6-① 薬師の
粗末な部屋だった。
下町に借りていたあの小さな部屋よりもひどい。面積こそそれよりも広いものの、あらゆる家具が百年以上使われているのかというくらいに古びている。そのくせ物があちこちに置かれていて、足の踏み場くらいしかない。棚の隙間から、何かの壜や草の頭が覗いている。窓が曇っていて、木の湿気った匂いがして、天井の板が少し丸まっている。
「ここ、どこ?」
と言おうとして、声が出ないことにジェナは気が付いた。
それだけではない。身体の至るところが全く動かない。その割に、視界ではずっと手が動いている。これは誰の手だろう。自分の手も生粋の貴族令嬢のものと比べればだいぶ荒れているが、こっちはもっとだ。老婆の手と言われても納得がいく。あかぎれの、焼けて乾いた指。
さらさらと、それは慣れた手つきで紙の上に文字を連ねていく。
処方箋、と。
がたりと音が鳴って、視点が高くなる。椅子から立ち上がったのと同じような感覚をジェナは得る。そのままさらに視点が動いていく。振り返る。進む。歩いているのと同じ心地。手が棚に伸びていって、いくつかの草を掴まえる。瓶を掴まえる。振り返るようにしてもう一度視点が動くとき、並べられた壜の表面にほんの少しだけ、姿が映る。
「――え」
という言葉も、同じく声にはならない。けれど、その言葉に込めた驚きだけは本物だった。
だってそこに映っていたのが、今より一回り年を経た自分の姿に見えたから。
「は? 何、どういう――」
こと、と無音の中でジェナは言葉を巡らせる。それを視点は待たない。壜の中に草を入れて、液体を入れて、しゃかしゃかと振り混ぜ始める。液面に一瞬またその顔が見えた気がする。目を凝らす。凝らせない。てきぱきと作業を終えると、視点ごと踵を返す。どこかに向かおうとする。また壜の並んだ棚の前を通る。今度こそとジェナは、どこに入れるともわからないままの力を込めようとする。真っ直ぐに動いていく視点に負けないように、ぐぬぬぬぬぬ、と棚の方を見つめようとする。
めきっ、と派手に寝違えたときのような音がする。
すぽん、と何かが引っこ抜けた。
どういう勢いなのか、そのままジェナの身体は止まらない。わ、と声を上げる間もなく床に一直線。受け身が間に合って、肩から着地して、ゴロゴロゴロにドン、で棚にぶつかる。
けれど、何の音もしない。
壜だって、一個も落っこちてきたりしない。
こんなに狭い部屋の中にいるというのに、見上げたその人物――十年後の自分にしか見えない――は、こちらに一瞥もくれやしない。
歩いて出ていく。
ばたん、と扉が閉まる。
「…………」
わけがわからないまま、ジェナは立ち上がる。初志貫徹。棚の方にもう一度向き合って、壜の表面を眺めてみる。
鏡にしても、誰の姿も映らない。
「……どうなってんの、これ」
溜息のように、深い不安の息を吐く。
痛った、と首を押さえる。
◇ ◇ ◇
物を動かすこともできなければ、誰に話しかけることもできない。
一番ありうる可能性は『幽霊になった』だ。
「薬は二週間分出しておきます。毎日決まった分量を朝晩に飲んで、咳が出なくなったら飲むのをやめるように」
「はい。あのう、お代なんですが、来月まで待ってもらえないかと……」
「結構です。返済計画を先に教えてもらえますか。本当に来月で問題ないようなら、約束書に署名もお願いします」
「…………」
が、どうもそれが答えではない気がするのは、目の前にいるこの『もう一人の自分』のせいだろう。患者と話し込む彼女の姿を、ジェナは隣で腕組みしながらじっと観察している。
この『自分』は、医者らしかった。
粗末な部屋を出た先は診察室になっているらしい。怪しげな壜も草も、全ては薬を調合するための容器や材料。二脚の椅子の横にはボロボロのベッドもあり、森の奥深くでもなければ嗅ぐことのないような匂いが充満している。
二番目の可能性、『自分は未来予知か何かで十年後の自分を見ている』。
勘弁してくれ、と思うくらいには辛気臭い診療所だった。
