表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/19

6-② 大丈夫?



「姉上のところから送り込まれた騎士でね。僕に取り入ろうと必死なんだ。ごめんね、また呼びつけてしまって」


 アシュリーが上衣をはだけ始めたので、ジェナは彼に背を向けながらその話を聞いている。

 そしてここまでに至る一連の出来事を思い返し、ある一つの、自身にとっては大きな説得力を持つ仮説を掴まえ始めている。


 ここは、アシュリーが死んで戻ってくる『前』の世界なんじゃないだろうか。


「いえ。ちょうど患者の波が切れて、買い物に出たところでしたから。往診だと思えば、それほど手間でもありません」

「そう言ってもらえるとありがたいよ。乱暴な扱いはされなかった?」

「ええ、特には」


 そう考えてみれば、いくつもの出来事の辻褄が合うのだ。


 アシュリーの様子もそうだ。死んで戻ってくる前は病気にかかっていて、そのせいで死んだとも聞いている。戻ってくる前だったら、こんな風にベッドの上から動けないような有様だって、おかしくはない。


 街の様子だって、そもそもはこうなるはずだったのを、アシュリーが死に戻ってから食い止めたと考えれば……彼がやれたことの規模が大きすぎるような気もするけれど、何せ一国の王子様なのだ。そのくらいの影響力があったって、まあ、それもおかしくはない。


 もっとも重要な「どうしてそんな世界に幽霊みたいに迷い込んでるの?」という疑問も、最近の不可思議づくめの日々を思えば、それなりに呑み込んでしまえる。


 唯一、その仮説の中で辻褄が合わないのは――


「それで、どうかなお医者様。僕の容体は」


 衣擦れの音が聞こえてきたから、もう大丈夫だろうとジェナは振り向く。


 王族が使うにしては飾り気のないベッド。その横の椅子に腰掛けている、見慣れているようで見慣れていないその姿。


 明らかに自分と年恰好の違う『自分』。


「悪趣味ですね」

 溜息を吐くように、彼女は言った。


「すでに末期症状が出ています。投薬治療は病状の進行を遅らせることはできますが、この段階まで進んでしまえば完治は不可能です。そのことは、自分でわかっておいでですよね」


 何の心当たりもないのだ。

 仮に見た目の年齢の違いが何かの誤差だったとしても、医学の道を志したことなんて一回もない。頭をちらりと過ったことすらもない。だというのに、なぜこの『自分』は薬師と呼ばれているのか。あまつさえ、第二王子なんて高貴な立場の人間の専属医のような仕事をしているのか。


 思い出すのは、すれ違う人々のあの咳き込んだ姿。


 そういう『自分』に至らざるを得ない理由があったのか。


「もちろんわかってますとも。先生に何度も『安静に』と言われてますからね」


 ふふ、と冗談めかしてアシュリーは笑った。


「ただ、ちょっと構ってほしかっただけ。なかなか王宮にいるばかりだと、気を許せる相手もいないからさ」

「身元も怪しい薬屋よりも先に、もっと心を開くべき相手はいると思いますが」

「そうかな。僕、結構人を見る目は確かなつもりなんだけど」


 そういえば、と二人のやり取りを眺めながら、ふとジェナは思考を寄り道させ始める。


 今こうして見ているのが死に戻る前の『自分』だとしたら、アシュリーはどう感じたのだろう。自分ですら『自分』を見て驚いたのだ。それなら『自分』を見慣れていたアシュリーもまた、自分を見て驚かないはずがない。いやそれ以前の話か。この時点のアシュリーは何を知っていて、何を知らないのだろう。自分が精霊師だということは? あるいは自分が精霊師と呼ばれる存在だということを、こっちの『自分』なら知っているのか?


