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現実 担当:べいっち

「――っは」


 突如視界が明るくなる。

 早い呼吸で空気を取り込むと、煙の匂い、(すす)の味がした。


「ここ、は?」


 右に向こうとすると髪の毛がコンクリートに擦れる音がする。


 どうやら壁にもたれかかって寝ていたらしい。随分と嫌な夢ばかり見ていた気がするが、気のせいだろう。


 なぜか頭がかち割れそうなほど痛いのがとても気になるが、なんなんだこの状況――。


「――ァア? 俺は⋯⋯誰だ?」


 視界に映るのは薄暗い路地で、こんな場所に来た覚えがない。帰る家はどこなのか、そもそも家があるのかもわからない。ポケットに手を突っ込んでみたが、金もなかった。


「ハッ、無一文で記憶もねぇ。頭の痛みは持病持ちか? それならそのうち死ぬかもな⋯⋯。ア? なんだこれ」


 探っていたポケットから錠剤の薬が出てきた。

 なんの薬だかさっぱりわからないし記憶にない。だが頭が痛いので頭痛薬かなんかだろう。


 俺はなんの疑いもなく錠剤を口に入れ、唾で飲み込んだ。


「うッ、なんだこれ。⋯⋯苦いな」


 錠剤が通っていった喉に、刺すような苦味が襲う。唾ではなく、水で飲むべきだったのかもしれない。


「ッたくなんなんだよ⋯⋯、俺はどうすりゃいいってんだ。誰かに助けを求めればいいのか?」


 記憶を辿るが、断片的な幼少期の記憶しか見当たらない。


 ――ただ、その記憶と現在とでは大きな変化があることはわかった。


 ここに居ても仕方がないので立ち上がる。壁にもたれかかって寝ていたせいか、背中や腰が音を鳴らして痛んだ。


 薄暗いジメジメした路地から、明るい方へと脚を動かすと、ものの数秒で視界が開けた。


「⋯⋯騒がしいわけだ」


 あちこちに見える煙突に、忙しなく動く歯車。その煙突から出る白い煙が青空を曇らせ、太陽が見え隠れしている。


「こんな景色、記憶にねェんだがな」


 記憶にあるのは青空と緑溢れる自然、温かみのある木材建築であって、見上げるほど高い建物も、働くロボットも記憶にない。


 ここは別の街なのか、それとも記憶の中の町が発展した結果なのか。


「どっちにせよロクな場所じゃなさそうだ」


 煙臭く見通しも悪い。

 この煙臭さでマスクをしていない通行人はどうかと思うが、恐らくこの景色が当たり前で、これが日常なのだろう。


「うッ⋯⋯」


 頭がかち割れそうな痛みは引くことなく、体がよろめいて建物にもたれかかった。

 コンクリートの建物は肌を刺すように冷たく、薄い服を挟んで冷気が伝わってくる。


 まだ眠気が覚めないのか、霧がかかったように視界がぼやけ、それを払うため強く目をつむり瞬きをした。


『ねぇ見てよあの人⋯⋯』

『こんなところでなにしてるんだろ⋯⋯?』


 こちらを見てなにか言ってくる通行人から目を逸らす。


 ――物珍しそうに見るんじゃねェ。俺は至って『普通』だ。


 そう思っていながらも目線は建物の方へ逸らしてしまう。

 もたれかかったまま歩くと、コンクリートの建物がガラスに変わり、視界に醜い男の姿が映った。


「⋯⋯ロクな人生送ってないみたいだな」


 顔はシワだらけで、よく見ると(くま)も酷い。髭は生えっぱなしで服はほつれ、ところどころ破れている。


 それが、今の姿らしい。


 記憶にある俺は、もっと愛らしくて撫でたくなるような可愛さがあったはずなんだがな。


 ――まァ過去のことなんざどうでもいいのさ。今を楽しめればそれで充分。


 記憶をなくしているのに随分と冷静でいられるものだと自分でも思う。

 恐らく忘れて焦るほどの思い出も、肩書きも、地位も、金も。俺にはなにもないんだろう。


「ニャーン?」

「ア? なんだよ」


 建物にもたれかかっている俺の前に、一匹の黒猫がやってきた。


 深緋(こきひ)色の瞳以外、全てが黒い。

 まさに黒猫というのが相応しい黒猫が、なにか言いたげな様子で見つめてくる。


 だが生憎俺には猫の気持ちがわからないし、なにを言っているのかもわからない。


「どっかで見たことある気もしなくもねェが。なんだよ、ってオイ!」


 コイツ、俺の話を無視してどっか行きやがった。

 オイ待てよ、話は終わってねェだろが!


 俺は無礼な黒猫を教育するため、重い足を動かして必死に追いかけた。


 するとソイツは路地に入り、ちりとりに入った餌を食べていた。


「誰かがここで餌をやってるってことか。⋯⋯んなこたァどうだってイイんだよ」


 俺は黒猫の餌が入っていたちりとりを蹴って威嚇する。


「オイ、なんか言ってみろよ」


 黒猫は逃げることなく俺を見つめてくる。

 睨み合いがしばらく続き、次に口を開いたのは――。


『へぇ、どんな餌をくれるかと思って待ってたのに、なにもくれないんだ?』

「ッ!?」


 黒猫が、喋った⋯⋯!?

 機械で変えられたような声で聞こえた黒猫の言葉は、確かに言葉で、意味がわかる。


 驚きで後退りする俺に、黒猫はさらに言葉を発した。


『しかも暴言吐いて、餌箱(ちりとり)も蹴って? 僕の食事を邪魔するだけ邪魔して謝らない』


 オイオイ、意味わかんねーよ⋯⋯。記憶の中の情報には猫が喋るなんて情報ねェって。なんだ? ア? 時が進むと猫は喋れるようになるってか? いやおかしいだろって。


『なに? 怖いんだ? さっきまで怒りでいっぱいだったのに、今は恐怖? 情緒不安定すぎじゃない?』


 違う、俺の気持ちを知ったかのように接するんじゃねェ。俺は今猛烈に頭が痛ェんだよ。恐怖なんて感じてねェよクソ猫が。


『心の中ではお喋りみたいだけど、実際声に出してるのは言葉にもなってないただの発狂⋯⋯――自覚ないの?』


 ァ⋯⋯?