患者も金に困っている様子だったが、『自分』もまた裕福そうには見えない。ジェナは思い出す。城下だろうがもっと田舎の村だろうが、この王国はやたらと医療体制に力を入れている。道端で転んだ子どもが起き上がるよりも医者が駆け付けてくる方が早いなんて冗談があるくらいだ。それが何が悲しくてこんなに貧相極まりない店構えなのか。経営が下手なのか。それとも闇医者か何かなのか。
「先生、どうも。どうも、本当に、恩に着ます……」
「結構ですよ。お代はいただいていますから」
「…………」
しかし、感極まったように涙を流す患者と、素っ気ない言葉とは裏腹に微笑みを浮かべる『自分』の姿を見ると、そんなに単純な話でもないような気もしてくる。そもそも今の状況に至るまでの最後の記憶――あの精霊の塔に飾ってあった絵に触れたこととは、何の関係があるのか。そういうことをちゃんと考えてみると、最終的に思い浮かべる感想はこうなる。ここ一ヶ月、すっかり生来の友のように慣れ親しんでしまったこの言葉。
わけがわからない。
「ねえ。おーい。おーい。聞こえない? ねえってば」
「…………」
何度目かの呼びかけにも、『自分』は答えなかった。患者が立ち去ったのを見届けると、浅く溜息を吐いて天井を見上げる。瞼を閉じて、眉間に指を当てる。
その仕草が、いかにもくたびれている。
全然別の人みたいだ、とジェナはまじまじその姿を見つめた。
見れば見るほど不健康そうだった。髪の毛先も箒めいているし、爪周りも乾いている。頬がうっすらとこけて、唇も乾いて、まるで古木から切り出された女のように見える。こうなるのか、と自分を見つめ直すのも奇妙な体験だった。どこか理知的な気配が漂うのは将来像としてはそれほど悪いものではないが、診察室のどっちの側に座っていても違和感のない佇まいには、やはり多少の不安を抱く。ご飯はちゃんと食べているのだろうか。あるいは、もっと深刻なもの?
がたり、と椅子が鳴った。
立ち上がって、彼女が歩き出す。
「どこ行くの?」
訊ねても、もちろん彼女は答えない。
入り口のハンガーに白衣らしきボロ布を引っ掛ける。扉を開ける。扉を閉めそうになる。
まさかこの状況で一人取り残されるわけにもいかない。慌ててジェナは、その扉の隙間に滑り込んだ。
◇ ◇ ◇
ここがもしも未来だとしたら、これからどれだけ悲しいことが起こるのだろう。
見る陰こそあるが、それだけにいっそうみすぼらしく感じる街並みだった。
驚いたことに、診療所の扉を出た先にあったのは見慣れた城下町だ。ジェナもそれなりにあの場所に住んでいたから、多少変わり果てても「絶対そうだ」と確信を持って言える。似たような町並みの場所というのは旅をすれば巡り合うものだが、角にパン屋があって突き当りに三叉路があって、その真ん中にいかにも住みにくそうな宿がある……なんて見慣れた光景をいくつも見れば、間違いようがない。
しかし、その見慣れた光景が、これもまた随分と擦り切れている。
まず、パン屋が潰れていた。
窓が割れたまま放置されていて、ちょっと覗き込めばトレーや机が半ば壊れて散乱している。昨日今日で強盗が入ったというわけでもないのは、道を行く人々がそれにちらりとも目をやらないことからわかる。
潰れているのはパン屋だけではなかったし、道も汚い。火山が噴火して灰でも降ってきたのかというくらい石畳は汚れているし、割れてもいるし、さらに言えばすれ違う人々もその雰囲気に近い。皆視線は低く落として、薄汚れた服を着て、ひっきりなしに咳をする。
一体何があれば、こんなことになってしまうのか。
あんなに平和で、王宮に不法侵入してものうのうと生きていられるような、能天気な町だったというのに。
「っと」
考え込んでいると、『自分』はどんどん先に行く。慌ててジェナはそれを追いかけていく。
どこか変わった場所に行くのかと思ったけれど、そんなこともなかった。雑貨屋に寄って壜を買ったり、いくつも店を巡って安い食べ物を買ったり、それくらい。しかし驚くべきは、その食べ物の値段が明らかに高くなっていることだった。さっきの診療費だの薬代だのが破格の安さに思える。この『自分』は、どうやって生活しているのだろう。
なんて、そんなことよりも先に考えるべきことが絶対にある。
結局、ここはどこなんだ?
