どうか、
シャボン玉が弾けるような音がして、極彩色の世界が視界いっぱいに広がった。頭上にも足元にも、どこを見ても鏡が浮かんでいる。子供の頃の幻想を越えた美しさに、新藤は感嘆の吐息をもらした。慣れているのだろう、特に感慨を持つでもない馬村は、奥へ奥へとずんずん進む。
「師匠ぉおおおおおお!」
馬村が叫ぶも返事はなかった。
「師匠ぉおおおおおお」
またもや馬村の叫び声がその世界にこだまする。しかし師匠の返事はない。
「やっぱり急にお邪魔したから、忙しかったかな」
「いや、大丈夫。僕はね、師匠が確実に飛んでくる方法を知ってるんだ」
なぜかその言葉と共に両目を瞑る馬村。ウインクのつもりだったのだろうか。やだ可愛い……ドヤ顔の馬村は大きく息を吸い込む。
「おばさあああああああああああん!!!」
「死にたいのか?」
電光石火で駆け抜けた何かが、馬村の首に竹刀を添えた。冷気を纏う竹刀に、武道はもともと人を殺す手段だったと、馬村は思い出す。
「おばさんって言ったのはこの口か、ああん?可笑しいな、小僧には修行が足りなかったのかな?」
グリグリと押しつけられる竹刀。
「ストップストップストップ!何かとんでもない音がしてますよ師匠!僕ちゃんと連れてきたのに!」
「ああ?何を――――――」
辺りを見回した師匠と呼ばれた彼女は、ようやく新藤の存在を認知した。
「あのっは、初めまして!新藤梨花と申します」
新藤は師匠に見いっていた。腰近くまでありそうな髪は1つにくくられ、その切れ長の目が師匠の自我の強さを主張している。優に170cmはあるだろう長身は、その足の長さが理由だろう。完全なるプロポーション。美しいの一言に尽きる。
「浄化師に、なりたい子だね」
「はい」
対する師匠も新藤に魅入っていた。それは造形と言った表面的なものではなく、むしろーー
「……綺麗だな」
むしろ、その内面に対する評価である。新藤はクラスで美しい子として必ず名前が上がる人間だが、その声には必ず嫉妬と羨望が含まれている。故に純粋な感想として綺麗だと言われたのは初めてで、新藤は驚いた。
(それは、あなたの方でしょう)
しかし新藤がそう口にする前に、師匠は歌うような声で静かに話した。
「玉のようで、光のようで、あまりの清らかさに泣きたくなるくらいに心地いい。心、波長、信念…………うん、気に入った」
師匠は、馬村を馬鹿にするような笑みとはまた別の、柔らかな笑みを形作る。
「浄化師には入社試験なんて堅苦しいものはない、そもそもが非営利のボランティアで、望まれてもないのに手を差し出す。言うなればお節介だ。誰にも感謝されないし理解されないし正直きつい。それでもやりたいって思うかい?」
新藤は、自分が欲しい言葉をかけてくれた馬村を、相手が嫌がるだろう事実を突き付けた馬村を、傲慢だった佐久間の変化を思い出した。
そうして頷いた。
「はい」
師匠は新藤の頭を撫でる。
「ん、いい子だ」
「師匠それセクハラですよ」
「わりぃ、そうか。すまん」
「いえ、嬉しいです」
慈悲深い笑みに新藤は見惚れたが、普段を知っている馬村の背には悪寒が走る。
師匠が、優しい、だとっ………!
どんな天変地異が起こるのかと、馬村は構える。
「……師匠がちゃんとした言葉で話すなんて、どんな都市伝せっ」
「あ?どつきまわすぞ!」
「どこのヤンキー!?」
新藤はその掛け合いにクスクスと笑う。つられた師弟も笑みこぼれた。
「んじゃ、しばらく出てってよ馬村。梨花ちゃんと話したいんでね!」
「え、それは……」
「ほぉ?」
「もういいってそのくだり!」
そうは言うものの怖いものは怖いのか、それとも何だかんだ気を使ってくれたのか、馬村は鏡の向こうへと去っていった。
「いいんですか?」
「ん、どうせ向こうで勉強してんだろ。大丈夫大丈夫!」
そんなことより、と師匠は言葉を区切る。
「梨花ちゃん、あんたをあたしはずっと前から予見していた。正確には、あんたの存在をね!」
紡がれる言葉は馬村への愛情に満ちていて、新藤は言うべき言葉を失ってしまう。
「梨花ちゃんからアクイが出現する前、何かあったよね?」
「……なんか、男の人に話しかけられた、記憶があります」
「だよな、おそらくそいつの仕業だ。そうでもなきゃぁ、梨花ちゃんから今日、アクイが生まれる訳がない…………あたしはアクイがどこで発現するか、事前に知ることができる。今日は、佐久間って奴だけのはずだった。だから驚いたよ、馬村の高校で大きな何かが生まれていることを察知してぶったまげた。普通のアクイとは明らかに別種のものの気配が、この空間に充満したんだから!」
