全部なんて贅沢は言わないから、
師匠と別れた後、入ったときと同じように手を繋ぎ、2人は現実世界へと足を踏み出した。
「じゅじゅじゅんれず、これが分かんないんだ」
「…………数珠順列ね、どうしたの」
「これ、何で最後に割る2が必要なのかな」
『男子の家かつ2人っきり』という最高のシチュエーションにもかかわらず、無心に勉強している新藤と馬村。ドン引きである。この空間に甘いムードなど皆無!不真面目さなど絶無!どうみてもこれは先生と生徒である。
「円順列は分かるかな」
「計算はできるけど、正確に分かっているかと言われると………」
「じゃ、そこからいこっか」
新藤は馬村の体に身を寄せ、馬村のノートに図を書いていく。ようやく青春らしくなってきたと拍手喝采したいところだ。ようやく、年頃の男女らしきところがみれそうである。
「○を円形に5個書きました。んで、これにABCDEっていう文字を書き込んでいくとするね」
「うん」
「まず、Aを1番上の位置に固定したとするよ」
「それっていいのか?例えば1番したに来ることだってあるのでは?」
「今考えているのは円順列だから、回転して、いつでも1番上に持ってこれるよ」
「なるほど、ごめん中断して」
…………期待したのが間違いだった。
2人は依然として大真面目である。青春の香りなど一切ない。そもそも馬村、人生におけるモテ期は0歳1歳で使いきってしまった。新藤は…………うん、ノーコメントといこうじゃないか。この2人を見ていると、日本の少子化も頷けてしまう。
「その後、残りを並べる。こうしたら重複を防げるよ」
「どうして」
「んー、そもそも円順列が他の順列と違うのは回転したら同じ形が出てくるからだよね」
「うん」
「ABCDEとBCDEAは回転したら同じ、みたいに。だから1人に対して他の人がどこに位置しているかの通りを考えたら上手くいくんだ」
新藤はノートに文字を書き込んでいく。
A B
E C
D
(5-1)!=24
「こんな感じ、んで、数珠順列はね…………」
勉強会は、未だに終わる気配を見せない。
***
鉛筆の音だけが響き渡る部屋に、沈みゆく陽の光が差し込む。夏の入り口に差し掛かってはいたものの、室内ということもあってか、日のあたらない場所は肌寒い。ちょうど背中に日を受けて新藤は大きく伸びをした。ずいぶん長いこと集中していたような気がする。部屋は時計の針は午後5時17分をさしていた。教えるところもあらかた終わり、完全に自習モードと切り替わってからは会話もなく、お互いがまるで相手が存在しないかのように黙々とシャープペンを走らせていただけだった。
「あ、のさ」
新藤はシャーペンを置いて、できるだけ今思いついて聞いたように聞こえるよう、ゆったりと口を開いた。
「んー?」
馬村は顔をあげずに声だけで新藤に応じる。
「馬村くんと師匠って親戚だったり?」
互いが互いを思いあっているのは一目瞭然だった。師匠から馬村への感情が友愛なのか親愛なのか恋愛なのかはわからなかった。しかし、馬村が師匠に向けるそれが恋愛の情であるような気がして、新藤は尋ねずにはいられなかった。師匠が馬村の首に竹刀を当てて馬村に近づき、言葉を交わし、馬村の元を離れるという一連の流れの中で、一瞬、馬村の瞳が揺れるのに新藤は気づいていた。
馬村は依然として下を向いたまま、どうこたえようか考えているのか、無意味にカチカチとシャープペンをノックした。
「んー。兄さんの嫁だから……大体親戚ってところかな」
馬村は数学の問題集の採点をしようと筆箱に手を伸ばす。シュッと、赤字がノートにおどる。
「お兄さんがいるんだ?」
「あー、うん、いる?かな?」