 疑問は募る。

 けれどその答えの出し方はわからないまま、『自分』が苦笑するのが見えた。


「人をからかうのも大概にしてください」

 おお、とジェナは誰にも聞こえやしないからと気兼ねなく声に出す。結構、こっちの『自分』はクールだ。


「あ。寂しい言い方だな。真剣に話してるのに」


 一方、アシュリーの方はといえば、自分が知っているのとそれほど変わらない態度で言う。いかにも優しげな顔で微笑んで、ベッドの縁を軽く叩いて、


「どうかな。今日、もしもこの後用事がないようだったら、もう少し話さない? 君と話しているとなんだか自分が賢くなったような気に――」


 言葉が途中で途切れる。

 ジェナは、『自分』が振り向いたのとほとんど同じタイミングで、アシュリーの視線を追う。


 空だ。


「どうしました?」

「いや、」


 気のせいかな、とアシュリーが毛布を手でどける。すかさず『自分』がベッドサイドに寄って、倒れないようにとそれを支える。彼はその手を借りて、床の上にぺたりと足を着く。


 ほんの少しの、短い足音。

 窓辺に掴まって、彼は曖昧な日差しに目を細める。


「あれ」

 指を差した。


「見えるかな、ジェナ。君にも」

「どれですか」

「あの小さな――やっぱり気のせいじゃないな。いつも見てるから、何だか違和感が」


 あって、と。

 彼が言う間に、きっとジェナは一度、ぱちりと瞬きをしたのだと思う。


 見たことのある現象が、空の上で起きた。


「何あれ」


 アシュリーの呟きに、答えないまま『自分』が窓辺に寄って立つ。さっきまでの、患者ばかりを気にしていた様子ではない。彼女もまた、食い入るようにその光景を見ている。瞬きのたびに姿を変えるその奇妙な存在を、瞳に大写しにする。


「卵?」


 同じだった。

 あの日、アシュリーと二人で喫茶店にいたときに見たものと同じ。空に浮かぶ球体が奇妙な速度で、そして誰にも無視できない大きさまで成長していく。食い入るように二人はその様を見ている。ジェナもまた、それから目を離せない。


「なんで、」

 聞こえるはずもない声で、疑問を口にする。



「なんで、濁ってるの?」



 呟いた瞬間、わっと大きな音が響いてきた。

 驚いたのはジェナだけではない。アシュリーも『自分』もまた、それで我に返ったようにびくりと身体を揺らす。音の正体を探る。


 それは、声だった。

 窓の外。どこかから大きく響き渡るような、多くの人の声を束ねた大音量が聞こえてくる。


「何ですか?」


 訊ねたのは『自分』だ。彼女はアシュリーを庇うように肩に手を掛ける。不思議なことではないとジェナは思った。決してその声は穏やかなものでも、喜びに満ちたものではなかったから。


「――冗談だろう」


 アシュリーが唇を震わせる。


 彼は『自分』の手を頼りながら、踵を返す。顔色は悪い。足がもつれそうになる。『自分』がそれをさらに強く支えれば、彼はその支え手を握って、


「ここにいてはいけない。ジェナ、君は、」

 その先が声にならなかったのは、扉の開く音に掻き消されたからだった。


「アシュリー殿下!」

 押し入ってきたのは、剣を佩いた王国騎士たちだ。


 さっき『自分』をこの部屋まで連れてきた者たちとは鎧の意匠が違う。彼らは何の躊躇も見せずにアシュリーの寝室に侵入してくる。その中でもいっとう位が高いらしいのが、もっとも大きく部屋の中に踏み込んで、


「こちらへご同行願います。ご抵抗なされませんよう」

「兄上の差し金か」


 アシュリーの言葉に、僅かにその肩を揺らした。


「賢才は本物のようだ。そこまでおわかりなら話は早い。さあ、こちらへ」

「そちらへ行って、その後はどうなる。この首に謀反人の名を刻むか。それとも姉上をその立場に追い込むための証人に仕立てるか」

「それは私が決めることではありません。ご自身の行く末が不安なら、どうぞこちらについてからレオンハルト殿下と存分にお話し合いください」


 騎士は、上辺限りの敬意すら取り繕わない。さらに踏み込む。鎧を鳴らして、アシュリーの細い手首に向かってその手を伸ばす。


「やめ――」

 それを、『自分』が止めにかかった。


 迷いのない動きだ。自分よりも頭ひとつは高い相手に向かって、どちらが病人かもわからないような有様の女が掴みかかる。騎士は当然、そんなものは意に介さない。拳を握る。肘を引く。大きく腕を振る。


