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馬村鹿之助の大学受験  作者: 佐藤 ココ
4度目の正直
9/55

信じてるから、

 少女は言った。

「何でだろう、初めて聞くのに、なんか、知ってる気がする」

 男は言った。

「そりゃそうだ」

 ***


 『突然だが、ここで馬村たちの通う学校の紹介をしよう。

 校訓、大器晩成を掲げるこの芦原高校は、特進コースと普通コースに分かれており、新藤や佐久間は特進コース、馬村は普通コースに通っていた。在籍人数は300に……え、興味ない?

 ……さいですか。

 じゃあ、物は試しと言いますし、特進コースみにいきましょっか。


 休み時間。学生たちは黒板にもたれかかって話していたり、1人の席を囲んでいたりする。寝ている人も本を読んでいる人も所々に見られ、クラスには自由という言葉がよく似合う。生徒たちは思い思いに好きなことをしているようだった。生徒たちの自主性を育てるためという理由で、クラスには時計がなく、生徒たちは自分の腕時計で行動しなければならないのだが、腕時計をつけていない生徒も一定数はいる。自主性が後退しているように思えてならないが、まぁ、そんなものなんだろう。

 新藤はというと、男子3人、女子2人と時間をつぶしていた。一人で単語帳に向かって百面相している馬村とは正反対である。快活そうな女の子がやけに仰々しい口調で語りだすのを新藤たちは前のめりで聞いていた。


「あるところに1週間以上は住めないって言われてる家があったの。それでね、ある男が『俺は平気だ』って言ってそこに引っ越してきたんだけど……1日目は……トン。真夜中に階段を1段登る音がする。2日目。とん、とん、と2段登る音が。3日目は3段、4日目は4段、そして6日目にはとうとう6段階段を上がる音がしたんだって。そして男は言ったの。『なーんだ。大したことないじゃん』そうして7日目もそこで床についたんだ。そしたらね…………

 かつ、

 かつ、

 かつ……


 12時に、なった、その時。





 ーーーードッ





 ドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダドダ」


「ぎぃやぁああああああああああああああああああああああああああああああ」


 新藤の横に座っていた少女が悲鳴を上げる。悲鳴に驚いた男子が「きゃあ!」と叫んだ。新藤は悲鳴すらあげれずに小刻みに上下に揺れている。本当に怖いと、男顔負けの低い声になるのもわからないではないが、にしてもである。その様子を見ていた残りの面々は笑い転げていた。


「やめようやめよう!眠れなくなっちゃう!みなよ梨花なんか真っ青じゃん!」


 新藤の顔は未だ死んでいる。その顔をみて一同は話を変えることを決定した。


「んじゃ、何話す?」

「はいはいはいはい!恋愛恋愛!」

「2回言わんでよろし。なに?こういうのって言い出した奴が話すって相場は決まってるんだよ?修馬、話すことなんもないでしょっ!」

「……じつは、あるんだ」


 修馬と呼ばれた男子がぼそっと呟いた。


「え!」


 弱気な自分を奮い立たせようとしたのか、それとも緊張のあまりボリュームを間違えたのか、比較的大きな声で修馬は言った。


「おれ!その!えっと!……1年3組 清川凛華さんが……気に、なって、て」

「無理ね」

「無理だな」

「尻すぼみぃ」


 食い気味な否定であった。周りのあまりに冷たい反応に、修馬は文字通りずっこける。


「冷たいな。-273度くらいだぞその目線」


 普通科と特進科は廊下で隔たれているから、ただでさえ日頃の交流も少ない。気軽に教科書を借りることがしにくいのだ。


「んー、どうして清川さん?接点あったっけ?」

「あー。図書委員が一緒で。好きな作家の話で盛り上がって」

「んっと、じゃあ結構話すの?」

「……いや、まだその一回、かな」


 新藤たちは口には出さないものの、無理そうだなと悟った。清川さんの周りには女慣れした男の人が多い。特進クラスにはいないタイプの人種だらけだ。休み時間に小テストの勉強をしている特進クラスとは対照的に男女で盛り上がっているのをよく目にする。それに、高校生の女の子は女慣れしたモテる男を好む傾向がある。全員が全員そうではないが、自然な会話の中に女の子を意識させるような言葉を織り交ぜるような男の人を女子高校生は好みがちだ。清川はどう見てもそのタイプだ。


「っでも!すごい笑いかけてくれたっていうか!」


(うーん、ドンマイ修馬)

(どうする、さっきの怪談より怖いぞこれは)

(いやぁ、やっぱ友達としてはさ、目を覚まさせるべきでは?)