「別種……?」
「ああ、神聖っていったが良いだろうな。梨花ちゃんは浄化師のあたしたちほど心が強い訳じゃない。普通なら他人の精神世界にはいけない。いけないはずなんだ」
師匠は興奮して大きく腕を振っている。
「だけどあんたは、精神世界に舞い降りた!」
それがどれ程のことなのかいまいちピンとこない新藤は、首をひねる。
「分かりやすく言うと、馬村が勉強したくないって言うくらい普通じゃない」
「凄まじいじゃないですかそれ………」
「ああ、だから。あんたに眠る力のことを誰かが狙ってるんだろう」
新藤の心が不安で黒く染まりかけたとき、師匠は新藤の手をとって笑いかけた。
「心配する必要はねぇよ、あたしも、馬村もいる。あんたが浄化師をしている限り、あんたは安全だ。こっちも、そいつらについて探ってみるから大丈夫。あんたは自分らしく生きてりゃそれでいい」
「ありがとうございます」
「おう、それはこちらこそだな。人材不足が深刻なんだよこの仕事、まじで」
誰かを悪者にしなくてもヒーローになれる仕事なのに、と師匠はブツクサ文句をこぼす。新藤は自分がどうやらとても歓迎されているらしいと息をついた。
「しばらくは馬村と経験をつめ。今日から2人はバディだ、色々教えてもらえよ。悲しみを2つに、喜びを1つにできたなら、2人は最強のバディになれる」
「…………ばでぃ」
「そう。あいつもあいつで色々ある。だけど梨花ちゃんもいろいろあんだろ?この世に悩みのないやつはいない。それが小さかろうと大きかろうと、そんなことはどうでもいい。悩むってのはな、自分の存在が揺らぐってことだ。そしてそれは、浄化師にとっての致命傷だ。なんでかわかるか?」
「意志の力で、アクイを払うから?」
「ん、正解」
師匠は新藤の髪を撫でる。なんだか分からないけどくすぐったくて、新藤は身をよじった。
「精神世界は、精神の強さだけが法律なんだ。相手のアクイ――――相手を支配している感情だな、それよりも強い意思はアクイを祓う。例えば、ほら、馬村のバカみたいな決め台詞聞いたろ?あの……ぶっ……あはっ……あれだよ、英単語とか叫ぶやつ。馬村は精神を整える手段として勉強を使う。あたしあれ大好きでさ、あいつらしいよな、ホント」
クックッと、ニヒルにシニカルに彼女は笑う。
「ん、わりぃ。話がそれたな。だから、浄化師は常に精神を磨く。自分ととことん向き合うんだよ。梨花ちゃんも、これから1番自分の精神が落ち着く状況を知れ。そして、乱れる状況を把握しろ。それが、浄化師への第一歩だ」
「はいっ!」
「ん、いい返事だ」
師匠はまた新藤の頭を撫でた。角度的に師匠からは顔が伺えない新藤は、その顔をだらしなく歪ませる。すべての女子と同様、新藤も圧倒的な美人に弱いのである。この世で最も無駄な『私の友達が1番可愛い』という定期的に女子会で開かれる争いに毎度毎度顔を出す新藤。美人チェッカーのあだ名に恥じないでれでれっぷりである。だから、急なシリアスモードの次の師匠の言葉に、新藤はとても驚いた。
「そして…………いつか、あいつを救ってくれ」
あんたならできるかもしれないから、と小さく消え入るような声で師匠は言う。その声にはいつもの傲岸不遜なきらいはなくて、どこか寂しそうで、兎に角らしくない声だった。あいつとは馬村のことですか、と新藤が問おうとしたとき、タイミング良く馬村が現れる。
「あのぉ、2人とも終わりました?新藤さんに数学で分かんないとこ聞きたいんですけど…………」
「おお、ちょうどいいな小僧、今終わったぜ」
パッと師匠は新藤の頭にのせていた手をおろした。
「せっかくのシリアスだったのに………」
「え、シリアル?美味しいよね」
新藤は反応に困ってその言葉をスルーした。そんなわけないだろう。
「馬村、勉強進んだ?」
「はいっ、今日なんか調子良くてですね、確率問題30題中、8問も正解でした!」
「おー、頑張ったじゃん」
師匠はひとしきり馬村の髪を乱した。言わずもがな、馬村は髪が乱れたことにふくれている。女子か。師匠は気にせず、何事もなかったかのように何かの紙を馬村に渡した。
「ん、馬村、これ次の任務、来週一杯ってとこかな」
「ありがとうございます」
「うっす。そんで梨花ちゃん」
師匠は新藤の腕を引き、その耳元に魔法をこぼす。
「小僧はバカだけど底抜けに良い奴だから、オススメだぜ」
新藤の顔は赤く染まり、何を話しているのかどうせわからないだろうと馬村は渡された紙を見ていた。新藤は小さく「はい」とだけ呟いて身を引く。師匠は「さてっと。私の役目は終わったことだし」と馬村と新藤に背を向けてひらひらとその手をふった。