和風 担当:空-wings
空は宵。月の明かりが一人の男を照らす。
手入れのされていないふしだらな髪、人相の悪い顔には長く蓄積されてきた疲れが滲み表れ、眸はうっすたと白く淀んでいる。油染みのついたままの使い古されたジャケットを着た彼は、自らの置かれている摩訶不思議なこの状況を必死に理解しようとしていた。
(……ここは、どこだ)
辺りを見渡しても誰もいない。場所もわからない。ふと後ろを見れば、一本の道が孝を手招くように存在している。道は霧がかって先が見えず、どこへ続いているのかはわからない。
目の前にあるのは大きな門。その背後には城が聳えている。城は高層のビルに及ぶほど巨大で、黒一色に染まっている。
江奴孝は、気がつくと「此処」にいた。
昨夜、孝は確かに自宅のアパートに帰り着いたはずだ。深夜の日雇いのアルバイトが終わるのは夜空の白みがかった時間帯、早起きな人は既に眠りから目を覚ましているであろう頃。多額の借金を負い、役立つような学や技術を持たない彼にとって、手早く稼げる手段というのは限られている。およそ通常の人生では体験し得ないであろう汚れた人生を、この男は歩いてきたのだ。
話は逸れて、再び元の軌道に戻る。いつものようにアパートの自分の部屋に戻ってきた孝は、普段よりも身体に疲れが溜まっていたのか、汗や泥で汚れた状態の作業着のまま、足の踏み場のない部屋をふらふらと進んでは万年床に体を投げ、一瞬の隙間もないうちに意識を枕へと沈めたのである。
世間の目覚めと共に眠りに就き、孝が起きるのは太陽が地面の真上に差し掛かる頃合い。街の喧騒がアラームの役割を、頼んでもいないのに買って出てくれている。だが、今回の目覚めにはその気配を一切感じられなかった。どこかの家で鳴る掃除機の音、近道だからと大きな体躯を路地に滑らせるトラックの走行音、井戸端会議に興じる主婦たちの甲高い笑い声……等々。孝の目覚めにいつも寄り添ってくれていた(果てしなく迷惑な)存在が居なかったのである。
普段とは違う気配に不思議な感覚を覚えた孝がゆっくり目を開けると、体は布団の上ではなく、頭は枕の上ではなく、視線の先に天井はない――。
石畳の上。
頰をくすぐる枯れ葉がひとひら。
いっそ妖しく感じられるほど壮麗な星空と青白い月。
江奴孝は、気がつくと「此処」にいたのだ。
目の前の門を何度か殴るようにして叩く。「扉を開ける時は事前にノックをするように」という社会的一般常識を踏まえた上で、しかし見るからに頑丈で分厚い木製の板を指数本で叩いたところで虚しい音がするだけだろうから、いささか力を込め、拳で叩いてみる。
まずは一回。
反応はない。
(……? なんだこの感じ)
加減をしたとは言え、しっかりと殴ったはずなのに何の音も起きない。
気のせいかと思い、もう二回。
やはり反応はない。
(なんで音が鳴らねえんだよ)
自分の思い過ごしではなかったらしい。手には門を殴った時の衝撃が鈍く残っているものの、しかし音は鳴らない。もう二、三度試してみたが、それらも腕に鈍い痛みを伴うばかりで、音らしい音は何も聞こえてこない。
孝は気づく。
(そう言えば……やけに静かじゃないか?)
もう一度辺りを見渡す。あいからわず人の気配は感じられないが、そればかりか虫や鳥、何かしらの動物の存在さえ感じることはできない。城を囲うようにして巡らされている垣根の枝葉は風を受けて揺れているはずなのに、これもまた音を立てていない。
孝は声をあげようとするが、まさかの事態に息を呑む。
声さえも出ない。
喉を抑えてみるが何の異常も感じられない。声がかすれているとか、喉が正常に作用していないわけではないだろう。が、何度喉を震わせて息を通らせたとしても、呼吸の時に漏れ出る微かな掠れ声でさえ発することができない。
確かに声は出ているはずだ。――なのに出ていない。
声が出ない。――否。
音が聞こえない。
あまりにも異常な状況にこれまで以上に狼狽する孝。とてつもないほどの恐怖心が虚を衝いて襲いかかってきた。人は、五感のうちどれか一つでも途端に使えなくなると、これほどまでに恐れを感じることができるのか。
(どうなってんだ……!)
