A.それは、馬村鹿之助という男
午前2時13分。
「師匠」
鏡の中から足を踏み出し、馬村はかつて愛した人に声をかけた。
「……収まって、いたのに」
師匠はその美しい顔を歪ませて、馬村の方へと足を一歩前に進めた。
「ねぇ師匠。金木くんまで、不幸になったら、どうしよう」
その名前に聞き覚えがあった。だけど、どうしてそうなったのかがわからない。
「新藤さんを、好きに、なって、しまった」
馬村は目を開いたまま、涙を流し続ける。手で目を覆うことも、涙を拭うこともしない。泣いていると言う自覚もないのだろう。
「どうしよう。僕のせいだ。僕のせいで、みんな不幸になるんだ」
これは、馬村の精神体であって、それ以上の何かではない。話しかけても意味はないとわかっている。それでも師匠は話しかけずにはいられなかった。
「違うよ、鹿之助。違う。そんなわけない」
「違わない。兄さんも倒れた。義姉さんも僕のせいで傷を負ったし、兄さんを失った。新藤さんは僕の前世のせいで自分の意思もなく僕に惚れて、金木くんは僕のせいでフラれたんだ。父さんも母さんも僕を庇って傷を負った」
淡々と、事実だけを口にするような口調で馬村の精神体は言う。きっと彼にとっては真実。まごうことなき、事実。
「僕が生まれてこなければよかったのになぁ」
甘かった、と師匠は思う。
精神が強いと思っていた。
誰よりもほころびのない、強い心を持った男が、馬村鹿之助という男だと。
違った。
馬村鹿之助は、
もう壊れるところがないほど心が壊れているだけ。
もう彼にとって、自分は。
生まれてきたことそのものが罪で
人を不幸にすることにしか脳がない
最恐で最凶で最弱の存在。
「二度と言うな。お前に救われた人間だってたくさんいる」
馬村のこの記憶は翌朝には消えてしまうだろう。だけどそれでも、師匠は馬村を抱きしめた。
どうか届いて、と思わずにはいられない。
あなたに感謝し、あなたを愛する人は、たくさんいるということに、どうか。
大事な家族だと思っていた。
大事で、大切な。
気づいてほしかった。愛されていることに。意味がある存在だということに。
馬村鹿之助は、素敵な人間だって。
本人以外のすべてが、ちゃんと知っているのに。
「嘘だ」
泣き笑いのような表情を浮かべ、馬村は自分の鏡の中――心の中に戻っていった。その様子を見ながら師匠は顔をゆがめる。
――――――鏡よ鏡
師匠は馬村の消えた鏡に手を当てて、思う。
――――――あの子を幸せにできるのは、誰?