夢の中、と結論付けられるならこれほど楽なこともないが、ここ一ヶ月の間に起こったことを鑑みるに、その可能性はそう高くは思えない。幽霊になったにしては、目の前にいる『自分』の存在が邪魔だ。
やっぱり未来?
「あ」
確かめる方法が目の前にあることに、ジェナは気付いた。
新聞紙だ。道の途中で『自分』が買った野菜の包装に、それが使われている。別に今日のものとは限らないけれど、食品を包むものなのだから、過剰に古いわけもあるまい。ジェナは『自分』の前に躍り出る。彼女の腕の前で屈んだり伸びたり、目を開いたりすがめたり、あの手この手でその日付を探そうとする。
ばさっ、とその包みが落ちた。
おっ、と目を吸い寄せられたのも束の間。すぐにジェナはもっと短期的な疑問に取りつかれて、視線をまた持ち上げる。
なんで落としたんだろう。
答えは、すぐ目の前にある。
「薬師のジェナだな」
「…………」
包みを持っていた『自分』が、その手を掴まれていた。
掴んでいるのは誰だ、と考えるまでもない。町人にしては仰々しく、盗人にしては堂々としすぎている。厳めしい鎧に身を包んだ男が、手首に真っ赤な跡を付けるような強い力で『自分』の手を捻り上げている。一人じゃない。他にも数人。持ち手の使い古された剣を腰に差して、彼女の周りを取り囲む。
「ついてこい。拒否権はない」
王国騎士だ。
しばし騎士を見つめ返した『自分』は、しかし従順だった。騎士に前後左右を取り囲まれて、とんでもない凶悪犯か王族かという体制で連行されていく。道行く人々がその連行劇を見る。見て、すぐに目を伏せる。誰も助けに入らない。
ぽかん、と口を開けてジェナはそれを見ている。
「あっ、いや、追いかけなきゃ!」
誰に聞かせるでもなく声を上げたのは、混乱する思考を落ち着けるためでもあり、あるいは『自分』を見失った今、それでも自身がここにいることを確かめるためでもある。慌ててジェナは、騎士たちの後を追っていく。
彼らは奇妙に早足だった。間に挟まれた『自分』が何度も急かされる程度には。そしてそんな姿を見ていると、改めて気付くことがある。『自分』はふらふらだった。それでも何一つ文句を言わずに騎士たちの歩調に合わせて行く。必然、ジェナ自身もそれに合わせて小走りで後を行く。
見慣れた道になってきた。
嫌な予感がしたら、それが当たった。
「開門!」
玄関を開けるだけでこんなに仰々しい言葉を唱える必要がある建物というのは、王国広しといえどそうは多くない。そしてよりにもよってジェナは、この場所を知っている。
最近になって、すごく詳しくなった。
王宮だ。
騎士たちの足取りは迷いがない。王宮の奥へ奥へとガチャガチャ鎧を鳴らして突っ込んでいく。途中で持ち物検査も受ける。見慣れているのに、やっぱりここも妙に寂れ果てた廊下。土に汚れたままの絨毯の上を導かれていけば、その部屋に辿り着く。
「殿下。お休みのところ失礼いたします」
ぎい、と扉が開く。
大きな窓から差し込む淡い光とともに、その部屋の内が明らかになる。
「御用の薬師を連れてまいりました。お辛いところ大変恐れ入りますが、お身体をお起こしください」
「…………ああ」
これもまた、見慣れた顔だった。
見慣れた顔だから、驚愕した。
目も鼻も口も眉も、全部見覚えがある。あるから余計にだ。さっきまでの街と同じ。比較する対象を知っているから、それがどれだけ悪い状態かわかってしまう。
大儀そうに彼は、身体を起こす。
それだけで、ぐらりと眩暈を起こしたように眉間に皺が寄る、それでも礼儀正しく、愛想良く、彼は痛みを笑顔に変える。
「いいって言ったのに。ジェナも、いつも悪いね」
彼は、病身のアシュリーだった。
しかも、ジェナの記憶にある姿と全く同じ年齢の。