意識を四方八方に飛び散らかす。額から流れ出た汗の雫が忙しなく首元に伝う。心臓の鼓動が全身の筋肉に共鳴し、小刻みな揺れを纏う。思考は次第に狭窄の一途を突き進み、視界が徐々にぼやけていくのがわかる。
(落ち着け! とりあえず落ち着くんだ……)
このままではいけないと、深く深呼吸。強張った全身の筋肉を鎮め、心臓を落ち着かせる。直に四十の域に差し掛かる孝の体は、若い頃からの不摂生が祟って同年代よりも脆く弱い。少しの変化であっても体に多大な負荷がかかり、その後遺的な疲弊を簡単には拭うことはできない。
体内の器官が徐々に落ち着いてきたことを確認すると、ゆっくりと目を閉じ、大きく息を吐く。
(……ん?)
ようやく落ち着きを取り戻すと、先ほどまで閉ざされていた城門が奇妙なことに開かれている。音を感じられないため門が開けられたことに気付くことができなかったみたいだ。
城門は城の内部に直接通じているらしく、開かれた門の中は真っ暗。外は月の明かりが地上を照らしているためそれほど暗くはないが、内部を満たしているのはまったくの暗闇だ。
(開けてくれたのか?)
ここまで古風な風采の建造物に自動センサーがついているはずはないだろうから、おそらく城の人間が開けてくれたのだろう。しかし暗いせいか、門を開けてくれたはずの誰某は見当たらない。
孝は恐る恐る城の中へと入っていった。
城の中に入ると、門は誰の手を借りることなく自ずと閉じていった。月明かりさえ届かない暗闇をゆっくりと慎重に進んでいく。しばらく廊下を進むと、そこは今までとは違ってほの明るい光が充満していた。壁に掛けられている燭台の灯が廊下を照らしていたからだ。燭台は一定の間隔で壁に掛けられており、蛍光灯やLEDまでの明るさではないが、その優しくも穏やかな蝋燭の灯りが、孝の心に幾ばくかの余裕を与えてくれた。
外観から予想した通り、この城はかなりの大きさのよう。障子や襖のない殺風景な廊下を歩き続け、時に角を曲がり、丁字の分かれ道を進む。城の中枢へと向かってはいるのだろうが、景色に何かしらの変化が起こることはない。あいかわらず音が聞こえないため視覚と嗅覚だけを頼りに歩みを進めるが、眼に映るのは変わらぬ景色、鼻腔を満たすのは古い木材の香りと蝋の溶けて焼けた匂いだけ。
更に進んでいくと、廊下の中央に暖簾らしき赤い布が垂れ下がっていた。突然現れた奇妙な布の存在に少しだけ驚く孝だが、そこにあったのは特に模様の描かれていない無地の赤い布。空間にメリハリをつけるため間仕切りや暖簾を用いるように、この布も何かの境を示しているのかもしれない。
(ここから先に誰かいるのかもしれないな)
門が開いたということは、この城の住民らしき人物が孝を招き入れてくれたに違いない。
しかしその「住人らしき人物」にはまったく出会えていない。相当奥手な性格をしているのか、あるいは孝のことを警戒しているのか。
……そもそもこの城に住んでいる者などいるのだろうか。
(人が住んでないなら灯りがついているわけはないな)
暖簾をくぐると、数メートル先にまたもや暖簾。奇妙な感覚を覚えた孝は、その次の暖簾を手に持ってよく見てみる。さっきの暖簾が赤色の無地だったのに対し、この暖簾は青色、しかも花の絵柄はある。
(ハスか、これ?)