 発狂? なに言ってんだコイツ。俺は発狂なんて――。


「う、あぁ、あぁああぁっ!」

『ふふっ、自分の感情や発している言葉に自覚がないなんて変わってるね』


 ち、違う。この声は俺の声じゃない。違う、俺じゃない。オレ、俺は。これは、俺じゃ――。


「ど、どうなさいましたか!?」

『あっ! いつもご飯くれる豚骨ラーメンの店主さんだ』

「はっ、あ、うああぁぁ? あ! あぁ!?」


 やめろやめろッ、そんな、そんな目で見てくるんじゃねェ!


 俺はただ金に困ってただけで、悪気はねぇんだよ! もう働くのは懲り懲りなんだ! この前宝石を盗んだのだって、借りた金を返すためにしたことだ! 借金返すために借金するのは違うって思ったからなァ! アァ!? 警察!? なに通報しようとしてんだよオイ! 俺は至って普通だろうが! さっき飲んだ薬!? あれはどうしようもない人生に疲れて手ェ出したヤクだ! あれがないと生きていけないからなァ――!


 ――――――――――――――――――


 彼は豚骨ラーメンの店主を振り払い、咄嗟に逃げ出した。


 豚骨ラーメンの店主は大丈夫なのか聞いていただけで、警察を呼ぼうともしていないし、さっきの薬はなんだとも言っていない。

 そして通行人もなにも喋っていない。


 彼の頭に蘇った記憶と、ちぐはぐな思考、言動。


 全てはさっき飲んだ薬物の効果であり、――幻聴だ。


 ――――――――――――――――――


 彼の名は「江奴(えぬ) (こう)」、年齢は三十七歳。


 蒸気機関に携わる仕事をしていた父がいたが、孝が十二歳のときに過労による体調不良で他界。

 父の死と向き合うことができなかった母はうつ病になり、日々おかしくなっていく母から逃げるように十四歳で家出をする。


 日雇いや深夜のアルバイトでなんとかやりくりしていたが、父の働いていた会社に『興味』をもち、十六歳で都市アルブロムに引っ越す。


「なんだよあれ⋯⋯」


 蒸気機関車に揺られ、車窓からアルブロムを眺めると、街の上に『黒煙』が見えた。

 まるで魔界のような、魔王に支配されているような禍々しさを感じる。


 蒸気機関車を降りてからは建物の大きさや建材の違いに驚き、機械の音で常に騒がしく落ち着かない。


 そわそわしながら父が働いていた会社へ向かうと、通行人がマスクをして歩いていることに気付いた。

 この街で生きていく上でマスクをするのは重要なことなのだと学び、早速ドラックストアでマスクを買って付けてみた。


 が、息が苦しくてすぐに外してしまった。


「俺はこの街でやっていけるのか⋯⋯?」


 上ばかり見ていては田舎者だと思われると思い、必死に下を向いて周りに馴染もうとする。


(建物だけじゃなく地面まで⋯⋯!?)


 下を向いたが、地面が赤レンガで引き詰められていて驚く。


 そしてもっと驚いたのは、赤レンガが黒煙の影響で赤黒くなっていたことだ。


 街の建物はほとんど赤レンガでてきているが、どれも雨に濡れた跡がある。その跡がすべて、黒く汚れているのだ。


(この街は黒い雨が降るってことかよ。それじゃあろくにシャワーも浴びれねぇな)


 今まで衣食住が確保されていない孝にとって、雨は貴重な水源だった。それが汚れているとなると、水を確保するのに苦労するだろう。


 地図を見ながら父が働いていた会社まで歩き続け、近くまで来た。

 が、それらしき建物が見当たらない。


 下ばかり見て歩いていた結果、入り組んだ道に足を踏み入れてしまったようだ。


 ――そしてこのアルブロムでのみ、許されていることがある。


「っ!? なんで銃を向けられなきゃならねぇんだよ!」


 都心部では蒸気機関の発展により、都市開発が急激に進んでいた。


 ――と同時に武器の開発も進んでおり、一般人の武器の所持、所有が許されていた。


 アルブロムに来て二時間後。


「あぁん!? さっさと金出せば済む話だろうがよぉ!」

「だからないって言ってるだろ!?」

「金のない人間がこんな場所居れるかっつーの!」

「お前みたいな人間がこんな場所に居るじゃねぇか!」


 道に迷った結果、迷路のように入り組んだ路地に入ってしまい、そこで運悪くチンピラに絡まれてしまった。


 それだけならまだよかったのだが、相手は拳銃を突きつけ、金を要求してくる。

 金もなければ銃もない孝には逃げるという手段しかなく、馴染みのない土地で逃げ回っていた。


(大通りに出ればなんとか⋯⋯!)


 いつ撃たれるかわからない恐怖で足が震えたが、『父の仕事場を見る』までは死ぬわけにはいかない。


「ってめぇいつまで逃げる気だ!」

「⋯⋯」

「返事しろ!」

(返事したら声で位置がバレるからな⋯⋯)


 学習した孝は、建物の中に入って身を潜める。


 建物の中は家具などなく、埃っぽくて蜘蛛の巣があちこちにあった。

 恐らく誰も使っていない廃墟だろう。しばらくここで寝泊まりしてもいいなと思いながら、チンピラの声に意識を集中させる。


 次第にチンピラの声が遠くなり、胸をなでおろして安心していると――。


「きゃっ!?」「わぁ!?」

「っ、おい! そこだな!?」


 廃墟だと思っていたこの建物の中に人がいたらしく、二人同時に驚き、チンピラに居場所がバレてしまった。


 目が合った人物は、深緋色(こきひいろ)の瞳をもつ、藍鉄色(あいてついろ)の髪をした少女だった。


「おっ、女の子!?」

「ってんめぇ!」

「っ、こっち!」


 状況を察した少女は孝の手を掴み、建物の裏口から外へ出る。


 肩につかないほどの艶やかな髪が揺れ、枯れ草色のフレアワンピースがヒラヒラ舞い、孝の心が(くすぐ)られる。


 少女はチンピラと距離をとりつつ、迷路のような路地を曲がりに曲がって走り抜け、巻いたと思えばあっという間に大通りに出た。


「ここまで来たらもう追って来ないはずよ」


 少女は繋いでいた小さい手を離し、深緋(こきひ)色の瞳を光らせ安全を確認する。


「はー⋯⋯ふー⋯⋯あ、ありがとう、ございます」

「ふふっ、いいえ」


 息が上がったままの孝に対し、少女は疲れた様子もなく、涼しげな笑みでそう言った。


 その姿に胸の奥がキュっと絞られ、心がザワつく。心拍数が上がっていく。


 もうチンピラに追いかけられていないのに、なぜ心臓がうるさいのか。


 それは自分が一番よくわかっていて。



(こんなに綺麗な人がこの世に存在するのか⋯⋯)



