この世で一番弱い人はだ~れ?
気が付くと、そこは鏡の間だった。心配そうに自分の顔を覗き込むのが師匠だと気づく。
「し」
出かけた言葉を飲み込んだ。
「義姉さん」
師匠は一瞬目を丸くする。その後、本当の弟にするように、あるいは、ずっと昔からの親友にするように、目を細めて笑った。
もともとは、兄の妻だと思いたくなくて、だけど名前で呼ぶほど愚かにもなれなくて、一定の距離感を保つために「師匠」と呼んでいた。
(だけど)
馬村は右側の口角をわずかに上げた。
(もういいんだ)
師匠は呼び方について何の言及もしなかった。察してくれたのだと馬村は気づいた。
この瞬間、馬村の何千年にもわたる、初恋が終わったのだった。
「なんだ?」
師匠は優しく、子守歌を歌う母親のようなトーンで話しかける。
「戻ってきたんだなって思って」
掌が暖かい。新藤が目を丸くしてそこにいた。戻ってきてから馬村が目覚めるまで、新藤はずっと馬村の手を握ってくれていたのだ。馬村はその手をぎゅっと握り返した。新藤の頬が染まる。
(かわいいな)
シンプルにそう思った。1年間一緒にいて、何のためらいもなく、心から馬村が思ったのは初めてのことだった。
「みて」
新藤がその体から白くて淡い光を出した。
「思い出したことで、力を手に入れたの。私、これからは馬村君の力になれる」
新藤はうれしかった。ずっと、守られているのが負担だった。かといって、邪魔になるとわかっていて飛び出すことも、その場を離れることもできなかった。
誰よりも、何よりも傷ついてほしくない人が、目の前で傷を負っているのをただ見ているだけな自分が、許せなかった。
「あたしもだ」
師匠は邪悪に笑う。
「体中から力があふれてる。どこで触れたってよさそうだから、あの、あたしに目をくれず、梨花ちゃんにぞっこんになってた馬鹿を蹴り飛ばすのもわるくないな」
「え、気にしてたんですか」
「たりめーだろ。大好きな男が前世からの恋だとか言ってほかの女に行って気にしねー女がいるかよ」
「言葉にするとクズいな」
あと、と師匠は続ける。
「お義父さんとお義母さんの傷も治ったぜ、今頃病院で目を覚ましてるはずだ」
馬村は師匠から目をそらした。
「……そうですか」
師匠はその様子について言及したりはしなかった。新藤は再度、馬村の手を強く握った。
(……完全に)
つながれた手が暖かい。
(完全に今までのことが全部なかったことにして、笑って家族ごっこをするなんて無理だろうけど)
馬村は正直、あの時まで両親に対して何も期待していなかった。何も期待していなかったから、傷つくこともなかった。考えないようにしていたから、存在を思い出すこともなかった。
(それでも、いつか)
***
2019年も下半期に入り、どこか永久にも思えた高校生活がもう半ばに来たのだと気づく。黒の剣士が顔を表すこともないまま時間だけが過ぎ、馬村の成績は横ばいだった。
「……なんでだ」
馬村は頭を抱えていた。
「でも最初を考えたら十分伸びたよ、この前は92人中32位だったんでしょ?」
「いや、上位陣の多くが理系に言ったことを加味すると上昇率としてはやっぱ落ちてる」
それはもはや恒例となった放課後の馬村を囲む勉強会。部活との兼ね合いで、時間が空いた面々が日替わりで馬村を応援することになっていた。時折馬村が一人で勉強をすることはあるものの、おおむね誰かが傍にいてくれたのだ。
今日は東雲がフリーだった。
「言いたくなかったら言わなくていいんだけど、馬村君は志望どこなの?うちの高校でこの順位だったら、旧帝のぞく国公立はこのまま頑張り続ければ行けると思うよ?」
「いや、聞いてもらって大丈夫、僕はこの県の国立大学に行きたいんだ」
東雲は首をひねる。理由を聞きたかったが、個人の事情にさらに踏み込むことになるためためらわれた。そんな東雲の様子を察してか、馬村は口を開く。
「家業の手伝いもあるし、地元かなって。だけどできれば、1位入学したいんだ。1位入学した人には30万円入学の時にもらえるらしいから」
東雲は納得した。それならば、旧帝合格程度の実力をつけていたほうがいいだろうと。
「私も志望校いっしょなの」
「東雲さんも?そんなに頭いいのに?」
「うん」
東雲は先ほどまで馬村の解いていた数学の問題を丸付けするときに使っていた赤ペンをくるくると回して、何でもないことのように言った。
「うちお金ないから。だから高校のうちにどこまでいけるかやってみたいの」
馬村の耳に手を当てて東雲はささやく。
「だから高校のうちに一回でも、梨花と金木を抜くって決めてる」
そうして口の前に人差し指を立てた。馬村も真似をして人差し指を口に当ててはにかんだ。
「みんな、ばらばらになるのかな」
「……そうね、梨花と金木は確実として……それと西山修馬由美の三人もか、は東大京大射程圏内だもの。あそこらはお金もあるし、狙うでしょうね」
なんとなく、しんみりとして馬村と東雲は口をつぐんだ。空き教室の窓から吹き込む風が生ぬるい。気の早い夏は、高校生たちを驚かそうと一足先に遊びに来ていたようだった。