その方面に明るくない孝であっても、その柄がハスの花であることはわかった。青地の布の下方、一輪のハスが咲いている。
布を裏返すと、そこにはうっすらと文字が書かれていた。
力をも入れずしてあめつちを動かし目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ――――。
暗がりの下、草書と行書の狭間を行ったり来たりする古風な文字を、淡い灯りをよすがに読み進む。学のない孝がこの文章の意味を理解することはできないが、何とももっともそうなことが書いてあるに違いないと思い切る。
二つ目の暖簾をくぐると、先にはまたも一枚の布が天井から吊り下げられていた。
黄色の暖簾。
さっきと違うのは、今しがたくぐった青の暖簾とその先にある黄色の暖簾の間、廊下の左手に障子張りの襖があることくらいだろう。
襖を開けて入ると、中に灯りはなく、大小様々な木箱、年季のこもった和ダンス、布のかけられた姿見、にんまりとした笑い顔の狸の置物などが置かれている。
ここは物置のようだ。
――と、
(!)
孝は思わずギョッとして部屋の奥を見やる。廊下から漏れた光が内部をうっすらと染めるが、入り口の反対側、ちょうど孝のいる場所とは正反対の位置に、鬼の面をした一体の甲冑武者が立っているではないか! 堂々たる姿勢が今にも動きだしそうで、これより先、一歩でも部屋の中に入ろうものならば腰に佩かれた太刀で勢いよく切り掛かってきそうなほどに、その姿は見る者を圧倒する。もちろん中に誰かが入っているわけではないのでそのようなことは起きるはずがないのだが、この城のお化け屋敷のように不気味で薄ら寒い雰囲気が、甲冑に霊を乗り移らせているような気を持たせてしまう。
孝は襖をゆっくり閉め、その場を逃げるように次の暖簾をくぐる。
……するとやはり暖簾が待ち迎えている。襖や部屋らしきものはない。
次は白色。
「またか」と内心思いながら、布をくぐる。
そして黒の暖簾。
特に気にかかるものはない
(この城の住人はそんなに布を吊るすのが好きなのか?)
人の趣味に一々口出しする気はない孝であるが、それにしても、である。なぜこんなにも布で仕切りをつくらないと気が済まないのだろうか。
城の主人の意図におよそ理解の及ばない孝はうんざりしながら黒の暖簾をくぐると、謎の暖簾地帯から抜け出せたらしく、何かしらの布が廊下の先を遮っているようなことはなかった。
(やっと終わったか――ん?)
さっきは左手に襖があった。今度は右手に閉ざされた襖がある。
……猫もいる。
一匹の黒猫が襖をちょんちょんと引っ掻いている。引っ掻くというよりは、肉球で襖の端を撫でているようにも見える。
この城で飼われている猫なのだろうか。
孝が近寄ると、猫は顔を上げて孝を見る。口をにゃーんと開けて、またも襖にちょんちょんと前足で触れる。
(中に入りたいのか?)
襖を開けてやろうとすると、猫はよほど中に入りたがっていたのか、まだ開き途中の隙間にするりと流れ込むように入っていった。
襖を開ければ、中が見える。
(おいおい。こりゃ……)
部屋の中央には四角い木製の物体――おそらく碁を打つために用いる碁盤だろう――の上に一本のロウソクが置かれ、隣には一冊の古めかしい本があった。そのほかに家財道具は見当たらない。
至って殺風景な部屋である。
ある一点を除けば。
(おそれいるな。ここまでくると)
帯のように細く赤いものが部屋を埋め尽くすように垂れ下がり、部屋の内部を蹂躙していた。
うざったい帯の群れを掻かきわけながら中を進み、碁盤の上に置かれている本を手に取る。ペラペラとめくってみるとそのほとんどが真っ白の状態。本ではなくノートなのだろうか。
何も書かれていない書物を端折りながら読み進め、最後のページにたどり着く。そこには鮮やかな赤色で書かれた一行の言葉が記されていた。
玉の緒よ たえなば絶えね ながらへば
忍ぶることの 弱りもぞする
(…………どういう意味だ?)