 危ないところを助けてもらった少女に、笑顔がこの街に似合わないほど綺麗で澄んだ少女に。


 ――孝は至って単純に、一目惚れをした。


「あれ? 大丈夫? おーい?」

「⋯⋯あ、っはい!」


 少女は首を傾げてから「そう?」と言って、


「じゃあ、私はこの辺で」


 と、言い、微笑んで去っていく。


 その姿が煙の中へ消えてしまいそうになるのを見て、


 ――もう会えないかもしれない。それは、嫌だ。


 と、そう思った。

 そう思うと、体は勝手に動くもので――。


「待って!」

「――?」


 孝は大声でそう言って少女の元へ駆け出し、周りの視線が集まる。

 少女は頭にハテナを浮かべながら振り返り、自分のもとへ走って来た孝を首を傾げて見る。


「どうしたの?」

「その、あー⋯⋯」


 家出をしてから泥水を(すす)るような人生を歩んできた。


 チンピラから助けてもらった時点で男のプライドなんてどこかにいった。


「道を⋯⋯」

「道を⋯⋯?」


 どれだけ情けなくても、どれだけ地べたを()っていても。


 すべては行動したもん勝ちだと、生きていて思うから。


「道を、案内してほしい!」


 動けば歯車は回ると、知っているから――。


 少女は孝の必死さを感じ、口元を綻ばせ、「なんだそんなことか」と言うように微笑んだ。


 そして僅かに主張する胸に手を当て、可愛らしさとカッコ良さを兼ね備えた声色で少女は言う。


「私でよければどこへでも」



 ――歯車は動く。

 小さい歯車が大きな歯車を動かし、全体を動かしていくように。


 人生の終わりへと近付くように――


 このときの感情を、「――」は、生涯忘れることはなかった。


 ――――――――――――――――――


 耳を(つんざ)く弾けた音。

 自分でやっといてなんだが、俺はこの音が大嫌いだ。胸がざわついて仕方ない。


「孝くん! 俺はこんなこと望んでないし、『クロエ』だって望んでいない! 今去ってくれるなら俺は君を捕まえたりしないし、通報したりしない!」


 なァ。俺はこの音を聞くのは初めてのはずなんだ。

 構え方も、狙い方も、使い方も。俺の名前を知ってるコイツに会うのも、手に持つコ(・)レ(・)も。


「――クロエ? 誰だそれ? なんでお前は俺の名前を知ってるんだ? なんで俺はお前が憎いんだ? なんで俺はこんなことしてんだ?」


 全てが初めてのはずだ。

 なのにやけに手に馴染んできやがる。


「その手に持つ『ギアナ』を下ろせ! また捕まりたいのか!? 俺を殺したら今度は出てこられないかもしれないぞ!?」


 もう一度、耳を劈く弾けた音が聞こえた。

 俺はなにもしていないのに音が聞こえた。

 つまりは相手が俺に向かって鳴らしたということだ。


「ハッ、どこ狙ってんだよ」

「今日は『大晦日』ってだけで充分なのに、こんな特大イベント重ねてくるから動揺してるんだよ!」


 大晦日? んなもん関係ねェ。

 俺は猛烈にお前が憎い。

 体の奥底で湧き上がる熱が、感情が人になる。自分の中に他人が出来上がる。

 他人は自分を乗っ取るように体を操作し、他人と自分がわからなくなる――。


「俺は孝のことを『仲間』だと思っ――」


 最後にもう一度、耳を劈く弾けた音が聞こえる。

 それと同時に男の声が聞こえなくなった。


「――地獄で待ってろ」


 俺は知らないしやってない。これは俺の意思じゃねェ。


 誰かが俺の体を乗っ取っただけだ――。


 ――――――――――――――――――


 少女は本名を隠し、「クロエ」と呼んでほしいと言う。

 孝は若干の恥ずかしさを感じながら、「孝」と呼ぶよう頼んだ。


 クロエ曰く、父の職場までは三十分ほど歩いたところにあるらしい。

 それまで雑談をしながら、孝はどうしたらクロエと友人になれるのか模索する。


「孝はこの場所に来たくてアルブロムに来たの? 見た感じ都会に憧れて来た十六歳! って感じだけど」

「うっ、⋯⋯大体当たってる」

「十六歳じゃなかった? じゃあ十五歳?」

「いやそっちじゃねぇよ」


 孝の口の悪さが出てしまい、思わず手で口を隠す。


(つい素の口調が出ちまう⋯⋯これじゃあ怖がられても仕方ねぇぞ)


 出鼻をくじかれたというよりは自爆したと表現するほうが正しいだろうか。


 その姿を見たクロエは「私も十六歳だから気にしなくていいよ」と言い、孝は口から手を外した。


「そうだな⋯⋯ほかにアルブロムに来たい理由⋯⋯」


 ほかに理由などないが、真剣に孝えてくれているクロエを見ているとなかなか言い出せない。


 数秒してクロエが閃いた顔でポケットベルトからなにか取り出した。


「もしかして(コレ)目当てだったり?」

「⋯⋯」

「あー⋯⋯表情だけで『違ぇよ』って言われた気がするのは気のせい?」

「気のせいじゃねぇな」


 どうやら口調だけでなく表情の治安も悪いらしい。

 そしてクロエのような少女でさえ銃を所持しているこの街も、随分治安が悪いらしい。


「なぁクロエ。この街って銃をもつのが当たり前なのか?」

「そうね、当たり前かもしれない。毎日銃声が聞こえるし、自己防衛のためには致し方ないって感じでみんなもってる。さっき追いかけてきた人が発砲しなかったのは運がよかったね」