 壁に叩きつけられる。


「ジェナ!」


 アシュリーが彼女の名を叫ぶけれど、騎士はそんなものに耳を貸したりはしない。アシュリーが捕えられる。こうなるともう、他の従者たちも総出だ。右から左から、次々に彼に掴みかかる。罪人を相手にするように肩まで固めてかかって、強い力で引き立てようとする。


 健康な人間が相手でも、大きな痛みを伴う行為だ。

 そんなものに、アシュリーの身体が耐え切れるはずもない。


 血が出た。


「わ!」

 げほっ、と咳した彼の口から、ぼたた、と床の上に飛沫が落ちる。足から力が抜けたのか、背中が曲がって屈み込む。ジェナは慌てて、何もできないとわかっていても彼の顔を覗き込む。顔色が悪いけれど、あるいは日常的にこうした症状に見舞われているのだろうか。大した量ではないし、吐血そのものにショックを受けたような様子はない。


 けれど、驚いた騎士たちはその手を緩める。


 その次の瞬間、そのうちの一人が跳ね飛ばされた。


「殿下から離れろ!」


 そして、一人だけでも終わらない。

 誰か屈強な人間がこの場に乱入したわけではない。恐らく、騎士たちも一体自分の身に何が起こっているのかわからない。しかしジェナにはわかる。自分にも同じことができる。


 壁に叩きつけられた『自分』が立ち上がって、騎士たちを睨みつけている。


 その手から、光が放たれていた。


「う――」

「ば、ばか! もっと頑張れ!」


 思わずジェナが声を上げたのは、その光があまりにも淡かったからだ。

 こっちの『自分』はほとんどこの力を使ったことがないのだろうか。自分だってそこまで使い倒しているわけじゃないけれど、ここまで弱くはない。騎士を数人脅しかけたくらいですっかり体力切れを起こした様子で、もう下手をすると、口元に血がついたままのアシュリーよりも、こっちの方が死にかけて見える。


 届くわけはないとわかっていても、ジェナは『自分』の方に駆け寄る。ほらもっと頑張れ、と背中を叩いてみる。


「――お前、精霊師か?」


 同じ側にいたから、その騎士の血走った目をまともに見てしまった。


「ジェナ、」

「アシュリーはいい! この女を捕えろ!」

「逃げろ!」


 入り乱れて、一瞬ジェナにも何が起こっているのだかわからなくなった。

 騎士が一斉に『自分』に殺到した。ただでさえ大仰な鎧を付けている集団だから、それで視界が埋まる。何も見えなくなる。何かの破砕音。ベッドが壊れる。チェストが砕ける。それから一人二人の騎士が床の上に倒れ込んで、怒号が響いて、それからようやくジェナも何が起こったのかを理解する。


 窓が割れて、『自分』とアシュリーがいなくなっている。


「急いで追え! 絶対に逃がすな!」


 騎士が叫んで、次々に部屋から出ていく。

 慌ててジェナは窓から飛び降りると、二人の行方を追った。



◇  ◇  ◇



 どう見たって逃げ切れないことは明白だった。

 だって、ちょっと力を入れて走っただけなのに、簡単に二人に追い付けてしまったのだから。


「ジェナ」

「殿下、抜け道はわかりますか。王宮から出なくては――」

「ジェナ、もういいよ」


 そして少なくともアシュリーは、そのことがわかっていたのだと思う。


 二人に追い付くまでの道中、ジェナは信じがたいものをいくつも見てきた。

 王国騎士たちが、剣で打ち合っている姿を見た。あるいはその剣が、鎧を纏いもしない人々に向けられるのを見た。怒号と悲鳴。あれだけ丁寧に手入れされていた王宮の建物は傷付き、今や少し顔を上げただけで、空に煙が立つのが見える。


