8-① お久しぶりです
それからの日々は、飛ぶように過ぎていった。
「ごちそうさまー」
「おー。そのへん適当に置いといてくれ」
厨房は、ここ最近の忙しなさに輪をかけての喧騒ぶりだった。
朝である。部屋に用意されていた大きなオムライスを平らげて、ジェナはその皿を返しにここまでやってきていた。適当なところに置いてと言われたから、空いている場所に紛れ込ませておく。洗い物まで自分でやってしまおうかとも思ったけれど、それは流石に諦めた。水場という水場が埋まって、素人がのんびり仕事を手伝えるような状況では、とてもない。
精霊祭、当日の朝。
今日となってはいよいよ賓客たちも勢ぞろいだ。コックの料理の腕が試されるのももちろんのこと、何より、それだけの食事を用意するための段取りと統率が求められる。
厨房の中心で、耳が六つ、手が八つあるかのように立ち振る舞うハロルドは、まさにその役割を全うしているように見えた。
流石は元宰相様、とジェナは思う。
「あ、そうだ」
その忙しさの合間を縫うようにして、彼はこっちに寄ってくる。
「今日って結局、あんたは会食には出ないつもりなんだよな」
「うん、そのつもり。呼んでもらっておいてなんだけど、上流階級のマナーとか、よくわかんないし」
「同感。じゃ、悪いんだけど昼食はちょっと遅めになるぜ。見ての通りの有様だからな」
「大丈夫。ていうか、祭りの方で食べてきちゃうかも。珍しいもの、結構売ってそうだし」
それもいいかもなと笑えば、料理長、とハロルドを呼ぶ声がする。じゃ、と彼は軽く手を挙げると、返事も待たずにまた喧騒の中へ。ジェナもまた、邪魔にならないようにとすたこら厨房を出ていく。
「あ」
「あ」
そうしたら、いつかの再来のように、ばったりだった。
廊下の向こうからリルが歩いてきていた。いつもどおりのメイド服。おはよう、と今日最初の遭遇の挨拶をして、ジェナは彼女の方に歩み寄っていく。
「やる気ある日?」
「あんまりありません」
ばっさりとリルは言う。あはは、とジェナが笑えば、一方で彼女は浅く溜息を吐いて、
「しかし流石に、今日までサボっていると後から言われそうなので、仕方なく」
「アシュリーから?」
「いえ。殿下は非常に理解があるので楽なんですが」
もっと別の方々から、と彼女は指を折り始める。何を数えているのか訊いてみたい気がするけれど、その答えと一緒に堂々と名前を出されても困る気もする。試しに何も言わずにいたら、彼女はやがて「やれやれ」というように肩をすくめて、
「日頃から仕事をサボるために一番重要なのは、『ここぞ』というときに多少の仕事をこなしておくことですから、仕方ありません」
というわけで今日はあまりお傍にはいられません、と彼女は言う。
いいよ、とジェナは笑った。
「今日は危ない目に遭うつもりもないし」
言いながら、でも、と思う気持ちもある。そもそも頼まれ仕事をしなければならないような立場でもないはずなのに。変に律儀というか真面目というか、あるいは流石は元騎士団長様と言うべきか。
そうしてください、とリルは言う。
そうします、とジェナは答える。すれ違う。立ち止まる。あ、と思い立って振り向く。すると向こうも、全く同じ格好でこっちを見ている。
どうぞ、と促し合って、先にリルの方が口を開いた。
「解決しましたか」
彼女らしい、飾り気のない問い掛けだった。
だからジェナも、同じくらい嘘のない言葉で、それに答える。
「今日、クライマックス」
ふ、と。
リルが口の端で、わずかに笑った。
◇ ◇ ◇
何事にもタイミングというものがある。
だからジェナは、すぐにはそこに行かないことにした。
折角のお祭りの日なのだ。さっさと一日を終わらせてしまっては勿体ない。そう思って王宮の外の出てみれば、わっと身体が軽くなるくらいの賑わいだった。
いつも歩いていたはずの城下町の道が、何十年も先の時代を訪れたかのように華やかに変わっている。見知った人も、見知らぬ人もいる。石畳に広げられた大布の上には、どこで作られたのかもわからないような木細工と、ちゃちで、けれどきらきら朝露のように輝く宝石たち。
鼻腔を突く香りは、見知らぬ香辛料に彩られていた。匂いの違う街はまるで全くの別物みたいで、けれど不思議と、それが嫌ではない。右手と左手に別々の食べ物を持って歩く。