「不幸中の幸いってやつか⋯⋯」


 拳銃を向けられたときに感じた死の感覚が冷めやらぬまま、クロエが手に持つ拳銃に目を向けた。


 黒く光る拳銃は、遊底(スライド)部分や銃把(グリップ)部分に金色の歯車が施されている。


「私の護身用拳銃! 『ギアナ』って言うの。可愛いでしょ?」

「名前つけてんのかよ」

「愛着湧くかなと思って」


 クロエは拳銃を物珍しそうに見る孝を見て「ふふっ」と笑い、拳銃をしまった。


 いい匂いがするパン屋の前を通り、理解できない感性でできた服が飾ってあるショーウインドーを過ぎ、雰囲気のいいカフェを通り過ぎて行く。


 ――父が訪れた店があるかもしれない。

 そう思うとやっと同じ場所に立てている気がして、孝は嬉しくなった。


 クロエとの話も弾み、アルブロムのことやクロエのことを教えてもらったりした。


 クロエがあの建物にいたのは、『黒猫』にマスクを盗られ、追いかけた先があの建物だったからと言う。

 孝はクロエと巡り合わせてくれた黒猫に感謝し、ついでにチンピラにも感謝した。


 そしてあっという間に――。


「さて、目的地はこの場所だよ」


 クロエがそう言いながら指を指した建物が父の職場だ。本当にあっという間に着いた。

 建物は見上げるほど大きく、周りの建物と違いコンクリートでできていた。


「これが親父(おやじ)の――」



「――あれ? クロエじゃないか」

「『ハタ』さん! お久しぶりですね」


 建物から出てきた人物がクロエに話しかけ、孝の感動する時間を邪魔してくる。


 クロエからハタと呼ばれた男は長身でスーツを着こなし、髭を一切生やさない清潔感のある大人だった。


「仕事はどうだ? そろそろ昇給するころじゃないか?」

「昇給はわからないですけど、毎日パト⋯⋯じゃなくて、()()頑張ってます!」


 孝は話に入れず、肩身が狭くなる。

 多少の疎外感を感じていると、


「その隣は⋯⋯来客かな?」


 ハタに喋りかけられ、ドキリとして目を逸らす。


 建物から出てきたということは、この会社の社員だろう。

 そしてその人物と知り合いのクロエも――。


「ここに用があるって言うから案内してきたの。私もここに戻らなきゃいけなかったし、ウィンウィンってやつね」


 両手でピースをつくり、それを繋げてダブリューの文字にしてクロエは言う。

 真顔で可愛い仕草をするギャップにときめく孝だったが、それよりも気になることがあった。


「⋯⋯ふ、二人ともここで働いてるってことかよ」

「そうね」「そうだね」


 二人の返事を聞き、孝は開いた口が塞がらなくなる。

 その様子を見て、クロエは申し訳なさそうな表情で口を開いた。


「えっと、勘違いしてるかもしれないから言わせてもらうけど、この会社は孝のお父さんが働いていた会社ではないの」

「⋯⋯え?」


 一瞬なにを言っているのかわからなくなる。

 が、次第に意味がわかって、孝のジト目が大きく見開いた。


「あの会社は二年前に倒産したの」


 今まで緩んでいた表情筋が強張るように、孝は驚きが隠せない。


 父が亡くなったのは四年前で、家を出たのは二年前だ。家にいるときなら情報が入ってくるため、おそらく家を出てから倒産したのだろう。


 ハタはクロエの言葉で状況を察し、どこかに電話をかけ始めた。


「ここは確かにお父さんが働いていた会社があった場所には間違いないの。でも今は違って⋯⋯だからえっと、その――」

「ありがとうクロエ。少し驚いたがなんともない。ここまでありがとな」


 孝は父の会社に来てなにがしたかったのか。



 至って単純、殴りこもうと思っていた。



 無断で会社に入って父の名前を叫び、その子どもだとワガママに主張して。


『人殺し! 親父を返せ! 健康な母さんを返せ!』


 と、そう言ってやるつもりだった。問題を起こして、警察が来て、家に帰されればいいと思っていた。


「ねぇハタさん、孝は家出してきて身寄りがなくて⋯⋯」

「そうですね。はい、できればその方向で――」

「こんなときに誰と喋ってるのよ⋯⋯」


 だができなくなってしまった。

 やるせない気持ちを吐き出す手段が、なくなってしまった。


「これからどうするの? 泊まる場所が決まってないなら私の家に来ても――」

「それはさすがに危ないんじゃないか? 俺の素性は知らないだろ?」

「でも⋯⋯」


 出会って僅かなのに、クロエはここまで助けようとしてくれる。

 クロエの前世は女神だろう。容姿も神々しく見えてきた。考えれば考えるほど、クロエが女神に見えてくる。


 そんなクロエと自分とでは釣り合わない。圧倒的に力不足だ。


「⋯⋯仕事忙しそうだし、俺はこの辺で帰るよ」


 そう言って、孝は建物に背を向けた。

 名残惜しさと未練を残し、去って行こうとしたその時――。


「あー待って! 今話つけたから!」

「ほんとっ!?」「っ!?」


 ハタが孝の腕を掴み、引き止める。

 咄嗟に振り返ると、ハタが爽やかな顔で手を差し伸べていた。


「ようこそ『エスポーレ』へ。今日からここで働いてもらうよ」

「はっ!?」「さすがハタさん!」


 業務がなにかを教えられることなく、孝の意見を聞くことなく、一本の電話で働き先が決定した。


 喜ぶクロエが視界の端に映りながら、差し伸べられた手から目を離せない。


 孝は掴まれた手と差し伸べられた手を振り払い、本心とは違う言葉が口走る。


「俺は働きたいだなんて一度も言ってねぇ! なに勝手に決めてんだよ!」

「あれ? ダメだったかな? 見る限り家出少年で、身寄りもないって言ってたから。こんなに可愛いクロエと一緒に仕事ができて、衣食住に困らず生活できるのは、孝くんにとって悪い話じゃないはずだよ」