教養の浅い孝であっても、この一文が五五七五七七の形で象られた「短歌」であることは理解できるが、この歌の意味するところを推し量ることはできない。
結局、この本に書かれていたのは謎の短歌が一句のみだった。
(こんな暗い部屋になんでわざわざこんなもの……)
廊下に垂らされたいくつもの暖簾。
天井から降り注ぐ赤い帯の数々。
ひっそりと部屋に置かれていた謎の書。
(悪趣味だな)
露骨に嫌味を吐きながら、部屋を出ようとする孝。
しかし。
(あれ。俺閉めてたっけ)
開けたままにしてあったはずの襖が閉じてあった。
孝は駆け寄って引手に手をかけ、襖を開けようとする。
しかし。
(開かない……)
鍵やそれに近いものはなかった。ゆえに孝はこの部屋に入ることができたのだから。
ならば、この襖はどうして開かないのだろう。
今度は力を込めてみるが……。
(開けっての!)
何度試しても襖が開くことはない。
(誰かに閉じ込められたか?)
もしかしたら、と孝は考える。
この城の人物が勝手に部屋をあさっている孝を見つけ、これ以上城の中を荒らされないようこの部屋へ閉じ込めたのだろうか。
だとしたら誤解だ。
部屋に勝手に入り込んでいるのだから誤解されてもしかたがないだろうが、孝は、言わば助けを求めるために城の門を叩いたのだ。盗みに入ろうなどという邪な考えはない。
(誰かいるのか!)
襖を叩いてみる。部屋の外の様子を窺うことはできず、また音を拾うこともできないため襖の向こうに誰がいるのかはわからない。それでも、とにかく自分に何の害意もないことを伝えなければならない。
(おい、誰かっ。ここから出してくれ!)
城に入る前と一緒。何度も何度も襖を殴り、自分の存在を外の存在に知らせようとする。
声は出ない。
いや、声は出ているのかもしれないが、それすらも含め、自分には音が聞こえない。
身体中が汗で湿る。
とにかく叩く。
とにかく叫ぶ。
しかし襖は開かない。
(ここから出してくれ――!)
背中に何かが触れた。
(ッ!)
急な感触に体が硬直する。
孝の背中を何かが撫ぜている。
やさしく、
おだやかに、
「何か」が触れている。
(体が、動、かな、い……っ)
意識を振り返らせようとするが、身体は動かない。
金縛りにあったかのようだ。
背中に触れる「何か」は、少し経つと二つになり、それはするすると動いて……
孝を抱きしめる。
死出の香りをまとわせて。
(――!)
事ここに至って、孝は体の緊縛を振り払い、抱きついてきた二本の腕を払いのける。
飛び退くようにして離れ、その「何か」を見る。
それは女だった。
(誰だ、こいつ)
部屋を照らす唯一の灯明が、女を照らす。
紅い着物から覗く白磁の肌。
緑為す黒髪は地に触れようかというまで長い。
その眸は孝を一心に見つめ、顔には哀しみの心に確かな歓びを滲ませている。
振りほどかれた腕が宙を抱くようにさまよい、その行方を探している。
(……綺麗だ)
ああ、綺麗だ。
恐ろしさと奇怪な雰囲気の中、そこに在るのは一輪の花。
儚さとゆかしさは幽明に咲く狐花のように佇み、その口元に潜む影は赤き狂い花。
突如として現れた女の姿に見とれ、孝は腰を抜かしてどさりと尻をつく。
(な……この女、どこにいやがった)
帯の枝垂を流れるように避けるように、女は孝に近づこうとする。
――あゝ。
不意に聞こえたその声が目の前にいる女のものであることはすぐにわかった。
声は「音」に非ず。
孝の脳から、骨を伝って鼓膜を震わす。
やっと、やっと……。
またも恐怖で動けない孝に、慈しむように腕を差し伸べる女。
わたくしは待っておりました。
(だめだ。逃げないとマズイ!)
