12 風を訪ねて
厨川柵は三丈あまりの幅の川と深き淵を天然の守りと為し、更に溝を周囲にめぐらし、二重の柵と楼櫓を構える。日高見の柵中最も奥まったこの柵は、最も堅固な砦であり、最期の要害としての役割を担う。厨川柵がその責を果たす時は、即ち日高見のクニが終焉を迎えた時だ。
「此の地を踏む大和人は、永衡義兄上に次いであなたが二人目よ。」
兄に会いたくないかと有夏に誘われ、会いたいというより確かめたい、という衝動で経清は同意し衣川を発つことになった。
柵の楼櫓がのぞめる地点から、先導するひたかみの娘は饒舌になっていた。護衛(監視でもあるのは承知している)の五騎は彼等の会話が届かない程の間をとって、背後に従っている。
「もっとも、闇衛――安倍の者にも縁遠い処なんだけど。そう用向きのある場所でもないから。」
田畑が眼下に広がる曲がりくねった下り坂は、馬二頭が並進するのも腕が要求される。
「嫡子が厨川の柵主になるのは慣わしだけれど、普通は柵代を置いて、自らは衣川に在るものだから話にのぼる場所でもなかったんだけど・・・以前は。」
「貞任どのも以前は衣川で過ごしておいでだったのだろう?」
彼を貞任と呼び、空里相手ならまずならない言葉遣いになるのは、空里が貞任と聞かされはしても、目で確かめたことではないから、まだ納得がついていない故だ。
「今でもそうするべきなの。」
きつい響きの自分の声に、有夏ははっとし、それから決まり悪げに眉間を寄せた。けれどうつむくのではなく、きっと眦をあげたのに彼女の性格が表れている。
「――何故とは伺って構わないか?」
主戦論者である彼を蟄居させて、大和への恭順をはかっている――という多賀城国府の噂は、噂にすぎないようだ。
彼は自分の意思で隠棲同然の暮らしを送り、周囲はひたすら困惑している。彼の責務を代行している宗任が、だからといって嫡子に納まり直すなどということはまったく有得ない話であるらしい。
それほどに待たれる存在でありながら。
そして、なにより彼が空里であるならば。
あの空里がひたかみに背を向けて居るということが信じがたい。
なにが、彼を閉じ込めている?
「――壊したから。」
ややの間を置いて、ポソリとどこか自嘲するように有夏は言った。
「兄上の大事なものを、私たちが奪った。それが正しいと思った。今でも間違っていたとは思えない。ひとの理においては。でも、」
独白のように言葉を紡いでいた有夏がはっと目を上げる。ちょうど坂道を下りきったところだった。こちらへ向かって馬を駆ってくる一団を認めた。経清は身構えたが、駆け出そうとした護衛を手を上げて止めた有夏の落ち着いた様子に力を抜いた。恐らくは厨川柵の者たちなのだろうと考える間に、距離は縮まっていく。
「そこでおとどまりを。有夏姫。」
数間先で馬を止めた一団の中から一人の男が進み出た。彼が馬を降りるのをみて、有夏、次いで経清も馬の背から降りた。
「ここは闇衛の領内よ。どうして私がゆけぬところがあるの?」
有夏は不愉快そうに男を見返した。
「勿論、あなたは構いませぬ。が、そちらの大和人にはここでお退きとり願いたい。」
年齢は三十少し前くらいか。なかなかの男ぶりで、若狭の浜でみかける船乗りたちのように日焼けしていた。
「あなたがその者を婿と選ばれたというのであっても、あなたの一存でここを通すことはできません。」
「・・・守衡、か?」
名乗った覚えのない名を呟く大和人を胡乱に見遣り、一瞬の凝視の後、男は唖然と両眼を見開いた。
「・・・久しぶりだな。分かるか?」
「――経清、」
空から降ったか地より湧いたか、と言わんばかりの声だ。
「覚えていてもらえたか。」
「オレ以外で空里から名を渡された唯一人の男――しかも大和人という障害をものともせずに。そのあんたを忘れるのは難しいな。」
しかめっ面しく男は応じたが、一転くだけた笑みを浮かべてなつかしげに経清の肩を叩いた。
「息災のようでなにより。」
「あんたも、」
笑った目じりに皺がうっすら刻まれるようになった分、人当たりの良い物腰が巧妙に覆ってはいたが、何処か世を斜めに見ているようなところが薄れた気がするのは、男が良い年の経り方をしたということなのだろう。
――では自分は?
あの頃から、何か成長ることができているのか。
「分かったでしょう? 私は彼を案内してきたのよ。」
勝ち誇ったように有夏は言ったが、
「彼は預名方でそれはひたかみにおいて重んじられて然るべきことだが、経清はあくまで大和人、しかも多賀城の部将で、あなたとの見合いにかりだされるほど源頼義に近い。」
守衡が返した声は厳しかった。
「オレも空里もまた経清と会えたことは喜ばしい。彼を歓迎する。だが、その場が厨川である必要はないし、あるべきでもない。」
私と公の別を守衡は説く。
「オレも・・・ね。預名方はさすがによくお理解りになるのね。」
「――そういう言い方はなさらぬ方がよろしい。」
おおよそ彼女らしからぬ嫌味たらしい口調であったのを、静かにたしなめられて有夏はカッと頬を染めて視線を外した。
「理解る訳ではない。ただ考えてみるだけだ。普通に、だれもがそうするように、」
「それはッ、あなたが風斗に近いから――会ってもらえるから言えるのよ! 私は・・・私たちにはもう風斗を想うことしかできない!!」
有夏はきつく唇を噛んだ。
「我ら闇衛の自業自得だと、あなたはお思いかも知れないけれど――私たちは風斗を思って・・・ただ・・・!」
「・・・そうでしょうとも。」
感情が溢れて絶句した有夏に、守衡はあわれみにも近い表情で応じた。
事情の不明らない経清には、いまひとつ把握しかねる応酬であったが、内容以前の、その会話する二人の関係も不可解だ。
守衡は空里の家臣だと認識していたのだが、空里の妹――主家の姫である有夏に対等の口をきいている。「風斗」の「預名方」なる存在は、それほど立場が高いのだろうか?
「――せっかく足を運んでもらったが、これより先には通すわけには参らぬ。」
理解ってもらいたい、と軽く頭を下げられ、勿論、と経清は頷いた。
「私は亘理に所領を拝領した。」
「そうか。だが訪えぬな。」
彼らが自分に此処を通さぬように、自分も彼らを招くことはできぬ。
いかな縁が自分たちをつないでいても、どうにもならぬ、否、してはならぬことがある。
「・・・ああ、」
何もしらずに出会ったあの頃と同じようにはいられない。こうして向き合っていても、肩書きが、立場が――見えない壁が互いを厳然と隔てている。
一陣の風が彼らに吹き寄せ、そして、はるかへ・・・はるかへと吹き去っていった。