「か、可愛いだなんて⋯⋯」

「そこ照れるのかよ⋯⋯」


 わざとらしくハタが咳払いをし、真剣な眼差しで二人を見る。


「今決めろとは言わない。だが一週間以内に返事が欲しい。仕事の詳細は教えられないが、立場はクロエの補佐になる。基本二人行動だ」


 ハタの言葉の裏に隠された意味をクロエは理解し、孝はクロエと長くいられるというところに魅力を感じていた。


「やるかやらないか決まったらここに来てくれ。ハタに会いに来たと言えば通してもらえるだろうから」


 目標や目的を失い、次に目指すものも失いかけた。

 でもクロエという存在を追いかけたい気持ちは、自分の気持ちは、尊重するべきものだと思う。


「それじゃあ、いい返事がもらえることを祈ってるよ」


「――待ってくれ」


 なにより十六歳で死を迎えるのは、早すぎると思うから。


「手のひらを返すようで申し訳ないが、その仕事、やらせてくれないか」

「「――!」」


 人差し指一本でこめかみを()きながら、上目遣いで長身のハタに孝が言う。


 ハタとクロエは驚いた表情で孝を見たが、すぐに柔らかい表情になり、二人は孝に手を差し伸べた。


「早く決めてくれて嬉しいよ」

「ようこそエスポーレへ!」


 孝は太陽の見えない空を見てから二人の手を握る。

 二人の手は温かく、心まで温かくなった気がした――。


 ――――――――――――――――――


 騒がしくなる方から逃げるように歩いていると、大切な記憶を思い出した。


 思い出したのはきっと、あの(ハタ)に会ったからだろう。

 まぁ今はもう、道端に横たわって冷たくなっているだろうが――。


「クロエと出会った日の記憶⋯⋯」


 俺が目を覚ましたこの街はアルブロムという場所で、今までの記憶はアルブロムに来る前の記憶だ。


 あの日から俺はクロエの補佐として雇われ、衣食住に困ることなく生活できた。

 なにより好きなクロエのそばで働けるのが嬉しくて、毎日が幸せだったし、休みの日は魂が抜けたように暇だった。


 伏せられていた仕事内容は、俺にとって好都合なものだった。


『業務内容は街のパトロールと、街の安全を守ること。エスポーレは警察官だとバレないための隠語なんだ』


 家出をした俺は、そういうヤツらのいる場所がわかるようになっていた。全く不本意だがな。


 ウッ⋯⋯頭が痛ェ。また記憶が流れてくる。


『ねぇ孝。どうしたらハタさんに近付けると思う?』


 アァ、クロエ⋯⋯そうだ、そうだった。



 ――全ての記憶を、思い出したよ。



 俺はクロエと出会ってから、どうしようもないほどクロエのことが好きになっていった。


 でもなァ。一緒にいる時間が長くなれば長くなるほど、クロエは別の人が好きだと気付くんだよ。


 俺はクロエに異性として見られることはなかった。

 いつも相談に乗るばかりで、視線の先にいるのは俺じゃない。


 俺は仲のいい男友達、仕事仲間程度にしか見られちゃいなかった。


『⋯⋯ゲーム好きだって言ってたから誘ってみたらいいんじゃねぇか?』


 ⋯⋯嫌いだと言っていたことをわざと教えて嫌われてしまえばいいと思ったこともある。


『ゲーム好きなんだ⋯⋯ありがとう! 今度誘ってみるね』


 でもそれはできなかった。


 だってよォ、クロエがハタについてなにか情報を得るたび、嬉しそうにニコニコして機嫌がよくなるんだよ。

 それがたまらなく可愛くて仕方がねェんだ。


 ――クロエが幸せならそれでいいんじゃないか。


 そう思うとなにもできなくなっちまった。

 クロエとハタの仲は良くなる一方で、クロエはハタに、告白をした。



『私、ハタさんのことが好きです。付き合ってください』



 俺が提案したロケーションで、俺がクロエに言いたいことを、クロエはハタに言った。

 いっその事キッパリ振られて俺に慰められればいいと思った。



『ありがとう。でも俺は――クロエに対して恋愛感情を抱いたことはない。ごめん』



 でも、ホントに振られるなんて、思わねェだろ。


 振られたクロエは泣きながら俺のところにやって来て、『子どもとしてしか見られてなかった。私が子どもだからっ!』って何度も言ってたよな。


 確かに当時俺らは十七歳で、ハタは二十八歳だ。十一も差があれば子どもとして見られるのも無理はないのかもしれねェ。


 でもなァ。クロエはハタに振り向いてもらえるように必死に努力してたんだよ。


 少しでも大人っぽく見られたいからって肩につかないくらいだった髪を伸ばしてみたり、慣れないヒールを履いてみたり、 体のラインが強調される服を着てみたり。


 口調も子どもっぽくならないようにしたり、ボディータッチを多くしてみたり。


 全部試して、全部反応はよかったと思う。

 ハタの反応を見てクロエは喜んでたし、俺はハタがクロエのことを好きだと思っていたから、その度になんともいえない気持ちになった。


 なのにアイツはクロエを振った。


 俺は報われない気持ちがどんどん膨らんでく一方で、クロエまで報われなくなって辛かった。



 そしてクロエが笑わなくなったことが、一番、辛かった。



 眼から光がなくなったみたいに虚ろな目をしていて、よく笑ってはしゃいでいたころが嘘のように笑わなくなった。


 俺と喋っていてもどこか上の空。

 今のクロエならなにを言っても軽く受け流すんじゃないかと思うほど。



 そんなとき、俺がずっと抱えてきた罪について、クロエに質問したんだ。



『なぁクロエ。俺がもし、万引き常習犯だったらどうする?』

『万引き常習犯⋯⋯そうなの?』

『例えばの話だよ、例えばの!』


 俺はアルブロムに来る前から万引き常習犯だった。

 仕事は長く続かねェし金も食料もねェ。そうなりゃ盗むしかなかった。


 それがアルブロムに来て、仕事をもらって生活にも困らなくなった。


 特に俺がやってる仕事は警察の仕事だ。バレたら即捕まるだろう。


 それなのに、ダメだと知っているのに。



 俺の盗み癖はなおらなかった――。



 そのうちバレて、クロエが捕まえてくれると思ってたのによォ⋯⋯全然捕まらねェんだ。


 嘘だと言った本当の話にさ、クロエはいつもみたいに「そうだな⋯⋯」って悩んでからこう言うんだ。


『なんで万引きしてるのさ、って笑うかな』って。


 微笑みながらそう言ったクロエを見て、俺は安心しちまったんだ。



 ――バレてもクロエが笑ってくれる。それならこのままでいよう。



 でもそれがダメだった。


『ねぇ孝⋯⋯本当に万引きしてるでしょ』


 いつも通り二人でパトロールをしてたら、突然。クロエからそう聞かれた。

 思わず立ち止まって、護身用に買った拳銃に右手をやった記憶がある。


『無言は肯定と一緒⋯⋯やっぱりハタさんの目は誤魔化せないのね』

『ハタが俺の万引きを見抜いたのか?』

『最初に会ったときからなにか怪しいと思ってたみたい。エスポーレに招いたのも、手元に置いて観察したかったからだって』