(好きになる分にはいいんじゃ?)

(うーん、それはいいけどこの勢いだとすぐ告りにいきそうじゃん……)


 目線だけで意思疎通をとり、固く頷きあう。


「私らだって笑いかけてんじゃん」

「笑みの!種類が!ちがうだろ!?」

「でもあの子新藤と競るくらいモテるってきくよ?」

「俺の将来性に期待して欲しい」


 修馬は止まらない。


「やっぱ、俺に足りないのは主人公み、だよな!」

「そんな日本語はないぞ」

「もっとラブコメの主人公みたいに普段はダメだけどここぞというときはしっかりする人にならないとだよな」

「現代日本において普段じゃない時あんまないだろ」


 お察しのとおりである。「勉強はできるけど馬鹿」、それが鹿山修馬、その人であった。


((き、聞いちゃいねぇ))


 新藤たちが話している傍で寝ていたはずの男の子も、いつの間にか起きて話を聞いていたのか、肩を震えわせている。


「うーん、本人には悪い噂はないけど周りが……ってきくよ?」


 そおっと、一人が様子を伺うと、ヘッドバンディングよろしくみんなが首を振った。誰にも肯定的な意見をもらえなかったことによって拗ねてしまった修馬は、


「別にいいし、俺みんなに応援されなくても頑張るから!」


 と、椅子にどかっと座って腕を組んだ。


(主、主人公みを意識してやがる……)


 なんだかんだ友人には甘い新藤たち。それに、こういう話を修馬から聞くのは初めてだった。


「ん、まぁ、応援してる、何か協力して欲しいことが有れば言ってね」

「まぁ、応援はしてやるけどさ」


 顔が若干ひきつってはいたが、馬鹿な子ほどかわいいとはよく言ったもので、新藤たちは結局修馬の応援をすることになった。好きなこととか好きな人とか、そういうことをまっすぐにいう修馬が眩しくて、思わず新藤は目を細めた。それは新藤にはできないことで、これからもしないことなのだから。


「じゃあ、俺ノルマこなしたし次おまえな」


 新藤たちは顔を見合わせた。


 ***


「ごめん、馬村くん。来週のの木曜の放課後は、勉強会遅れるね。その分、今日頑張るね!」

「うん、わかった。僕はじゃあ、問題集進めとくよ」


 あの日から、馬村と新藤は毎日放課後に一緒に勉強をすることにしたようだ。


「そう、それでね、私思うんだけど、馬村くん、少し解く問題が馬村くんにあってないかも。もっと簡単な問題を確実に解けるようになってから少しずつ解く問題を難しくした方がいいよ」

「ふむ?」

「難しい問題ってね、簡単な問題の集合でできてるんだ。例えば数学なら2次方程式はどの分野でも使うし、三角関数なんて数3になったら毎日のように使うらしいよ。で、その教科書の例題レベルの問題をどれだけすぐに解けるかが大事なの。わからないことは、基本に立ち返るべし!」


