世界で一番、強い人はだーれ?
馬村鹿之助は、未曾有の危機を前に、ペンとノートを手に宙を舞っていた。
「墾田永年私財法!!!」
一匹、また一匹、アクイを目の前から消して行く。
新藤とて、負けてはいない。
「アネクメーネ、エクメーネ!!」
けれど、キリがなかった。
「リアクタンス!」「カノッサの屈辱!」「コロイド!チンダル現象!ブラウン運動!!」「バクトリア!ゾクディアナ!」「カプロラクタム!」
倒しても倒しても、アクイは湧き出てくる。コロナが、どれほどの人の心を苦しめているのかが現実として目の前に立ち上がる。
「馬村くん、お母さんたちとは話したの?」
「まだ、うまく……」
「…………そっか」
二人の関係も、親子の関係も、依然としてぎこちないままだった。
馬村の母と父もその実力を惜しげもなく晒しながらアクイを着実に減らしていっている。
終わりが見えない戦いに少しずつ精神力を失いつつあるその時。
奴はやってきた。
「ご機嫌麗しゅう、みなさん」
金剛石の暉く、大きな美しい剣を携えて。
「奇襲しか能がないって言われ続けたから堂々と出てきたぞ、かわいい」
「気にしてたんだなおじさん」
「うるさいですよ、そこの男。私はそこの二人にしか用がないんです」
新藤と――そして師匠にウインクをして、黒は馬村に向かって剣を構えた。
「まずは、一番邪魔な奴から。踊りましょうか」
「ラジオ体操なら踊ってやるよ!」
馬村鹿之助と黒の戦闘が始まった。
手始めにと、黒の剣士が馬村の胴を狙って横に振る。馬村は飛び上がってその剣の上に乗った。そのまま剣士の顔に蹴りを入れようと近づくものの、黒の剣士も難なく躱す。
「あなたは、やはり書生なのですか」
ぽつりと黒がつぶやいた。
それは、彼と戦う馬村だけに届く声。
「だから今世も、私は愛されないのですか」
胸が痛む。
書生だから。
黒の剣士だから。
前世前世前世前世前世前世前世前世!!!!
ペンで剣士の剣を受け、馬村は宙を舞う。
「はぁ?」
あまりに出鱈目な動きに黒がうろたえる。
「ペンは剣より強いんだよ!」
「それはそういう意味じゃないですよ絶対」
「うるさい」
斬って斬られて殴って殴られ、両者は次第に疲弊していく。
その後ろで新藤が馬村の戦いを援護しようと、自分の槍で体を切る。
「馬村君!」
新藤の声に合わせて馬村は黒から距離をとる。新藤がその手から白の光を放った。
「ホイートストンブリッジ回路!」
黒が顔をしかめる。
痛みと言うよりもむしろ、書生に味方をする白に胸を痛めたように見えた。
馬村は考えることを放棄してそのこぶしを振るった。
「兄さん」
兄だった黒を、力の限り殴った。
「兄さん!!!!」
むしろもう、馬村は泣いているようだった。
子供が周りにあるものを手あたり次第投げるように、怒りと悲しみ以外の感情の発露を知らないかのように、馬村はノートとペンでひたすらに黒に挑んだ。
もうその体がどれだけ傷つこうと。
どれだけ血が流れようと。
そんなことをきにしてはいなかった。
治るのなら、傷がついたってかまわない。
自分なら、傷がついたってかまわない。
自分だけが、傷つけばいい。
馬村の攻撃がどんどん激しくなる。
防戦一方、黒は嘆いた。
「どうして」
馬村は、殴りながら泣いていた。
「どうしてそんなに」
申し訳なかった。
自分のせいだと思っていた。
馬村は、書生は、鹿は。
本当の本当は。
「ごめんなさい」
躱して躱してまた殴って。
剣を受けては足で払い、傷がついても前へと進む。
あと1cm。