女の腕がもうわずかという時、その衣から匂い立つ香りに眼を覚ます孝。
身に纏う死出の香り。
その匂いは何とも形容しがたいものであるが、本能が叫ぶ。
危険――と。
畳を蹴り、再び女との距離を取ろうとするが、
(なっ⁉︎)
逃げた先、待っていたのは女の腕の中。
幾年も、待っておりました。
宝物を包み込むが如、その腕は大いなる慈愛をもって孝を招く。
されど、感じられるのは恐怖のみ。
抱かれたはずだというのに、孝が感じるのは冷え切った女の体温。
人の温もりとは千里も隔てた、氷のような冷たさ。
ここでひとり。いつまでも、どこまで……
(離せ……っ!)
もがく孝。
それを許すまいと、女の腕は次第に力を込めて孝を拘束していく。
――あゝ、やっと巡り会えた。
女の腕は万力のように力強く、もはや常人の域を超えていた。
いや、人の域すらを遥かに超えている。
(ぐっ、息がッ)
肺が圧迫され、呼吸ができない。
視界が黒ずんでゆく。
身体中の筋肉が収斂と痙攣を伴いながらガクンと力尽きる。
もはや意識は苦界の淵――。
さあ、共に行きましょう。
にゃーん。
猫の声が聞こえた。
(――!)
女の拘束から突如として解放され、孝は勢いよく畳に身を叩きつけた。酸素を肺にめいいっぱい取り込もうと全身で息をする。
(た、助かった……)
朧な意識で女を見ると、女は自分の顔にへばりついた黒い物体を引き剥がそうと必死にもがいていた。視界をすっかり覆われた女の足取りはまさしく千鳥のそれで、右へ、左へと、ふらついては壁にぶつかり、頭を振り回し、引きちぎるかのように爪を立てて引き剥がそうとしている。
女の顔には、あの黒猫がいた。
声にならない叫び声を上げ、女は髪を振り散らしながらもがく。あまりにも大きく動く女の体に吊り下げられていた帯たちがまとわりつき、より一層女の自由を奪っていく。
(今のうちに!)
孝はようやく意識を完全に回復させ、猫が女の気をそらしている間に襖へと再度駆け寄って開けようとするが、やはり開かない。元から一枚の板で繋がっていたのではないかと感じるほど一寸の余裕も生まれない。
今度は襖と壁の接地面を爪でせせるようにしてこじ開けようとする。
しかし、開かない。
悠長な時間はない。あの勇敢な黒猫が何故孝を助けてくれているのかはわからないが、その挑戦はあまりにも無謀だ。些かの時間を稼ぐだけで精一杯だろう。
黒猫の働きのためにも、何とかしてここから脱出しなければならない。
襖との格闘は四苦八苦。正攻法では突破できないと踏んだ孝は、最後の手段とばかりに渾身の体当たりで襖を破壊しようとする。
ひとたび、身をぶつけ、
ふたたび、身を投げて、
みたび、肩で殴る。
それでも襖は開かない。
(くそッ!)
後ろを見ると、そこには顔の端々に血の滴を湛え、瞋恚と恨みを口に滲ませた女がこちらを見据えている。髪は乱れに乱れ、着物は乱雑に着崩されてしまっている。
女にまとわりつく無数の帯が縛のように、彼女の体を縛りつける。
その右手には、乱暴に鷲掴みにされた黒猫が一匹。
ぐったりとして動かない。
……いつもいつも、何かがわたくしの邪魔をする。
女は右手に持った「もの」を壁に投げつけた。
痛むそぶりも見せず、呻く気配もない。
黒猫は孝のすぐ隣の壁に打ちつけられ、そのまま動かない。
襖は開かない。
女は笑う。
もう誰にも邪魔はさせない。
孝は力を失って崩れ落ちる。
女は咲う。
これでようやく、あなたと一緒になれる……!
希望を失った心を蹂躙するのは絶望のみ。
女は破顔う。
――さあ、恐れないで。
(もうだめだ……)
光を失った眼は女からゆっくりと視線をそらす。
(俺のために戦ってくれたのに、すまねえな……)
あの勇敢な黒猫の最後の姿を拝もうと顔を隣に向ける。
(――ん?)
