少しずつ、
お疲れ様、と馬村をねぎらうように風が肩をなでる。いつものことだと、馬村は昔の洋画の俳優みたいにカッコつけて頬杖をついた。生えてるのか植えてるのかよくわからない花壇の花々が、それをからかうようにくすくすと肩を揺らす。生徒たちを監視するのに疲れた太陽がいそいそと帰る準備を始めたのを横目で見て、馬村は言った。
「そろそろ出てくればぁ」
返事はなかった。代わりに申し訳程度に気の早い蝉が鳴いている。
「え」
出てくると馬村が思っていた新藤は姿を見せず、何の返事もなかった。想像して欲しい。いると思って話しかけた相手がいない恐怖を。1度くらいあるだろう?友人と間違えて全然知らない人にタックルしたことくらい。友達がいない馬村にとってはその手の類いの失敗は初。故に馬村の焦りは尋常ではなかった。
(おいおいおいおい、待てよ完全に新藤さんいると思ってたのに、僕は空気に話しかけてたのかよ、そんなのってあるかぁ!?)
馬村は心の中で吹き荒ぶ嵐をおくびにも出さずに、何事もなかったかのように単語帳を手に取った。…………馬村の単語帳は逆さまだった。
「昨日6時間しか寝てないからなぁ」
馬村は意味もなく調子悪いアピールをする。というか、6時間は結構寝てるだろ。
突如、笑い声が響いた。
「ごめん、ごめん!」
いや~期待以上、と登場したのはやはり部活終わりの新藤である。馬村は軽く新藤を睨んだ。
「新藤さん、やっぱり居たよね。何なら、佐久間くんの精神世界までついてきてたでしょ」
「あ、うん、見てたの?」
「見、て、た、よ!だから呼んだんだ、ひどいよ!」
「いや、だってかっこつけてて面白かったからさ、からかってやろうかと」
「……新藤さんに体重が3キロ増える呪いでもかけてやろうか」
「地味に最悪!微妙かつ減らしにくい体重!やめてよダイエット中なんだから!」
「あ、蝶々だ」
「スルーしないで!」
からかわれた分はからかい返せたと考えた馬村は早々にギブアップすることにした。これから勉強を教えてくださる相手である新藤を怒らせてもいいことなんて1つもない。これでなかなか計算高い馬村なのである。
「ぎゃふん」
「現実世界にぎゃふんて言う人いるの!?」
なかなかハイテンションかつ的確なツッコミに、「こやつできる……!」と馬村は確信する。初対面が泣いているときだったからなんとなく暗いイメージを馬村は持っていたが、元来彼女は明るい性格である。人よりも攻撃を防御する盾が固く大きいと、一度壊れたら修復が難しい。そんな盾を持つタイプの人間に、馬村は心当たりがあった。
「…………新藤さん、やっぱり、すごいや」
「え?」
「精神世界に修行もなしに行くなんて普通はできないよ」
馬村は、自分が他者の精神世界に入れるようになるまでにどれほどの鍛練を積んだか、否、今も積んでいるのかを考えていた。他者の精神世界に入るときは、こちらの精神もむき出しである。故に脆く、傷つきやすく、冷静を保つのが難しい。浄化師の一族であり、心を平静に保つことができる人物でないと、精神世界には入れないはずないはずなのだ。
もう壊れるところがないほど心が壊れているか。綻ぶところがないくらい完結した心を持つか。
新藤はどちらでもない。ただ頭が良いだけの(それがどれほどすごいことなのかはおいておくとして)女子高生だ。
それなのに新藤は、2度も記憶を欠かすことなく精神世界から戻ってきた。
「浄化師の素質が多いんだろうな」
嫉妬でも羨望でもなく、ただそれがそうであることを伝えるために紡がれた言葉。
「向いてるのかもね」
本当に、何の気なしに、ただ、思ったことを言ってみただけ。浄化師に勧誘するつもりなんて微塵もなかったし、何なら口に出した自覚もなかった。馬村は、6時からする数学の勉強のことで頭が一杯だったのだ。『帰りたい♪帰りたい♪確率、分野~がまってっいる~』というルンルンモードだったのである。そんな馬村は今の自分の言葉が新藤にどういう感情を抱かせたのかも、それから派生する様々なこともちっとも想像していなかった。
―――――数珠順列がな、難しいんだよな、先ずもって言うのが難しいもん。数珠、じゅじゅじゅ
新藤は身をよじり、頬を掻いていたが、やがて意思の強そうな瞳を燃やして言う。
「…………私も、なれるかな」
「じゅじゅじゅん……え?」
「浄化師に、なれるかな」
馬村の頭から確率のことが消えた。それくらい、馬村にとっては急な発言であった。あまりの動揺に、馬村は新藤相手に英語で訊ねるという痛恨のミスを犯す。
「…………わーい?」
「Because I think your act help a lot of people as if you were hero, and I was impressed by your words……I ,I cannot thank you enough! I felt reassured after your kind remark!!」
怒濤の口撃。馬村に分かったのは『because』だけだった。高校1年生の馬村の英語のレベルは外国の方に自己紹介ができるかできないかという程度のもので、新藤には遠く及ばない。学年1位の1位たる所以を垣間見て、馬村は震える。
「…………日本語でプリーズ」
「馬村くんがたす…………………恥ずかしいから、やっぱ秘密。もう言ったし」
心からの憧れを他者に伝えられるほど子供ではなかったし、割り切って嘘をつけるほど大人ではなかった。馬村は「ずるいなー」などとごねていたが、それ以上追求することはせず、
「あー、じゃ、師匠のところ、行く?」
代わりに、足元の石を蹴飛ばした。蹴飛ばされた石は、吸い込まれるように側溝へと落ちていった。