黒の剣士の腹の前で、馬村はそのこぶしをとめた。
「僕は白が好きで、だけど」
黒の剣士も静止する。
「だけどあなたも、同じだけ、大事だったのに」
それは後悔。何千年にもわたる、自らの罪の吐露。
「…………………知ってましたよ」
黒の剣士が馬村を剣の柄で殴って横に倒す。
「私は、友人なのに、相談もせず死を選ぶその根性に!」
黒は剣を床に突き刺した。
黒は書生の頭を殴る。剣ではなく、自らのこぶしで。
「怒っているんですよ!」
馬村は笑って、立ち上がった。血でにじんだ口元を拭って、よろよろと立ち上がる。
「ごめん」
馬村が腕を振るう。その手を黒も受け止めた。
「もういいです。今回あなたたちが生きてるから。白は、今世もあなたが好きなのですね」
下から顎を蹴り上げ、そのままバク宙。着地してすぐに右からのカウンター。
ぼこぼこになった黒が地面に横たわる。
「愛しています、白」
馬村はその体にとどめと言わんばかりに力いっぱいノートで殴った。
黒の剣士の体に大きな穴が開く。ごぽごぽと、そこから湧き出る黒いモヤを打ち消そうと、新藤は白の乙女の光を力の限り注いだ。
黒の剣士の動きが止まる。白の乙女の力に押されて、動けなくなっていた。
「どうして」
黒の剣士が叫んだ。
「どうして、私じゃ、だめなのですか」
馬村の心臓が音を立てて動いた。血液が逆流しているかのように体が熱い。
「黒の剣士だから?あなたは鹿以外を愛せないのですか?」
それは、ずっと馬村が気にしていたこと。
新藤が、前世に引っ張られて馬村を好きになったんじゃないか。
「違っ」
新藤が叫ぶ前に、師匠が動いた。新藤の前に右手を出して静止の合図を送る。
自分の精神体に槍を突きつけて、黒い髪を白く染めて、黒い瞳を赤く染めて、白くて長いしっぽを生やして彼女は黒の剣士に近づいた。
「ばーーーーーーーーーか」
そうして、いつぞやの仕返しと言わんばかりに、キスをした。
長くて甘い、前世からの願いと、今世の嫉妬と、とっておきの愛を込めた、キスを。
「あたしはずっと、お前だけが好きだ」
額と額をくっつけて、彼女は彼の目を見据えて言った。
「過去とか前世とか、そんなもの全部関係なく、お前だけが好きだ」
「本当、ですか……?」
師匠はもう一度キスをして、「本当に決まってる」と黒に告げた。黒は笑った。何千年もの初恋が、今、叶ったのだ。黒は、その想いが本物だと気付いた。喜びで黒の瞳から涙が溢れる。
「今までの因縁は、今世で消えた。四度目の正直だ」
それは、黒だけではなく、鹿にも――馬村鹿之助にも届けるための言葉だった。
新藤は、ちゃんと今世のお前が好きだと、お前の恋心は間違っていないと、師匠は馬村に言いたかった。
あたしはね、と黒に向かって白が言う。
「周囲の人を労わる優しさが好き」
「自分の軸を信じる強さが好き」
「あたしを見つけて優しく笑う顔が好き」
「あたしのことを心から愛してくれる想いが好き」
「あたしからの愛を信じられなくて疑っちゃう弱さすら、好き」
師匠の瞳が潤む。
「その姿もイカしてるけどさ、戻ってこいよ、マイダーリン」
確信を持ったひとみが輝く。くしゃっと笑った顔が、黒の中で前世の白とかつての猫に重なった。
涙がぽつんと地面に落ちた。
「おせーんだよ、馬鹿」
泣きながら言ったその言葉に応えるように、黒いモヤが晴れていく。剣介の――馬村の兄の精神体が、師匠の腕に抱かれていた。
「たま、子」
「なんだよダーリン」
「好きだ」
上機嫌に師匠は剣介の唇をもう一度奪った。