 ⋯⋯⋯⋯歯車が暴走したのは、俺がクロエに会ったからだ。


 俺がクロエと出会わなければ。

 ――今頃、クロエもハタも平和に暮らしてたはずなんだよ。


『ありがと――』


 チンピラに絡まれたとき撃たれて死んでいれば、こんなことにはならなかったかもな。


 こんな――。


「クロエが『死ぬ』なんてことには、ならなかったかもな」


 ――――――――――――――――――


 クロエは一瞬で孝に接近し、孝の護身用拳銃を右手で引き抜いて自分のこめかみに銃口を向けた。


「っなにしてんだよ!」


 孝は咄嗟に取り返そうとするが、左手で握られたギアナを向けてくるため動けない。


「孝の秘密を知れたから、私の秘密も知ってもらおうかと思って」


 笑みのない顔でそう言い、孝と距離をとる。


 争うつもりがない孝は、両手を上に上げて降参のポーズをした。


「あのね、私⋯⋯ハタさんに振られてからずっと、脅されてるの」

「っ!?」


 さっきまで孝を問い詰めていたクロエが、そう言い出した。

 陶器のような頬を伝って、涙が地面へ落ちていく。


「身寄りを失って路地暮らしをしてた私を拾って、仕事まで与えてくれたハタさんを裏切ることはできない。でも私はもう嫌なの、耐えきれない⋯⋯」

「⋯⋯」


 次第に大粒になっていく涙が、孝にはクロエの苦痛を表しているように見えた。


 なにを脅されているのか、なにを要求されているのか、どうして相談してくれなかったのか。

 色々聞きたいことはあったが、まずは身の安全を確保するのが先だと考え、質問は後回しにする。


「⋯⋯遺書を書いたの。そこにはハタさんがこれまでしてきた事が書いてあるわ。直接私が警察に届出を出してもきっと動いてくれないから。ほら、ハタさんって人望が厚くて忖度したりされたりする人だから」


 ボロボロと涙を流しながらも、声のトーンは静かなまま。でもその声は震えていて、感情を押し殺しているように見えた。


「きっと、――私が死にでもしないと、警察(エスポーレ)は動かないのよ」


 そう言い、クロエはこめかみに当てていた孝の拳銃を強く握る。


「ちょ、ちょっと待て――」

「待たないわ。今私が引き金を引いたら、発砲音に気がついた仲間が駆けつけてくるわよ?」

「くっ⋯⋯」


 孝はクロエを殺したくないし、死んでほしくもない。

 ましてやこれ以上罪が増えるのは御免だ。今まで行ってきた万引きだけでも充分罪は重い。


 自分は罪を犯さず、クロエが死んでしまうことも避ける方法。この場を穏便にやり過ごす方法を、考え抜かなければ。


「私の他にもハタさんに助けられてきた子がいる。孝だってそのうちの一人よ。他の子も同じように『お金』を請求されてて⋯⋯でも誰も動けない。誰かが終止符を打たないといけないの!」


 そう訴える瞳は揺れていて、孝には助けを求めているかのように見えた。


 ⋯⋯どこかで見覚えのある光景。

 暗い部屋の中、薄らと見えた母の顔と重なって見える。


(俺は⋯⋯俺はあのとき、一人で逃げたんだ)


 鬱で自暴自棄になった母を置き去りに逃げてしまった罪悪感と、行動しなければ解消されない(しこ)り。見ないように蓋をしてきたものを、不意に思い出してしまった。


(でもあのときと似てるってことは⋯⋯)


 一つの案が浮かんだ孝は、クロエに銃を構えられたまま近づいていく。



 一歩、動揺するクロエは孝を撃つことができない。

 二歩、銃口が胸に当たる。

 三歩、孝は自分に向けられたギアナを奪い、クロエを抱きしめた。



「⋯⋯俺と一緒に、この街を出よう」

「なっ――」


 抱きしめられた反動でクロエの肩が強張る。


「死ななくていい。クロエが死んだら俺は悲しいんだ。俺が悲しいんだよ! だから逃げて一緒に暮らそう! 俺が頑張って守るから!」

「⋯⋯」


 クロエはこめかみに当てていた拳銃を持ったまま、腕を下げる。

 クロエの表情は孝には見えない。


 暫く沈黙が続いた。


「⋯⋯⋯⋯いつまでこうしているの?」

「あぁ、ごめん」


 慌てて離れる孝。

 恐る恐るクロエの顔を見ようとするが、俯いていて表情がわからない。


「⋯⋯逃げるって選択肢を提案されるとは思ってなかった。もう犯罪を犯してる孝なら、一緒にハタさんを殺そうとか言うのかと思ってた」

「そこまで野蛮じゃねぇ」


 クロエは袖で涙を拭き、笑みのない顔ではなく、微笑んだ表情で言った。


「守る、か⋯⋯」


 ――乾いた風が吹く。

 クロエのワンピースが揺れ、暗い路地の中、長くなった髪が艶やかになびいた。


「私、守ってもらうほどか弱くないけど?」

「はっ。よく言うぜ」


 クロエはギアナを人差し指で回転しながらそう言うが、孝には関係なかった。


「一回も腕相撲で俺に勝ったことないだろ」

「そ、それとこれは別よっ!」

「ホントかぁ〜?」

「たっ、確かに男女の体格差はあるとは思うけど⋯⋯私にはギアナがあるから!」


 久しぶりに表情豊かなクロエを引き出すことができ、孝は嬉しくなる。


(好きだから傷付けたかないし失いたくない。って、わからねぇものかねぇ⋯⋯)


 わかっていてこの素振りならば小悪魔もいいところだ。

 とはいえ小悪魔なクロエもいいなと思ってしまうほど、孝はクロエにぞっこんだが。


「⋯⋯この臭い」


 風に乗って、嗅ぎなれた臭いがする。

 あまりいい匂いとは言えない、機械にさす油の臭いだ。


 そしてこの臭いは天気を知らせる。


「雨、降るみたいだな」

「みたいね」


 建物に囲まれた路地から空を見上げるが、いつも通りの曇り模様。

 実際には煙がほとんどだろうが、太陽はずっと見え隠れしている。


「早く帰って荷支度済まさなきゃね」

「⋯⋯そうだな」


 ――それも明日までだと思いながらクロエの隣を歩く。


 迷路のようで迷ってばかりだった路地も、今では目を瞑っていても歩けるだろう。

 それほど歩き慣れた道を、明日のことを話しながら歩いていく。


 あっという間にクロエの家に着き、話も『明日朝六時にクロエの家に集合。始発の蒸気機関車に乗って東に向かう』ことでまとまった。


「じゃあ明日迎えにくるから、それまでハタに悟られんなよ。家から出るのもやめとけ」

「うん、わかった」


「じゃあな」と言って孝は後ろを向く。


 その姿を見て、クロエは孝の服を摘んで引き留めた。



「ありがと――私が言ってほしいことを言ってくれて。明日からもよろしくね」



 そう『言い残し』、クロエは手を離す。

 孝は振り返ることなく、「おう」と言って帰っていった。


 少し浮き足立つ孝の心と、希望が見えたクロエ。


 家出をした少年と、親を失い路地暮らしをしていた少女。

 二人なら、きっとどこへ行っても生きていける――。


 ――――――――――――――――――


 俺は十六歳で死のうと思ってた。

 でもクロエと出会ってまだ早すぎると思い、踏みとどまった。


 なぁ、クロエ。


「なんで⋯⋯ッ」


 俺の言いつけ、ちゃんと守ったのか?