 火の手だ。

 叫び声はいつまでも止まず、足音が迫っていたとしても、きっとそれに紛れて聞こえない。


 庭園の一画、今や焼け落ちるのを待つばかりの木立の陰に、二人は足を止めた。


「殿下」

 木の幹に背中を預けるようにして佇む彼に、『自分』が語り掛ける。


「大丈夫です。私でも、外に逃がすくらいのことはできます」


 アシュリーは、焦点の少しずつぶれ始めた目で彼女を見る。首を横に振って、


「逃げたところで先はない」

「そんなことは――」

「危ないのは君の方だ」


 そっと、ほとんど力も入っていないような指先で、彼女の手を取った。


「さっきの力は?」

「…………」

「精霊のものだと思われている。僕よりも、」


 ごほ、と一つ咳をして、


「君の方が、利用価値が高い。身を隠すんだ」


 巻き込んですまない、と彼はその手を放す。もう一度咳をして、


「早く」


 しばらく、『自分』は動かずにいた。


 それから不意に、彼の肩に触れる。淡い光が放たれる。それにアシュリーが目を見開いたのも束の間、彼女は懐から小さな紙を取り出すと、それを彼の胸に押し付ける。


「治療薬の製法です」 


 祈りを込めるような、そんな手付きだった。


「次に殿下の治療に当たる医師に渡してください。どんなに薬の知識がなかったとしても、この手順通りに作れば効果は出ます」

「……ああ、わかった」

「絶対にですよ。必ず渡してください」


 彼女は、最後までその紙の行方を見つめていた。

 アシュリーが震える手でそれを受け取って、懐にしっかりと収めるまでを、確かに見届けた。


「殿下」


 そして、見届けてしまえばもう、ここにいる理由はなくなる。


「お元気で」



 木立の向こう、煙の向こうに『自分』の姿が消えていく。

 足音まで聞こえなくなれば、やがてアシュリーはずるずるとその場に崩れ落ちていった。荒い息は、ここまで走ってきたせいだけではないのだろう。唇は色を失くして、あるいは今の彼にはこのまま隠れ続けることよりもむしろ、誰かに捕まることの方が望ましいのかもしれない。


「大丈夫?」


 憔悴しきった様子の彼を覗き込みながら、ジェナは考えていた。


 これが結末なのだろうか。彼が体験した一度目の人生は、こんな風に悲惨なもので、受け入れがたいもので、だから彼はもう一度自分自身をやり直すことに決めたのだろうか。訊ねてみたいけれど、届かないのは疑問だけではない。気遣う言葉もまた彼の耳に響くことはなく、ただ今は隣に座ることしかできない。


 なら、と思った。

 二回目は、もっと早く傍にいてあげられればよかったのに。


「……?」


 不意に、アシュリーが顔を上げた。


 ただ顎を上げるだけの仕草だけでも、随分つらそうに見えた。心配から、しばらくジェナは彼の方だけを見ている。しかしやがて、彼の視線が一点に注がれていることに気付けば、その先に目をやることもする。


 空に浮かぶ卵。

 今は、誰の目にも映るほど大きく育っている。


「なんで……」


 それで、ジェナの心にさらに疑問が湧いてくる。


 卵の色のこともそうだ。それだけではない。これが現れた瞬間に、王宮の中でこんな風に争いが起きた理由。二回目の、元の世界ではそれが起こらなかった理由。過去を知ることはできたけれど、まだわからないことはたくさんある。自分の見た目の年齢が違う理由や、薬師をやっている理由。そうだ、リルとハロルドは今どこにいるんだろう。二人もまた、彼の親友じゃなかったのか。他にはそうだ、それから――


「あ」


 ぴき、と卵の殻に、罅が入る。

 ジェナは、一番大きな疑問に気付く。



 そもそもアシュリーは、どうやって時間を戻ってきたのだろう?



 卵が僅かに割れる。

 中から何か、黒いものが飛び出して、落ちてくる。


 目を凝らしてみれば、もう夢の終わりだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