 例えばね、と新藤はノートに文字を書く。


 tanα=aのとき、


 sinα=

 cosα=


「これ、すぐ出る?」

「あー、相互関係……」


 馬村が言っているのは公式のことである。しかしこれがなかなか面倒で、ケアレスミスを多発してしまう馬村は、若干の苦手意識を持っていた。


「それもあるけど、私は覚えちゃったの」

「え」

「数学で一度見たグラフも、重要な意味を持つ式も、基本は全部覚えることにしてる。答えを覚えることもあるし、解き方を覚えることもあるし、色々だけどね」


 この場合は……と、新藤は三角形を書く。


「底辺が1の直角三角形ABCで角A=αのを書けば、相互関係を使わなくても出せるよ」


 新藤はノートに図を書き込んでいく。


「コサインは斜辺ぶんの底辺、サインは斜辺ぶんの高さ、タンジェントは底辺ぶんの高さ……うん、こんな感じ!」



 馬村の目から鱗が落ちた。


「……ありがとう!!思いつかなかった!」

「こういうのは、一度似たような問題を解いてたら思いつくようになるから、これからはできるようになるよ、絶対」


 新藤の目は真剣で、それが馬村はこの上なくうれしかった。馬村にとって勉強は楽しいけれど、時々苦しい。解けない問題の壁は高く、わからない問いと向き合うのは辛い。砂漠の中で水を求めて彷徨いうような、一人ぼっちの荒野に佇むような感覚が、時折馬村に襲いかかる。20億光年の孤独。くしゃみしそうだ。けれど長い冬の後にこそ、暖かな春は来ると思いたいから。必死に真摯に向き合うしか道はない。


「ありがとう」


 生きている人なら必ず一度は、無駄な時間というものを経験したことがあるだろう。ただ眠気を堪えるだけの授業とか、待ち人を携帯を持たずに待つ30分とか、無駄はそこら中に広がっている。

 人生で最も時間を贅沢に使う時期は、おそらく学生であろう。他愛もないことで笑い泣き、躍り狂って動画をとる。勉強する人だっているかもしれない。こうやって過ごす時間が無駄かどうか、新藤にも馬村にもわからない。


 それでも。

 時計の針は、止まらずに動き続ける。

 刻一刻と、青春は過ぎていくのだ。


 ***


 図書室特有の古い紙の匂いと、音を立てれば崩れてしまいそうな静寂。時間がゆったりと進む世界に、明らかに場違いな集団が1つ。


「修馬やばい、めっちゃ挙動不審!」

「清川さん、でも意外と楽しそうでは?」


 もちろん、修馬くんの恋応援部隊である。今回初めて一緒に話すということで修馬の緊張もひとしおだ。


「大丈夫かなー」

「なんだかんだ言って心配なんだね?」

「当たり前でしょ友達だもの」


 情に厚いよね、と新藤は笑うが、


「何言ってんの1番最初にもちろんって言ったの新藤じゃん!」


 と返される。新藤は苦笑いした。新藤とて、仲の良い友達が傷つくところなど見たくはない。だからといって彼女は他人の恋路に首を突っ込むタイプではないが……今回は、事情がある。


 ーーーー来週、アクイ、発現、図書室、鹿山修馬


 単語が羅列されただけの師匠からの手紙は、新藤が自分の主義主張を変えるのには十分だった。馬村曰く、師匠の予言は決して外れず、修馬がアクイを発現すること自体は変えられないそうだ。


「だからって足掻かないのは、違うよね」


 新藤はアクイの発現は、清川さんにフラれることが原因だろうと予測していた。けれど、諦めろだなんて言えるはずもない。新藤が記憶している限り、彼が恋をしたと報告してきたのは初である。新藤は中学校からの知り合いである彼の初恋らしきものを簡単に否定できるような人間ではなかった。


「なんか言った?」

「んー、なーにも」


 それよりさ、と新藤は修馬をさす。修馬はにやけそうになる口元を隠しながら、清川さんと好きな本の話をしていた。どうやら2人ともSFが好きなようで、夏への扉やら月は無慈悲な夜の女王やら、有名作品の和訳がどうのこうのと盛り上がっている。


