1ー① 覚えてる?
馬鹿と精霊は高いところが好き、という言葉がある。
この言葉を思い出すたびに、ジェナはいつもこう思う。
ということは、自分は馬鹿なのか。
入り口の扉はひどく重たかった。
楚々とした美しい外見に反して、恐らく材料は全く可愛くない。大男が四人はいないとびくともしないのではないかというくらいにものものしく、だからかえってそれさえ閉めてしまえば、しばらくは誰も追ってこられなくなるはず。
ゆっくりと、ゆっくりと、扉を閉めていく。
閉める。
どぅん、と低く震えるような音が響いた。
「――!」
一瞬だけ心臓が跳ねる。しばらく息を止める。耳も澄ます。分厚い扉を挟んでいるから所詮気休め程度のものではあるけれど、それで周囲の安全を確認する。
何の足音もない。
ほっ、とそれでようやく安堵の息を吐いた。
扉から手を離して振り向く。靴が床の上できゅっと鳴る。この感触は、とジェナは思った。大理石だ。さっきまでこなしていた仕事の関係で、ついその輝きを確かめそうになる。そして思う。足跡。片足ずつ靴を上げて、一応泥やら何やらがついていないことを確かめる。
ま、いいや。
歩いたところは帰りにでも、綺麗にしていけばいいし。
顔を上げると、橙色の日差しが差し込んでいた。
もうすっかり夕方だ。午後の半分も過ぎる頃で、春も中頃とはいえ、もう夜が近い。部屋の隅にはすでに夕闇が焦げ付いたように滲んでいて、じわりじわりとその面積を広げている。
行くなら早く行かなくちゃ。
歩き出したら、ホールにかつんと静かに足音が響いた。
玄関から入ってすぐは吹き抜けのエントランスだから、それほど迷うところはない。二階へと続いていく曲線の階段は、右から行っても左から行ってもいい。理由もないまま左の方から進むことにして、床が石材から絨毯に変われば、すぐに足音は目立たなくなる。真っ白な手すりをうっかり掴んでしまわないように気を付けながら、ジェナはこの大きな建物の中を行く。
精霊の塔、と呼ばれている。
ものすごく長い正式名称もあるそうだ。建国王の何とかさんがほにゃららを記念してふんふにゃの理由で建てた……というような、説明調の。この場所を管理している貴族たちはもちろん教養としてそれを知っているのだろうが、たまたまここに不法侵入しているだけのジェナは、もちろんそんなのは知らない。わかるのは今こうして歩いていく中で、良い床材を使ってるなあとか、絨毯がふかふかだなあとか、壁にかけてある絵って高いんだろうなあとか、それくらい。
仕事帰りだった。
ジェナはイズニール王国の都に小さな部屋を借りている。収入源は、商業ギルドで受注可能の日雇い仕事。
今朝方、ちょっと遅めにギルドに行くと、珍しい求人が目に入った。
王宮外庭園清掃。正規職員急病につき、要補充一名。
仕事自体はそれほど難しいものではなかった。王宮内の庭園ならともかく、外庭園は一般開放されている空間だから。他の正規職員の指示に従ってゴミを拾ったり、道を掃いたり、堀の苔落としをしたり。暗くなる頃には外仕事は難しくなってくるから、働いた分のお給料だけを貰って「それじゃあまたご縁がありましたら」なんてへらへら笑ってさようなら。
さようなら、のはずだった。
魔が差した。
外庭園には何千本という樹木が植えられている。それもイズニール原産のものだけではない。西の果てやら北の果てやら南の果てやら東の果てやら……ひょっとすると上やら下やらの果てからも来ているのではないかという様々な樹々が、この国の繁栄と明るさを象徴するように美しく並べられている。
すごく大きなオークの木があった。
これに登って上から眺めたら、さぞかし綺麗な景色だろうなと思った。
リンデンバウムの陰でしばらく辺りの人気が消えていくのを見届けた後、ジェナはしゃかしゃかとそのオークの上に登ってみた。すると、大変期待通りのものが見える。ついさっきまで一緒に仕事をしていた正職員たちが日々をかけて作り上げた、整然たる王宮外庭園の姿がそこに見えた。
