幸せにくらしましたとさ。
何度も確認したから、筆記用具も受験票も不備はない。休憩時間に見るための簡単なまとめノートも持った。時間もまだ45分前だ。
(大丈夫かな、みんな)
前期試験の試験日は大学によってまちまちだ。前期試験対策のために学校に来ている3年生は、受かり次第、学校には来ては行けないことになる。だから日に日に学校に来る人は減り、後期試験受験者だけが学校に残るようになる。
すでに馬村のクラスでも、合格して学校に来なくなったひともいる。だけど、落ちた人もいるのだ。泣き腫らした後特有の、諦めと悲嘆が篭った笑い方が教室にいると時折聞こえた。
それを察しつつも、何も気づかないふりをして、腫れものに触るように接するのも、気を遣われていると悟りながらも顔に出さないようにするのも、換気のされていない部屋に篭り続けているようで辛かった。
馬村は受験会場の教室に足を踏み入れた。もうすでに席に着いている学生もいる。制服の人ばかりじゃない。浪人生もいるのだろうと馬村は思った。そうして急に実感が湧いた。
視界に映る全ての人が来年度この場所に立っていられるとは限らないという実感。必ずこの場の誰かは泣くのだと気づいて、足元が急に掬われたような気分になる。
ファンタジーの世界に生きていたならよかった。全ての不幸は悪役か神のせいだ。自分は悪くなり得ない。だからファンタジーはファンタジーでありつづける。
受験は、寒気がするほどに現実だ。自分の能力が全て。神も悪役も存在しない。誰かのせいにはできないから。
遺伝だの環境だのごちゃごちゃいうやつほど、本当はわかってる。全ての正しい努力を重ねていないということ。
わからないことを先生に質問に行ったのか、友人にでも聞いたのか、全ての模試のやり直しや解き直しをしたか、むやみやたらに単語帳を変えずに一つの単語帳を極めたか。
確かに遺伝はある。環境も影響するだろう。だけどその影響が少ないから、勉強は人々の能力を測る尺度として用いられている。
だから学歴を鼻にかける人間が後をたたないのだと馬村は思っている。偉そうにどこの大学はどうだと批判する受験生は、馬村のクラスにもいた。
だけど馬村は学歴に興味はない。学歴が人々の能力を測る尺度として優秀だとか。そんな最もらしいことはどうでもいい。至極くだらない。くだらなくて馬鹿馬鹿しいことは、考えたい奴だけ考えて、自分の中で完結させればいいのだと思っている。馬村に、そんなどうでもいいところに割ける脳のメモリは残ってない。
馬村は馬鹿だ。アホだ。要領が悪い。贔屓目に見ても記憶力も応用力も優れているとは言えないし、人の感情に敏感なくせに取るべき行動がよくわからない。間違えだけを踏み抜いて踏み抜いて踏み抜き続け、経験としてようやく正解らしいものに近づける。正しい努力がわからないから、無駄なところに力を注ぎ、本題に入る前に力尽きる。
そんな馬村にとっては、学歴よりもずっと大事なことがある。
お腹いっぱい食べて、十分に寝て、お菓子の包み紙にくすっと笑って、自分が外に出るたびに雨が降ると同僚に愚痴って、コンビニで最後の一個の肉まんを手にいれるような、なんだかんだまだ死ななくてもいいかと思える毎日を紡ぐこと。
今までとこれからを含めた人生の中で一度でも誰かに心から感謝されること。
試験開始までの時間、馬村は勉強しようと思っていたけれど、やめた。直前までノート見ていたら、どんどん不安になる気がしたのだ。見なくても大丈夫だと左手にできたペンダコが言ってくれている気がした。
(僕、頑張ってたんだな)
上がっていく順位に、現実感がなかった。安堵はあった。これだけ自分に時間を割いてくれたみんなを裏切りたくはなかった。
模試でA判定が出るようになって、共通テストも8割を取れた。そりゃあ、新藤たちみたいに9割取るなんてことはできないままだったけど、それでも。
今この場所に挑戦者として立つ資格を勝ち取れた。
馬村は震えた。嬉しかった。
(僕はもう大丈夫)
自分の価値は自分が知ってる。
愛されているとわかっている。
だから、壁に挑んでいける。
前から順に試験官が試験問題を配り出した。紙と机が擦れる音と、足音だけが響く。
「試験を始めてください」
馬村鹿之助は、鉛筆を握った』
少女は言った。「これでおしまい?その後彼らはどうなったの?」
男は言った。「どうだろうね」
少女は言った。「ケチ、いいもん、お母さんに聞く」
男は笑った。「ごめんごめん、だけど知ってるはずだよ」
少女は首を傾げた。「え?」
考えること数秒。そうして気づいた。
「そっかぁ!」
その時、玄関の扉が開く音がした。少女は男の膝から立ち上がり、愛する母の元へと駆けていく。男も遅ればせながら妻の元へと足を運んだ。
「おかえり!」
女は笑って言った。
「ただいま!」
馬村鹿之助の大学受験を読んでくださり、ありがとうございます。
この話はここでおしまいです。
これから加筆修正等が入るところがあると思いますが、内容はこのまま変わりません。
皆さんにこのお話を好きになっていただけたならそんなに嬉しいことはありません。見つけて、選択して、読んでくださって、本当にありがとうございました。