「くろ、え⋯⋯」


 クロエはきっと悪くない。


「なんで、なん、で」


 荷物がまとめられてない、干したままの服。

 荒れた痕跡のない部屋。

 机に置かれたポケットベルトにはギアナが入ったまま――。



 ――机に置いてあった『遺書』が、見当たらない。



「あ、ぁ。クロエ⋯⋯! クロエ!」



 玄関にもたれかかるように『死に倒れているクロエ』と、消えた『遺書』。



 それだけで状況がわかってしまう。


 クロエはアイツに、



 ――ハタに、殺されたんだと。



 そして俺は、


「江奴 孝。――窃盗、殺人(・・)容疑の罪で逮捕する」

「うッ、あぁあああァ!!!」


 濡れ衣を着せられることになるんだと――。


 ――――――――――――――――――


 捕まってからはなにを言っても聞いてもらえず、罪を身と認めろの一点張り。


 窃盗の罪と、殺人の罪で懲役十三年の刑が課せられた。


 いかれたヤツらがたくさんいる中で過ごすのは苦痛だったが、衣食住に困らねェのは案外ありがたかった。


 長い牢獄生活が終わって外に出て、なんとなく夢から覚めた――いや、現実が待ち構えていた。


 クロエと初めてあった廃墟に行ってもクロエは居ないし、それどころか廃墟が新しいビルになっていた。

 クロエが一人暮らしをしていたアパートに行ってみてもクロエは居ない。



 ――ただ墓場に行くと、クロエが入った墓石がある。



 手入れされていないのか、苔は生え放題で草抜きもされてねェ。酷い有様だったよ。


 無理もねェ。クロエの親族はみんな死んじまってるんだ。


 それなら俺が手入れするしかねェ。そう思って毎週通うようにしていたら、墓場を管理する婆ちゃんに話しかけられてさ。


『ここのお墓ねぇ、前は可愛らしいお嬢ちゃんが手入れしてたんだけど。ぱったり来なくなってねぇ。何十年も放置されるのは可哀想だから最低限のことは私がしてたのよぉ』


 って言うんだよ。

 クロエが死んでから誰も墓参りに来なかったそうだ。


 ⋯⋯今ものうのうと生きてやがるハタは来てないみたいで、よかった。


 どうしてもハタが許せなくて、ムショを出てからハタについて調べて回った。


 そしたらよォ。アイツ、路地で暮らす子どもを自分の手元に置いて育てて、ある程度自立できると脅迫して金を奪い取ってやがった。


 助けられた子どもは恩返しだからと言って応じるか、拒否しても「会社にお前の素性を明かしてやる」だとか、「誰がここまで育ててやったと思ってるんだ」とか言われて逆らえなかったらしい。


 そして俺がエスポーレで働き始めたときにはもう、ハタは結婚していた。


 妻がいることを伏せ、妻を家から一歩も出さず、何人も女を口説き、浮気を繰り返していた。そのことに勘づいた女性が、口封じのために殺害され、エスポーレトップのハタの権力によって隠蔽された。