「おー、いい感じじゃん?」

「ね」


 打ち解けてきた彼らに安心して、応援部隊は各々面白そうな本を手に取った。

『身体の個別性』『自由主義からの脱却』『自己中心性利他主義とその弊害』『寺子屋に見る日本』など、さすがは進学コース、見事に新書を手に取っている。

 新藤は『蜻蛉日記』をその手に納めた。


 気づけば陽も落ちかけ、図書室は赤く染まっていく。


「そろそろ帰ろっか」


 せっかくここまで読んだのだし、と蜻蛉日記を借りようとした時。


 カラン


 図書室のドアが開けられた。

 そこにいたのは、この学校で唯一県大会ベスト4に残り、スポーツ推薦をとっているバスケ部の男だった。もちろん新藤たちのクラスとは縁遠い存在である。

 がたいのいい、180センチ近い男子生徒が図書館のカウンターに片手をつく。修馬の恋応援部隊は、それだけでおそらく彼は清川さんの彼氏だろうと悟ってしまった。遠くからですらわかることに修馬が気づかぬわけもなし。その整った顔にある敵意に、修馬は慄く。

 間の悪いことに、清川さんはその時修馬と貸し借りしようと、本を受け取ったところだった。


「凛華、帰るぞ」


 その男は、一瞬目を潜めた。


「翔!ん、今行くーーーー」


 そう言って清川は修馬に手を振った。


「じゃね、また!この本ありがと!行こっか、翔」

「悪ぃ、凛華ちょっと先出てて」


 彼は愛おしそうに清川に笑いかけ、清川は了解だとすぐに外に出た。しかしその柔らかな笑みは、修馬の方に顔を向けた途端に跡形もなく消え失せる。修馬にも、修馬の恋応援部隊にも緊張が走った。


「あのさ、凛華と俺、昨日から付き合い始めたんだ」


 紡がれた言葉は嫌な予感の的中を告げていて。

 甘かった、と新藤は手を強く握る。先日女子の情報網を駆使したにも関わらずそんな話はなかったので、新藤は安心していたのだ。


「付き合ってるんだよ……言いたいこと分かる?」


 修馬は首を微かに上下に振った。1歩1歩近づいていく敵意を持った人物に、修馬は震えがとまらない。

 そんなはずじゃないとか。

 そんなつもりはなかったとか。

 そういう反論も、謝罪も、怒りも、悲しみも、全てが通用しない空間。


「……ごめんなさい」


 逆だったら、嫌だろうと思った。彼女を狙っている男と彼女が親しそうにしているところを目撃したことはないけれど、想像することはできた。悪い人ではない。悪いのは自分だと、修馬は思った。


 あれ、俺。

 どうしてこうなったんだっけ。

 どうして俺は怒られてるんだっけ。

 ああそうか。

 俺が、ふがいないくせに魅力もないくせに、場違いにも恋をしたから――――


 修馬の体から、次第にもやが立ち込めていく。


「これからさぁ、あいつに必要以上に話しかけないで欲しいんだよね」


 ああ僕は。

 本当に馬鹿だな。

 その通りだ。

 自分だけの特別なんて一個も持っていないし。

 勉強だって新藤には勝てないし。

 顔の偏差値は42ってところだし。

 ああぼくは、どうしてこんなに。

 こんなに――――












「修馬!」


 それはバレー部特有の大声で、芯のある、意思の強さを思わせるような声だった。飛び出してきたやつなんて、目を閉じていてもわかる。


 新藤だ。


 新藤が、修馬の前に飛び出したのだ。迷うことなく、メリットなんて皆無でも、迷わず人のために手を差し出す。それは彼女の流儀でスタイルで、そして何よりプライドだった。他の面々は驚きのあまり石像と化している。


「誰?……は、新藤梨花?」


 彼の疑問に答えることなく新藤は何も見てないふりをして、修馬に声をかけた。


「かえろーよ、金木くんたち先にミロクタ行ってるってー」


 そこで初めて、新藤は彼に気づいたかのようなふりをした。


「あれ、バスケ部の!たまに隣のコートにいるよね?」

「あ、あぁ。新藤さんの友達?」

「ああ、うん。そうなの!」


 新藤は、自分のことをちゃんとよくわかっていた。学年で新藤を知らない人などいない。なんてったって、あの他人に興味のない馬村すら知っていたほどだ。その顔も、スタイルも、運動神経も、頭脳も、他とは一線を画している。それでいて、自分の武器をうまく使いこなせるコミュニケーション能力が彼女にはあった。

 