疑問系なのがなぜだかわからなかった。だけど、新藤は敢えて聞かなかった。そこで止まったということは言いたくないことかもしれないから。踏み込むべきではないと思った。
そんな新藤に、大丈夫だというように首を振って馬村は言う。
「4年寝たきりなんだよ、兄さん」
シュッと、赤いバツを馬村はつけた。
「ごめんなさい、私―――――」
急に、室内の気温が下がった気がした。空気が重い。何かすがるものが欲しくて、置いたシャープペンシルをもう一度握る。
「ああいや、大丈夫。それに僕、小さい頃から兄さんとは別れて過ごしたからあんまりこう、世間一般の感じではないし」
新藤は理解できずに固まった。いや、言葉や記号としては理解できる。兄と別れて過ごす、なんて、おおらかな両親と毎日食卓を囲みながら生きている新藤には想像もつかなかった。
馬村は新藤が自分の言葉の意味を理解していないらしいと察して補足する。
「優秀な兄さんと違って昔から僕なーんにもできなかったから、悪影響を及ぼさない様にって別々に暮らしてたんだ」
馬村のノートにバツが踊る。
ばつがおどる。
罰がおどる。
「おっ今回結構正答率高いな!」
まるで違う誰かの話をしているかのような馬村を見て、新藤は耐えきれなくなった。
悲しむでもなく。
他人事のように。
どうして。
どうして笑っているのだろう。
気を抜くと、涙が出そうだった。それだけはダメだ、と新藤は思う。どう言う顔をするのが正解かはわからないけど。間違いが何かは、わかる。
ここで泣いたら、彼は自分に気を使う。それは、違う、違うのだ。
新藤は、こころの傷が、どれほど残るか、知っている。傷の大きさに関わらず、傷ができたところから化膿し、腫れ上がり、時には致命傷となることも。そしてそれは、遠い世界の話じゃないことも。
ぎゅっと、新藤はシャープペンシルをもう一度握った。馬村は強いというよりかは、つらさ悲しさを忘れているといった方が正しいのだろうと新藤は思った。
他者の身に降りかかった出来事のように感じているのだ。
「大丈夫なんだ、本当に。師匠と兄さんと一緒に住むことになった翌週のことだったから、心配してたんだけど、師匠が守ってくれたから。兄さんのことはよく知らないけど…………女の人を見る目だけは、評価してやってもいいな、うん」
馬村は能天気にもへらへら笑う。
「あの人口悪いし、厳しいけど、大事なときには絶対助けてくれるから。新藤さんも何かあったら言うといいよ。あ、もちろん僕にも言ってね!必ず、力になるから」
確信だった。
(馬村くん、師匠が好きなんだな)
まだ自覚はしていないのかもしれないけれど、師匠のことを話すときにだけ彼は目元にしわを作る。愛しくてたまらないと、尊敬してやまないと、まるでずっと昔、生まれる前から好きな人をみるように、彼は彼女を見る。
(いいなぁ)
「ありがとう」
言いながら、新藤は馬村の思いと自分の感情をしっかりと自覚した。
「もうそろそろ遅くなるし、おわろっか。ここから新藤さん家遠いって言ってたしね」
馬村はパラパラと自分が使ったノートをめくり、今日までに終えた勉強の内容をメモし、明日するところのしるしをつける。
「誰かと勉強するの初めてで、楽しかった、また、よろしくね!」
破顔一笑。それを引き金に新藤の胸がぎゅっと痛んだ。
(好きって自覚したとたんに、相手がより素敵に見えるこの現象に名前を付けたい……)
出会った初日に?それはいくらなんでも単純すぎるんじゃないだろうか。
そう思うものの、そうなってしまったからには仕方ない。
新藤は頬を叩いた。
「馬村くん、私頑張るね」
元気印の女子高生、気合い十分、切り替えの速さはお墨付き。
勉強も、そして恋も。精一杯頑張ろう。
なんてったって、高校生なんだから。
「うん」
そんな新藤を見て、僕も勉強に励まねば、と馬村は心を燃やすのだった。