 その被害の中に、クロエもいた。


 クロエは助けられた子どもとしてお金を払い、なんの色にもなれた純情を真っ黒にされ、穢れを知らない笑顔を汚され、弄ばれて、しまいには殺された。


 ハタは優しい見た目と清潔感。仕事のできるキャリアウーマンを装っていたが、裏では犯罪を犯し、それを権力で隠蔽するようなクソ野郎だった。


 根っからの善人なんてそういない。

 そう思ってはいたが、ハタの裏を知ってから燃える正義感とやるせない気持ちが俺を動かしていた。


 どうやって殺してやろうか。殺しは正義のもとならしてもいいんだろうか。どうしたらクロエは安心して成仏してくれるのか。


 ハタを殺したら、クロエは――笑って許してくれるだろうか。


 ⋯⋯クロエが死んだ世界で、俺の生きる価値が見いだせなくなってから、(かあ)さんと同じように自分が狂っていくのがわかった。


 酒に溺れて何度も記憶が飛んで、そのたびに体が軽くなるんだ。


 それでも結局記憶は戻っちまうから、薬物(ヤク)にも手ェ出した。


 クロエと出会ってから多少マシになった口調だって酷くなる一方だ。


 それにしても今日は記憶の飛び方がおかしかったな。


 変な夢ばっかし見て、記憶がないのにハタに対する怒りが抑えきれなかった。


 記憶がないのに家にちゃんと帰ったし、ギアナのことを覚えてないのにギアナを持って外に出て。


 記憶がないのに、ハタがいつも使う通勤路に行って。



 記憶がないのに殺しちまうんだから。



「記憶が戻っても戻らなくても、ロクな人生送ってねェから苦労する。ハタに待ってろなんて言っちまったからには追いかけるしかねェわなァ⋯⋯」


 ホント歪みまくった人生だ。

 クロエが死んだときに俺も心中しちまえばクロエを殺すなんてことにはならなかったし、こんな思いを引きずることもなかったかもな。


「あァ⋯⋯」


 昔よりはマシになった空を見て、クロエのことを想う。


「ちゃんと好きだって、伝えたかったなぁ⋯⋯」


 俺の、唯一の心残りだ。

 もうどうにもならないことだけどよォ。


「ははっ。あの世で言えても、今更遅いって言われちまうかな」


 笑って怒ってくるクロエの顔が目に浮かぶ。


「おい! 居たぞ!」


 背後から追手の声が聞こえる。


「かっ、観念して銃を捨てろ! 抵抗するな!」


 震えた腕で銃を構え、俺に指図してくる。

 きっとエスポーレの人間だろう。よく見ると顔つきが幼い。もしかするとハタに救ってもらった子どもかもしれないな。


「よかったな、オマエ。あのハタの本性を知らずに事なきを終えて」


 あァ――俺がエスポーレで働いていたと言ったらどんな反応をするだろうか。


「は、ハタさんのこと、なんで知ってるんだ! 通り魔じゃないのか!」

「ははッ、ヒトゴロシと喋ってていいのか? それより先に俺を捕まえなくちゃだろ?」

「い、言われなくても捕まえてやるよ! だから右手に持っている銃を捨てろ!」


 全く。新人研修がされていないのか? そんなことしてると、ほらこうやって――。


「ま、待てっ――」 


 挑発するように相手を引き寄せ、撃たれそうになったところで、自ら引き金を引く。


 不思議と不安も緊張もなかった。ただこの世界にサヨナラを告げるだけのこと。ただそれだけの事だった。


 乾いた音が耳を(つんざ)き、強い衝撃がカラダに走り、意識が消え――、


 ――――――――――――――――――


「――残念な結末だね。『櫛田(くしだ) 炉絵(ろえ)』さん」

「⋯⋯クロエって呼んで欲しいな?」

「神様に向かってよくそんなこと言えるよね。僕の眼を共有してあげたのに」


 自分を神だと名乗る黒猫。


「別に私からは頼んでないわ。あなたが勝手に連れてきたんじゃない」


 クロエは『黒猫以外の物体が存在しない空間』で漂いながら会話をし、神と名乗る黒猫と対等に話している。


「⋯⋯ドアを開けたらいきなり発砲音が聞こえて、撃たれたことに気づいて。熱くて苦しくて痛くて。それから寒くなって意識がなくなって⋯⋯気がついたらここにいた。あなたが見せてくれたことでわかったけれど、やっぱり私は死んだのね」

「そうだねぇ、ふぁ⋯⋯」


 黒猫は大きな欠伸をして伸びをする。

 その光景をクロエは無い目で見ながら、さっきまで見ていたことをを思い出し、有る心が痛んだ。


「孝は⋯⋯あんな姿になるほど私のことが好きだったのね」

「らしいねぇ。ふふっ、あんな年老いた姿を見ても慈悲の気持ちがあるなんてすごいね! 櫛田炉絵!」

「どんな姿になっていても思い出は変わらないし気持ちも変わらないわ。あとクロエって呼んでほしいのだけれど」

「はいはいクロエ」


 ふざけ混じりで返事をする黒猫に対し、クロエは(いきどお)りを感じた。


「⋯⋯所詮神(あなた)からしたら、膨大な人間の一人にしかすぎないものね」

「んー? まぁそうだけど?」

「⋯⋯⋯⋯はぁ」


 神が存在するならば、全知全能で、全ての望みを叶えてくれるような存在だと思っていた。

 その考えが喋る度に剥がれていき、理想と現実との差が開いていく。


「それで? さっきの記憶を私に見せて、なにがしたいの?」

「特に意味はないよー? ぜーんぶ僕の気まぐれ」

「あなたにまともな返事を求めた私が悪かったわ⋯⋯」


 憤りを通り越してなんだか呆れてきた。

 この世界は神の気まぐれで回っているのだと、本当にそう思えてしまったからだ。


「これでも僕、結構クロエのこと気に入ってるんだよー?」

「へぇ、変な神様に好かれたものね」


 黒猫は二足歩行の体制で、前足を大の字に広げ、


「『家族を失い、路地暮らしになり、男を落とせるほどの美貌をもちながら、想い人には叶わない』みたいな? 悲劇のヒロインってやつ?」


 と、クロエが見ている方へ向けて言った。


「あそうだ。今度転生するとき、どういうのに転生したい? 今人気の異世界転生とかどう? 異能バトルとかー魔法とか使えるやつ!」


 いちいち人の気を逆立てる神様だなと感じながら、クロエは落ち着いて応答する。


「異世界転生がなんだかわからないから、遠慮しておくわ。そうね⋯⋯今度は平和な銃のない世界で、おばあちゃんになるまで長生きしたい。かな」


 咄嗟に聞かれた質問に、少し考えて答える。

 叶えてくれるかどうかはどうせ気まぐれだろうと薄々感じながら――。


「ふーん。冒険心がないんだねぇ。なんでも叶えてあげようと思ったのに」

「平凡に過ごせられればそれでいい。本心よ」


 黒猫は「もったいないことするなぁ」と言いながら、空中になにかの記号、文字のようなものを書き始めた。

 雑に書かれたそれは魔法陣にも見え、文字が発光していることからも神秘的なものを感じる。


「じゃあもうそろそろ転生されるから、クロエともお別れだね! ちゃんと要望には応えておいたから安心してねー」

「ありがとう。⋯⋯ちなみに孝はどうなるの?」

「孝は性根がおかしくなっちゃってるから、転生されるまでもう少し時間がかかるかなー。ちゃんと転生されるから安心していいよ!」


 書き終わった文字に黒猫が前足で触れると、星屑のように煌めいて文字が消えた。


「じゃあね櫛田炉絵。今度は長生きできるといいね」


 そう黒猫が言ってから、クロエの視界が暗くなり、なにも見えなくなる。

 声も発せなくなり、ただ漂う風のようになっていく。

 どこからともなく不快な音、心地よく無い音が聞こえ、いつの間にか旋律を模して聞こえてくる。


江奴(えぬ) (こう)の現実はこの世界だったのに、夢の中で現実だと錯覚してたなんて、余程この世界が嫌だったのかなぁ? ぷぷっ、全く笑えちゃうよねぇー!」


 旋律を模して聞こえた音は、音楽というには不完全で、音楽というには人を不快にさせすぎていた。


 これが世界の始まりと終わりに聞こえるのならば、いっそ生きることなど望まないほどに――。


「それに、悪いことした人間が、人間に転生できるとは限らないんだよー?」


 クロエの思考は停止し、今までの記憶はバラバラになって消えていく。


 そして新しい器に魂が入り、生まれ変わるのだ。


 ――――――――――――――――――


「店長ー! またちりとり無くなってますよ」

「新しく買い換えたばかりだろうが。脚が生えて動くわけがない。ちゃんと探しとけ」

「ういっす」


 煙臭い街に佇む一軒のとんこつラーメン屋。

 黒猫が居なくなり、餌箱として使っていたちりとりもどこかに行ってしまった。


「ったく、警察のやつらは何してんだか」


 ここ最近、いつにも増して発砲音が聞こえるのだ。


 それも、警察が所有している銃の発砲音が――。


 組織で内輪揉めがあったとか、組織のトップが悪事を働いているなどの噂が風に乗って店主の耳に届く。


 噂は噂だと信じてはいないものの、警察に不信感を抱くものは少なくない。


 この店長もその一人だ。


 煙臭さの抜けない街、アルブロム。

 ここにはもう、孝やハタ、クロエはいない。


「俺っ、聞いたんです!」


 それでも街の発展は止まることなく、人々の足も止まることはない。


「ハタさんを殺したあいつが、『ハタの本性を知らずに事なきを終えて』って⋯⋯」


 普段通りの日常が、穏やかに、平凡に進むだろう。


「それで俺、ハタさんがなにをしてたのか調べてて」


 残された者を除いて――。


「だから、ハタさんがなにをしてたのか。洗いざらい教えてください」


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