第12話 不義の代償はあまりに高く
かくして、湖畔の街での日々が終わり、カラフと王妃は『日常』へと帰還した。
カラフは職務に対して、以前よりも遥かに真摯な姿勢で取り組むようになった。事あるごとに『明星』の二つ名で呼ばれ、意味なく誉めそやされることも、さして気にならなくなった。
職務中に王妃のそばに寄ることがあっても、決して視線を向けなかった。王妃からの視線を感じることもなかった。
王との夫婦関係が軟化したとの噂はついぞ聞かなかったが、まとう雰囲気が柔らかくなったと侍女たちが話しているのを耳にした。
これでいいのだろう。急激に態度を変えては、かえって怪しい。凍り付いていた夫婦の時間を、ゆっくりと溶かしていけばいい。
しかし、カラフが心穏やかでいられたのは、秋の半ばまでだった。
王妃懐妊。
王国中を沸かすその吉報は、カラフにとって手放しで喜べることではなかった。
時期からして、まさか自分の子ではあるまいな、と疑わずにいられなかった。いや、王妃は事が済んだあと、入念に身を清めていると言っていたし、さすがに王の子だろう。
しかしもし、生まれてきた子がカラフと同じ、金色の髪を具えていたら?
王国民の多くは黒髪だが、金髪の者は皆無というわけではないし、王妃の縁者に異国人がいなかったとも限らない。
だがタイミングが悪い。王妃と共に静養地で過ごしたカラフが疑われるのは必至。王妃と密会するために、いささか不自然な行動を取ったこともあった。
カラフに出来ることは、動揺を表に出さぬことだけ。苦悩をあらわにして、周囲に気取られてはいけない。万が一のとき、白々しく『身に覚えがありません』と答えられるよう備えておかなくてはならない。
されど、精神の負担は確実に身体を蝕む。
胃痛にのたうつ時間が増えた頃、この上ない悪報がもたらされた。
王妃の自殺未遂。
服毒し、一命を取りとめたが、腹の子は助からなかった。
挙げ句、毒の後遺症か、王妃はすっかり抜け殻のようになってしまったという。
それを聞いたとき、まっさきにカラフの胸に浮かんだのは、『安堵の念』だった。
王妃の命が助かったことによるものではない。不義の証拠が消滅したことによる安心感。
それを自覚した瞬間、自己嫌悪に胸が潰れそうになった。
心から愛しいと執着し、何度も情を交わし、忠義さえ誓った女の流産と気病みを喜ぶなんて、なんと見下げ果てた男だろう。
侍女に金を握らせて、王妃の様子を見に行こうか。
いや、それはあまりに危険だ。人の口に戸は立てられぬ。
ならば、マルゴならどうだろう。彼女なら、一も二もなく王妃の元へ案内してくれるに違いない。
しかし、マルゴは王妃の看病に忙殺されているのか、城内で姿を見ることはなかった。
――どうして命を絶とうとしたのです、エレイン。『王妃』として生きて行くのではなかったのですか。
やはりカラフが忘れられず、王と向き合うことができなかったのだろうか。
はたまた、胎児が不義の子である可能性を案じたのか。
まだ確定したわけではないのに、どうして……。
もしかすると、『女の勘』のようなものが働き、王の子ではないことを確信したのかもしれない。
やがてカラフも、それを確信する羽目になった。
王妃がしたためた遺書の内容が、城勤めの者たちの間に出回ったのだ。
<私はもう役目を果たすことができません。あなたの子を連れて行くことをお許しください>
ただそれだけ、記されていたらしい。
その遺書は、カラフに宛てたものであることは間違いなかった。
決して存在を許されぬ子を身籠ってしまったエレインは、我が子と共に命を絶つことを決意した。なんと痛ましいことだろう。
しかも、その原因はカラフにある。
カラフの心はいまだかつてないほどに荒れ狂った。
それでも、王のそばに控えるときも、民衆の前に立つときも、『明星の騎士』としての仮面をかぶり続けた。
それが、王妃との約束だったから。
──嘘をつくな、明星の騎士。
心のどこかから昏い声が響く。
自己保身を第一に考える、お前の浅ましい部分がそうさせたのだ。
お前は、明星の騎士として生きる以外のすべを知らないから。
***
半年後、王はエレインとの離婚を決断した。
エレインは心を病んだまま回復の兆しをみせなかったようだから、仕方のないことだろう。故郷で療養を続けることになり、人知れず王城から去って行った。
カラフにできることはなにもなかった。なぜなら、カラフもまた病んでいたから。
食事が喉を通らなくなり、とうとう血を吐くようになったカラフは、休養を命じられ、王都近郊に住む姉のもとに身を寄せていた。
最初の頃は、ほとんど床から起き上がれず、このままやせ細って死ぬのだと思った。主君を裏切り、不義密通を重ね、一人の女性を不幸へ追いやった罰が下ったのだろうと。
だが、カラフの肉体は、貪欲に生きようとしていた。やがて食欲が戻り、以前ほどとはいかないまでも身体が動かせるようになった。
このままなにもかも忘れて、元の生活に戻ろうかとさえ思った。
そんなある日、妙に上機嫌の姉がカラフへ話しかけてきた。
「国王陛下が、新しいお妃さまをお迎えになるそうよ」
「それはおめでたいことで」
カラフは笑顔の仮面をかぶって答えた。王が新しい妃を迎えるのは当然のことだし、どのような女が王妃になろうが、カラフには興味がない。
「その女性のことは、あなたも知っているのではない? 副騎士団長の末の妹ですって」
姉の言葉に、カラフはわずかに驚いたのち、内心で副騎士団長へ祝辞を送った。王家と姻戚になるなんて、まことに幸運なことではないか。もしかすると近々、騎士団長の首が挿げ替わるかもしれない。
「あの御方に妹が三人もおられることは知っていますが、面識はありません」
カラフが答えると、姉は「あら、そうなの」と首をかしげ、続ける。
「なんでも、前王妃の侍女として仕えていた女性らしいわ。お名前は、マルゴというそうよ」
「……は?」
カラフは己の耳を疑った。姉を問い質そうと口を開いたが、舌が凍りついたかのように動かず、一言たりとも発することができなかった。気付けば、全身が氷のように冷えている。
姉はカラフの異変に気付いた様子もなく、たいそう下品な笑みを浮かべ、手をひらひらさせながら続けた。
「おめでたい話なんだけどねぇ……。みんな噂しているのよ。前王妃様のいらしたときから関係があったのかしら、なんて」




