」と納得する。痛みがなく、疲れもない。魂が抜け去ったかのように身体が軽い。となるときっと、これが最後の時間なのだろう。蝋燭の火が消え際にぱちりと明るく輝くような、その機会が自分にも巡ってきたのだろう。
明日の朝には、もう自分はいなくなっている。
ほんの一瞬の残り時間を、彼は立ち上がった。
どれだけ身体が軽くなっていても、流石にもう自分の両足だけでそれを支えることはできない。ふらつき、ぶつかり、壁に寄り掛かって止まる。息が苦しくないのが不思議でならないが、あるいはこれもまた、これから先の生を諦めたがための余裕なのかもしれない。
濁った月が出ていた。
忌まわしい不幸の始まりを見上げて、ふと、彼は気が付いた。
罅から何も、出てきていない。
「…………」
アシュリーの頭の中には、光景が浮かんでいる。考えているわけではない。水面が月を映すのと同じく、それを目にした途端、自然に記憶が蘇ってくる。
あの日、卵の中から様々な異形が孵り始めた。
それはレオンハルトとクリスティーンの争いに、第一王子と第一王女による王権を巡る内紛に、干渉を始めた。
初めの頃こそは、単なる混乱の種の一つに過ぎなかった。けれど、その数は留まることを知らない。魚のように、虫のように、あるいは種から芽吹く毒花のように、わらわらと増えていく。この国を食い荒らし始める。兄と姉のどちらが先に死したのかを、アシュリーは知らない。確かなことは、すでにこれが人と人との争いではなくなったことだけ。
異形と人との、絶滅戦争。
その異形の孵化が、今は止まっている。
きっと、より肉体に活力があった頃のアシュリーであれば様々なことを考えたことだろう。今すぐにハロルドとリルの二人を叩き起こして、作戦会議だってしたかもしれない。たとえ何の裏付けもなくとも、その光景を希望に溢れた言葉で形容し、人々を奮い立たせることだってしたかもしれない。
けれど今は、そうできるだけの力も思考も、残っていない。
彼はただその卵をじっと見つめる。夜の黒の中に浮かぶ、それよりも一層静かな月。そして一つ、奇妙な感覚を覚える。
寂しそうだ、と思った。
どれだけ魂が弱っていたとしても、それが見当違いのものであることをアシュリーは理解している。ありえないことだ。なのに、どうしてもその目にはそう映り、その心はそう感じる。
ただ一人闇の中にたたずむその姿が、ひどく孤独なものに見えた。
窓の鍵に、指を掛ける。
開け放てば冷たい、けれど気持ちの良い風が部屋の中を吹き抜けていく。今の季節はいつだったか。夏? それとも冬? わからないまま、一枚を隔てていた硝子が消え去って、瞳はその濁った月を真っ直ぐに捉える。
「――――」
呼び掛けは、声にならない。
この場所から出ていくことだって、もちろんできない。
それでもアシュリーは、ほんの少し指を伸ばした。考えるべきことも、やるべきことも、他にはなかった。空に打ち捨てられたその寂しさに、触れようとした。
できないことはわかっていた。
それなのに、距離が縮まったような気がした。
これは幻なのだろうか。死の間際に見る一つの夢? 理解することはできない。答えを知ることはできない。
それでもアシュリーは、その場所を動かない。
だから誰より近付いて、そのために、それを見た。
「――ジェナ?」
卵が割れた。
これまでの罅割れではない。これだけの広大な国を滅ぼしたあの些細な亀裂ごときでは、決してない。もっと致命的で、破滅的な、最後の孵化。これが終わればもう卵の役割は残らない。その黒い殻を地上に全て落とし、ただ中身だけが残ることだろう。
その中身と、目が合った。
それが誰なのかを、アシュリーは知っていた。
物言わぬ彼女に、彼は語り掛ける。言葉になっていたか、声になっていたか、自分でもわからない。彼女の頬を涙が伝っていたのかも、それを指先で拭うことができたのかも、そんなことすらもう、知覚することができない。彼女はどんな形をしているだろう。どんな声をしているだろう。あの日の面影は、記憶は、この場所に残っているのだろうか。
死はすでに、彼の肩に手を掛けている。
その手を誰かが、振り払った。
何かを抱き締めた気がした。
それから真っ黒な光が、全てを塗り潰す。