満足した。
後ろを振り向くと、もっと高い建物がこっちを見下ろしていた。
もう一回、魔が差した。
そこからはあっという間だった。というより、あっという間に済ませなければ今頃すっかりお縄で牢屋行きだっただろう。ジェナは『ちょっとした特技』を使って木々の間を飛び回った。明らかに越えたらいけない気配のする塀まで越えて、てくてく歩いているところを見られただけで死刑宣告されそうな道まで渡ってきた。
入っちゃいけないところに入るのが、一番楽しい。
楽しすぎて、今やこの塔の頂上を目指している。
エントランスから入ってしばらく廊下を歩いていると、やっぱりまた大きな階段があった。誰も見ていないのをいいことに、馬車が横向きで三台も置けそうなありえない幅のステップの真ん中を堂々と歩いていく。大窓の片側からは夕陽が燦として輝いて、もう片側ではすっかり薄夜の街が広がっている。あんまりにも広い場所だから、不思議なくらいに背中が寂しくなる。上り切る直前に、ほんの少しだけ振り返る。
絵が見えた。
とても大きな絵だ。空と花野とが美しく描かれた、一見すれば風景画。けれど夕焼けの橙色に負けずに目を凝らせば、その中にいくつか、夏夜の蛍のように飛び回る光が見える。
きっと、それは精霊なのだろうけど。
だとするなら、絵の中で飛ぶ鳥よりも小さい姿なのだから、よっぽどその精霊ってやつは小さな生き物らしい。
視線を切って、さらに先へ。
そこからは何のことはない。ただただ整然と階が並ぶだけだ。壁に沿って現れる螺旋の階段。雲の上にでも案内するつもりなのかと思わせるその果てしなさは、普通であれば人をうんざりさせるものなのだろうが、ジェナにとってはそうでもない。
街に居並ぶプラタナスの高さは、もう追い越したはずだ。
次には、あの大きなオークの木さえ。
螺旋階段には窓がない。だから、今自分がどのくらいの場所にいるかわからない。それがかえってわくわくする。今の高さはどうだろう? ひょっとして、生まれてこの方一番と言えるくらいの場所にいるのではないか。本当にそれこそ、屋上に立てば雲だって指先で触れてしまうんじゃないだろうか。
わくわくする。
わくわくしながら、最後の扉の前に立った。
鍵がかかっている。内鍵がこっちについているわけじゃないのは、確かに外からの侵入者が来ないようにと考えれば当然の処置なのだろうけど、その効力については多少の疑問が残る。これだけ高い塔の屋上から、一体誰が入ってこようとするだろう。
鍵穴がある。
覗き込んでみて、やっぱりジェナは『ちょっとした特技』を使う。
がちゃん、と呆気なくそれは開いた。
今までで登ったことのある場所の中できっと一番高い場所だ。しかも王都のど真ん中。時間帯だってかなり良いはずだし、この場所まで来るのに支払ったドキドキに見合う何かがそこに待っているはず――。
期待を込めて、ノブを回す。
扉が開く。
それからは、幾千枚の絵画のようだった。
広い屋上には、柵も何もなかった。遠景に広がる街。その街すらちっぽけに思えるような、遮るもののない空。黄昏時。薄明が空と陸の境目を曖昧にして、これからまるで全く違う世界が開き始めるような、不可思議な光と闇を放っている。
その真ん中に、ひとりの青年が立っていた。
風に吹かれている。彼の右足が一歩下がる。左の足が方向を変える。肩口から動き出して、腕、肘、指先……振り向く動作。風の中に髪の先が遊ぶ。髪の開いた場所から、ほんの一瞬の明かりに輝く頬が覗く。まなじり。睫毛。
瞳。
とうとう彼は、振り向いた。
ジェナは目を離せずにいた。真っ直ぐに、彼の目を見つめている。彼は呆気に取られた顔をする。それから少しずつ眉が、瞼が、頬が、口が、首が、形を変えていく。その全てが、ひとつひとつの動きが、たったの一秒間をいくつもの、いくつものいくつもの絵画が構成していることを報せるように、鮮明にジェナの記憶の中に残っていく。
彼が笑う。
唇から、言葉が放たれる。
「――覚えてる?」