7-② ねえ
「あ」
「あ」
ばったりだった。
厨房からの帰り際。ハロルドは「部屋まで送るか」と言ってくれたけれど、今は平和な王宮の中だし、何より多分、自分の方がハロルドよりも足が速いし強い。
丁重にお断りしてから、一人で自室まで戻っていると、ちょうど鉢合わせた。
向かいからやって来たその人は、手に持ったランタンを掲げて、自分が誰なのかを姿で知らせてくれる。
リルだった。
「ハロルドにはもう会いましたか」
「あ、うん。さっき拾われて帰ってきた。もしかしてリルも探してくれてた?」
「私が探していたら夕食には間に合っていたと思います」
自信満々というより、単純に事実を述べているような言いぶりだった。そしてそれほど長い付き合いでなくとも、ジェナは彼女のその言葉をすんなりと受け入れられる。多分、実際にそうなのだろう。
つまり、今日はまだ『やる気が出なくて休み』のままだということで、
「……休みのときもメイド服着てるんだ」
「休みのときに服を考えるのって面倒で……あ、ごめんなさい」
ちょっと、と彼女は言う。顔を逸らす。口を手で覆う。それでも何をするかが見える。
くあ、と猫みたいに小さなあくび。
むにゃむにゃと口と瞼を動かして、
「明日はたぶんやる気が出ると思う。よろしく」
休みのときだとこんな感じなんだなあ、と物珍しくジェナはリルを見た。
訊きたいことがあったような気もしたけれど、本人が休みだと言っている日にわざわざ引き止めるのも悪いと思った。それに、ハロルドを相手に相談を持ち掛けたときも、今日自分に起こったことを説明するだけで随分長々と時間を取ってしまった。もう夜も遅くなってきたし、また明日、彼女のやる気が出たときに話してみるのがいいだろう。
「うん、よろしく。それじゃあおやすみ」
「待って」
けれど、そのまますれ違おうとするのを止められた。
「何?」
「背中。汚れてるから」
気になる、とそのまま肩を掴まれる。動かないで、と背中を軽く払われる。
ぽんぽん、と夜の廊下に静かな音が響く。
こういうところは休みの日でも変わらないんだと思ったら、前言撤回。一つくらいなら質問もいいかもという気がしてきて、
「リル。変なこと訊いていい?」
「ん」
「私の顔、いきなり十歳くらい老けさせることってできる?」
「根本から?」
軽い気持ちで訊ねたら、すごく怖い条件確認が返ってきた。
上辺だけでもいいと答えながら、ジェナは背中にうっすらと冷や汗が伝うのを感じた。できるのだろうか。根本から。十歳くらい老けさせることが。それってもう、化粧術を通り越して医術じゃないだろうか。
あっちの『自分』だったら、もしかしたらそれもできたのだろうか。
「上辺だけでいいなら、いつでもできるよ」
あっさりとリルは答えた。
けれどすぐに彼女は、あ、と思い出したように、
「やる気があるときなら。今すぐ?」
「あ、ううん。できるのかなって気になっただけ」
「そう。大人っぽく見せたいの?」
「そういうわけじゃないんだけど」
結構会話が弾むなあと、どうでもいい驚きをジェナは覚える。意外にも気が合うのか、それともリルが普段の振る舞いや態度に対して結構社交的なのか。
そんなことに思いを馳せていると、
「『前』はそうだったの?」
すとん、と落ちるべきところに落ちるような質問だった。
その一言だけで、リルが様々な事情を察してくれたことがわかる。だからジェナは、それにさして訊き返したりすることも、確かめることもないままに「うん」と素直に頷ける。
「あと、医者もやってた」
「頭が良いんだ」
「どうなんだろう。ちなみに、私をいきなり賢くすることってできる?」
「根本から?」
「…………」
「冗談。はい、後ろは綺麗になった」
ありがとう、と礼を言って振り返る。もうこの場所に立ち止まっている理由もない。じゃ、と口に出す一秒前。
リルは、やっぱり少し眠たそうな顔で言った。
「気になるなら、もっと訊いてみればいいんじゃない」
「それは……」
そうしたいけど、とジェナは思う。それができれば解決だ。でも、それができないから悩んでるわけで。アシュリーが教える気がないと言うものだから、こんな風にあっちへ行ったりこっちへ行ったりしているわけで――
「そうじゃなくて」
そんな思考の軌道を、そっと横から、リルが押した。
「精霊に」
ゆらり、とリルの手の中でランタンの火が揺れた。
彼女はそれを持ち上げて覗き込む。蝋燭がもう、随分短くなっている。少し悩んだような素振りの後、ふっと短く息を吹きかけて、消してしまう。
真っ暗になった廊下。
広がった闇をものともしないで、リルはやっぱり、あっさりと言った。
「それじゃあ、おやすみ。また明日」
コツコツと、小さく足音を響かせて彼女は去っていく。
誰もいなくなった廊下は、いっそう静かだった。蝋燭の残光が瞳から消えていけば、窓から差し込む月明りが妙に明るい。床は青白い水槽を敷き詰められたように揺らいで、その上でジェナは、一人で立っている。
踵を返す。
自分の部屋に帰るのとは、逆方向。
きっと、いつ行ったっていいはずの場所だ。鍵がなくたって入れる。その上、もう鍵を持ってもいる。明日目が覚めてからだって十分な余裕がある。
でも、今行きたい。
今知りたい。
庭の草原を抜ける。扉に手を掛ける。その先を抜けたくらいじゃ全然止まらない。ホールを抜ける。壁に掛けている絵にすら目もくれない。廊下を進む。
螺旋階段。
駆け抜けてもう一度扉を開ければ、双子の満月だった。
あの日みたいに、屋上で振り向く人の姿はない。だから、ジェナは一人でさらに先へと進む。煌々と輝く、今にも落ちてきそうな満月と、その横、かつてはきっと落ちてきたのだろう大きな卵に歩み寄る。
それは、ひどく単純な解法だった。
ハロルドは言った。時を戻るなんてことは、精霊の力が関わっているとしか思えない。妥当な推理だとジェナは思う。そして彼と同様、その源になる何かの切っ掛けがあるとしたら、あの空に浮かぶ巨大な卵しか思い浮かばない。
リルは言った。アシュリーが答えてくれないことなら、精霊に訊いてみればいい。それもまた、当然浮かんで来るべき手段の一つだった。だって、精霊の力が関わっているなら、精霊はそのことを知っているはずだから。実際に、精霊の塔で自分が見た幻は、そうした力が関わってのことだろうから。
問題は、たった一つだけ。
どうやって、精霊に訊ねるかということだけ。
「ねえ」
星を掴もうとする幼子のように、ジェナは空に向かって指を伸ばす。
できるはずだと、そう信じていた。知っていた。だって、もう証拠は十分に見せてもらったのだから。ちょっと胡散臭くはあるけれど、アシュリーが自分で、そういう風に教えてくれたのだから。
自分は、世界最高の精霊師なのだから。
「おしえて」
夜の空にほんの一つだけ、新しい星がきらめいた。
それは、虹と同じ色をしている。美しい輝きだけれど、もう誰も彼も眠りに就く時間だから、目の前にいるたった一人のために光る。
星が指に触れる。
瞳は光る湖のように波打って、瞼を閉じる。手のひらに星を閉じ込めて、彼女はそっと、それを胸の中に抱き締める。
嘘つき、と小さく呟いた。