大道芸があれば、足を止めて拍手をする。道端で歌う人があれば、ぴーぴー口笛を吹いてはやし立てたりする。調子に乗り過ぎればステージに引っ張り出されて大慌てになったりもするけれど、それも楽しみ方の一つだ。実は歌にはちょっとした自信がある……けれど、別に上手だろうが下手だろうが、そんなのは誰も気にしちゃいない。喜びの中で生きる街。風に吹かれて笑いながら、西へ東へ、どこへだって。
そして、ある場所でジェナは歩みを止めた。
そこは、街の診療所だった。生まれてこの方――というより、はっきりとした自我を持ってからというもの一生健康体なものだから、こんな場所を意識的に訪れたことはない。どんな日にも怪我人や病人は出るものだが、外から見る限り、そこは今日こそ一層忙しくしている様子だった。
いかにも酔いつぶれています、という赤ら顔の男。
その横で、喧嘩でもしたのか顔を腫らして、不貞腐れた様子で隣り合う子どもたち。
足でも捻ったのか、友人に肩を借りて片脚跳びで受付へと向かう少女。
その少女に、常連なのか何なのか、やたらに順番を譲ろうとする老人。
そっと視線を上げれば、その診療所の看板にはこんな文字が飾られている。
王立。
「診察希望の方ですか?」
「あ、」
ずっと立ち止まっていたからだろう。扉を開けて、白衣の人物が外まで出てくる。どこか加減が悪いところがあるのかと訊ねかけてくる。
「いえ」
もちろん、そんなところはない。
だからジェナは微笑む。首を横に振って、こう答える。
「ただ、今日も頑張ってらっしゃるなあと思って」
お疲れさまです、と頭を下げる。下げられた方は、どうもまんざらでもなさそうな顔をしていたけれど、意図が掴めたわけでもない。はあ、とか。ありがとうございます、とか。そんなことを口にして、頭を下げ返してくる。
伝わらなくたって構わない。
この場所にその建物があることの意味なんて、きっと自分と彼以外には、誰にもわからないだろうから。
それじゃあと別れを告げれば、ちょうどいい時間だった。ジェナは顔を上げる。まだまだ空は青いし、太陽だって白く輝いている。夕暮れよりはきっと、この時間帯の方がずっと綺麗に映えることだろう。
「うん」
決めた。
もうすっかり慣れた道だったから、迷うことはなかった。今日は外庭園の方まで人混みができているけれど、それだって大した問題ではない。リンデンバウムの木の陰に紛れ込ませてもらって、人の目をかいくぐるようにしてオークの大樹を上っていく。自分の侵入を受けて多少壁を高くしたらしいが、そんな小細工は通じない。
ぴょん、と一跳び。
偉い人がたくさん来ているはずだから、今日はここからも慎重だ。耳を澄ませて、声のする方へは近寄らない。それでも容易く一人歩きができるくらいにはこの庭も広い。その庭の中でも一番目立つ場所の前まで来れば、借りっぱなしの鍵を差し入れて、そっと、音もなくそれを開く。
ここまで来たら、誰に気を遣うこともなかった。
あの日と違って、足音は高い。勝手にホールを抜ける。勝手に階段を上る。勝手に廊下を歩き通して、最後は螺旋階段を見上げる。いちいち律儀に一段一段踏む必要がないだなんて自分でわかっているけれど、今日は何となく、そうしてみた。
おかげで、そこに立ったときにはもう、何の迷いもなくなっていた。
ノブを回す。
扉が開く。
そうしてまた、屋上に立つ一人の青年が、こちらを振り向き始める。
あの日と同じ光景だった。夕暮れの中で、彼が初めて振り向いたとき。空の色は違うけれど。空に浮かぶものは太陽だけではなくなったけれど。それでもジェナは、記憶の中にあるその一瞬と、今目の前に映るそれを重ねる。
目が合う。
お互いの瞳が、お互いの姿を映す。ジェナの目に映るのは、清々しいほどの快晴の下、こちらを見て微笑む青年だ。
向こうには、どう見えているのだろう。
確かめるために、ジェナは唇を開いた。
「――覚えてる?」
彼の目が、僅かに開いた。
驚いたような、あるいはそうなるとわかっていたことを諦めるような、複雑な表情。それが結局、あの人好きのする微笑みに取って代わられる。いかにもこんな晴れの日を生み出した人に相応しい、爽やかなそれに変わっていく。
彼は、あの日の自分とは違う。
突然の問い掛けの意味を理解している。質問を復唱したりしない。踵を引いたりしない。どこかで会ったことがあったっけ、なんて訊ね返してくることもない。
ただ、その言葉の全ての意味を汲み取って、こんな風に答えた。
「おかげさまで。お久しぶりです、『精霊』様」