孝の隣、先程黒猫の投げつけられた場所に、あるべきはずの黒猫の骸はなかった。
その代わり、そこには黒い鉄製の何かが――
(……拳銃、か。あれ)
そこには拳銃が一つ、不思議にも畳の上に在った。
理由はわからない。
何故かわからない。
理屈では説明できない「何か」が、そこにあった。
女は微笑う。
契りのその先へ。
孝の伸ばされた右手は、自然とその銃身を掴んでいた。
(わけのわからないことばかりだが……)
ゆっくりと立ち上がる孝。
(やるしかねぇ……!)
拳銃を構える。
女の歩みが止まる。
女は笑わなかった。
どうして……?
震える足。
震える手。
震える視界。
震える意識。
誰に習ったことはなく、知識などあろうはずがない。
勿論、経験さえ。
どうして……。
女の顔が歪む。
(今だッ!)
指先に力を込めて、トリガーを引く。
響き渡る断末魔。
赤い飛沫が世界を染める。
江奴孝は、気がつくと其処にいた。
「……ッ!」
肌をくすぐる草の葉がくすぐったい。
徐ら起き上がると、そこは城の中ではなかった。
上を向けば、月が笑っている。
「た、助かったの……か?」
何丈もの広さの草原を張り巡らされた生垣が外界とを隔て、土地の中央には苔生した碑が一つ、月の光を浴びながら孤り聳え立つ。
「……声が出せる」
久方ぶりの自分の声。
耳に流れ込むのは風の音、草葉のそよぐ音、月に向かって鳴く虫の声。
孝は「音」を取り戻したのである。
立ち上がった孝は服の土を叩いて落とし、石碑に彫刻された文字を見る。
玉の緒よ たえなば絶えね ながらへば
忍ぶることの 弱りもぞする
部屋にあった本に書かれていた一文。
「城の跡地なのか、ここ」
ならば自分が今までいた城は一体……。
(……)
黙り込む以外に手立てはない。辺りに視線を向けても、あの赤い帯の部屋も、おそろしい着物姿の女も、不思議な黒猫の姿もない。
夢を見ていたのだろうか。
(夢にしては、少々リアル過ぎやしないか?_
孝はしばらく石碑を見つめていると、不意に思い出す。
「……どこに帰ればいいのやら」
あの恐怖の状況から抜け出すことができたはいいが、さてこの男、元は家に帰ろうとさまよっていた身空。
ぐるりと周囲を見て、一箇所だけ垣根のない抜け道を見つける。
道の先は霧のせいでよく見えない。
だが、この場所から移動するにはそこからでしか行けそうにないのは確かだ。
「……行くっきゃねえな」
孝は覚悟を決め、霧のかかった道の中を進んでいく。
孝がいなくなった後の草原。
孤独な碑は虫たちの声に安らいで、月に憩いを求める。
玉の緒よ たえなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
碑にはそう書いてある。
しかし、孝は知らない。
碑の表だけを見ただけの孝は、その裏にもう一首、再び会うことのないであろう誰かに向けて放たれた、哀しき女の言の葉について――
彼は知る由もない。
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし
人の命の 惜しくもあるかな
「いつの日か、再び逢える日を楽しみにしております——」
——孝様。
「どこまで続いてんだよ、この道……」
溜め息を吐いたところで既に手遅れ。
時間にして一時間と少し。ひたすらに真っ直ぐの道を歩き続けている。
「霧のせいでどこに行ってんだかさっぱりだし。ったく……」
疲れと退屈、そしていつまでも変わらない景色に対する窮屈さが孝の口から愚痴となって漏れ出る。
道の両側は垣根によって塞がれ、前か後ろにしか進むことができない。
霧は一向に晴れない。
「まったくどうすりゃいいんだか」
月を眺めて、額の汗を拭う。
「……ん」
立ち止まる孝。
どこからか聞こえてくる音楽。
この音楽は————
月が笑っている。