A.それだって、馬村鹿之助という男。
「兄さん?」
馬村の声が震えた。足も震える。視界まで震えてゆがんだ。
「兄さん、なの?」
信じられなくて、手を伸ばす。都合がいい夢であるようにしか思えなかった。何度も何度も繰り返し見た夢の中の、自分を責め立てる兄の姿を、馬村は覚えている。
震える指先は、確かに温かな兄の頬に触れた。
兄は、馬村の手の感触を確かめるように、その手を自分の手で受け止める。
「ごめんなさい」
馬村は言った。
「今まで、本当にごめんなさい」
自分のせいでどれだけ兄の時間が奪われたのかと思うと立っていられなかった。膝をついて、許しを乞う神と信者のように、馬村は兄に詫びていた。
その気迫に、誰も口をはさめなかった。師匠も、新藤も、馬村の父と母も、ただ茫然としてその様子を目に焼き付けていた。
「僕、ずっと、兄さんのことずるいって思ってた」
それは、幼い頃からの罪の告白。
馬村がずっと気にしていたこと。
「兄さんは何でももってて、母さんにも父さんにも愛されてて、師匠も、兄さんのことが好きで、運動も、勉強も、できないことなんか何もないって」
自分と違って、兄にはなんでもあるように思えた。
ずるい。
ずるいずるいずるいずるい。
幼いながらに本気で人を妬んだ。羨ましくてたまらなかった。愛されているという実感が欲しくて馬村は泣いた。
泣いて泣いて泣いて凪いで。
期待しなければ辛くないと気づいた。
事実、生きやすくなった。
人を妬むような人間性の終わった自分には、当然のことだと思うことにした。
辛いことは、考えなければいい。
嫌なことは、忘れてしまえばいい。
記憶の底に押し込めて蓋をして、嫌なことは思い出さないように、大事なものは壊されないように、記憶の底に無理やりねじ込んだ。
「僕のせいで、兄さんがいなくなってからは」
全部を忘れて、楽に過ごせるようになったころ、兄と師匠がやってきたときのことを記憶の底から無理やり引き出す。馬村の頭が痛みでガンガンと揺れた。
それはまるで生存本能。
これ以上は、思い出してはダメだと告げるように、頭が揺れる。涙がこぼれる。
『大丈夫。お前を救う方法があるんだ』
そういって、初めてできた味方は、二度と目を覚まさなくなった。そのときの喪失感を思い出して、吐き気がした。
「兄さんの、代わりに、なろ、うと」
だから代わりになろうとした。師匠が、母が、父が。周りのすべてが悲しんでいるのは、自分のせいだって、わかったから。せめて、兄のかわりになるべきだと思った。その中に、兄のようになれば、愛してもらえるという打算もあった。確かにあった。
「がんばっだげど、ダメ、で……」
嗚咽が止まらない。
ちゃんと思いを口にしたいのに、馬村は言いたいことの半分も言えなかった。
「でぼ、勉強なら、兄さんに、追いつけるかなって、ぼく……」
馬村が大学受験にこだわった理由は。
それが、唯一。
兄に並べることだったから。
「僕、何も、ないんだ……!」
ずっと勉強しても、成績は上がらない。
だけど運動よりは、時間をかければ成果が出ると信じられた。
ひたすらに努力を重ねたのは。
「兄さんみたいに、なりたかったんだ」
兄であり、
憧れであり、
味方である、
たった一筋、暗闇の中に差した光。
「ぼぐのせいで、ほんどに――――――――――――――」
「馬鹿だなぁ」
馬村が言い終わる前に、剣介は、馬村のことを力いっぱい抱きしめた。
「俺がやりたくてしたことだ。謝るな」
この優しくて、
弱くて、
誰より頑張り屋な
小さな男の子に、届くように。
「馬鹿野郎。自分で自分を卑下すんな」
自分のことを無価値だと思い込んだ大馬鹿者に、届くように。
「お前は、俺の」
力の限り、抱きしめた。
「大好きな、自慢の弟だ」
馬村の目からひときわ大きな涙が流れる。
「痛いよ、兄さん」
「お前が馬鹿だから、お仕置きだ」
剣介は、馬村の頭を撫でた。
「ずっと見てたよ。鏡の中から。どんなに疲れてても教科書開いて勉強してたのも、誰かを救うために全力でアクイを払ってる姿も、全部。謝るのは俺たちの方だ」
馬村は首を横に振った。泣きすぎて、うまく声が出せなかった。
「ずっと苦しんでた、幼いころのお前を。助けてやれなくて、ごめんな」
そういって、剣介も、馬村の母も、父も。馬村に見えないように、涙を流した。
―――――鏡よ、教えて。あの子を幸せにできるのは誰?
師匠は、いつかの疑問の答えを聞いた気がした。
―――――それはね、その子の幸せを願う、全ての人よ