 どれだけ頭が良くても、美しくても、運動ができても、会話の主導権を握るだけの力がなければ、人に傷つけられ、傷つけてしまう。だから、新藤は努力した。


 最新のアイドルの情報を暗記し、お笑い芸人のネタを暗記し、有名どころのラジオを聴き続け、ドラマをチェックし、常に新しくオープンしたお店を調べておく。そんなことしなくてももともと会話に苦労はしなかったけれど、例えば会話が悪口へと流れた時に、すっと話をそらせるようになるまでには、ある程度の努力は必要だった。


「そっか、クラスが一緒なの?」

「そうそう、今日修馬と遊ぶ約束しててさ、話途中だったらごめんね、早く集まりたくて迎えにきちゃったの!」

「ああいや。新藤さんの友達なんでしょ?俺の方に誤解があったわ」


 誰かを庇い立てしたら、別の誰かが不満を抱く。庇うことはできた。修馬は何もしていない、って。だけど、そうしてしまったら、その後の彼らが困るから。永遠に守ることはできないから、新藤は武器を与えることにしたのだ。


 新藤の友人である、という武器を。


ハリボテではあるけれど、この芦原高校において、これよりも強そうな武器を探すことは難しいだろう。新藤は自分では気づいていないが、相当にモテる。だから、彼は修馬の清川への思いはただの友情だと決め込んだ。修馬の本命は新藤だと考えたのだ。


 そうして安心したのか、一頻り会話をすると、わりぃな、と言って彼は去っていった。


「行ったね、大丈夫?びっくりしたねー」


 新藤は振り返った。


「……あ、れ?」


 新藤の後ろに立つ修馬から黒いもやが立ち込めていた。すでに相当の量。いつアクイが具現化してもおかしくない。新藤は言葉を探す。この状況を打開する、誰もが納得する言葉。人を救う、馬村のような言葉。


「修、」

「俺ってだっせー」


 紡ぎかけた言葉は、他でもない修馬の声に遮られた。


「新藤が来てくれた後、何も言えなかった」

「それ、」

「新藤、初対面の人、苦手なのに」


 気づいていたのか、と新藤は固まった。人見知りを言い訳にしないように初対面の人との会話の練習を重ねてきたのに。


「ほんと、俺、こんなんだから、」


 パリン、と心が割れる音が聞こえた気がした。勢いよく新藤が振り返ると、やはり黒いもやが吹き出している。


 ああやっぱり。無駄だったか。

 新藤は他者の存在が薄くなるのをひしひしと感じていた。


 次第に落ちていく色。

 消えていく音。

 黒いモヤが形を型取り出す。

 全ては0へ

 時を無にきし

 世界が反転

 万物流転

 アクイは生まれ

 自身を淘汰し

 精神世界は地獄を夢見る。


「ウキィ?」


 巨体の猿が、そこにいた。


 新藤は蜻蛉日記を手にしたまま、目の前に現れた猿が天井を突き破るのを見ていた。ゴロゴロと落ちてくる瓦礫が、新藤の体に当たって消える。


「あぐぁあああああああ」


 何故かその瓦礫は修馬にはダメージを負わせるようで、咄嗟に新藤は修馬の上に覆いかぶさった。こういうことか、と新藤は思う。精神世界は、精神の強さが法だという馬村の言葉の意味を新藤はようやく真に理解する。


「なん、だよ、これ……」


 修馬が下で震えていた。

 やっぱり無駄な足掻きだったかぁ、と新藤はこぼす。アクイは現れ、修馬は震える。自分の力不足が痛かった。


 だけどそうも言ってられない。

 今この場で動けるのは新藤だけで。

 あいつを倒せるのもまた、新藤だけだから。

 新藤は修馬を抱き抱え、遠くに避難させる。覚悟はすでに決まっていた。


 彼女は守られたいから浄化師になったのではない。誰かを救いたいから、彼女は浄化師になったのだ。


 初陣にして先輩はいない。

 絶対絶命、虎口で九死、剣ヶ峰。

 しかしそんな状況など歯牙にもかけず。

 新米浄化師、新藤梨花は始動した。


「―――――――Adversity is my feast」






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