思い出せ!
ⅰ
遥か昔の物語。
九の命を持つ猫は
主人と崇めし剣の神、
黒き美丈夫の眼差しに
深い孤独を見出して
黒き体躯を震わせる。
主人を闇から救わんと。
そうして猫は旅に出る。
苔むす森へと旅に出る。
叡智で知られる森の王、
主人のかつての使め、
鹿の元へと旅に出る。
闇夜の森で黒猫は
沈黙を破って進みゆく。
主人の深い悲しみが
小さな体躯を震わせて
黒を森へと急がせる。
森の奥のさらに奥、
小さな小さな梨の木に
差し込む僅かな陽の下に
鹿は遠く声を聞く。
<親しき友よ、どこにいる
主人の孤独を癒すため
あなたに会いにここへ来た>
蛇蝎に噛まれ、襲われて
満身創痍で走り抜け
ようやく猫はたどり着く。
<久しき友よ、運が良い
明日には森にひとの子が
森を鎮める、そのために
贄にと捧げられるだろう。
神が 荒ぶるこの森を
沈むる対価に相応しい。
神の孤独が贄に癒され
神の瞳が和らぐことを
心の底から願おうぞ>
鹿は慌てて飛び出した
友の傷を癒そうと。
贄を差し出す、その前夜。
鬼門に梨の木の生えた
大きな家のその中で
花も恐るる美貌の乙女、
白が贄にと名乗り出た。
<私を贄にしてください。
白髪、赤眼、おぞましき、
私の姿を受け入れて、
優しく育ててくださった、
恩を今こそ返す時>
皆が眠りについた頃、
静かに贄は一礼し、
別れを告げて、進みゆく。
深い深い森の中、
少女は静々進みゆく。
村を天から救わんと。
春の土の香がたちのぼり、
鹿が横で梨の花、
怪しく光り、輝いて
贄が訪うたと森に告ぐ。
木々の隙間に一刷毛の、
差し込む光が照らすのは、
白髪、赤眼、うつくしき
贄の乙女のその姿。
立派な角を携えた、
鹿は思わず目を見張る。
自分を恐れず笑いかけ、
祈る乙女のその姿。
赤き瞳に魅せられて、
鹿は思わず希う。
<神との約束放棄して、
乙女とこのまま逃げ出さば
白き乙女は我のもの
愛しき贄は、我が手中>
乙女も鹿に見惚れては、
愛を囁き身を寄せた。
鹿が想いに答えんと、
口を開いたその刹那、
現れたるは剣の神。
鹿は乙女を背に庇う。
贄を守らんと、背に庇う。
黒き駿馬に跨った、
金剛石の目も綾な
大きな剣を携えた、
偉大な神は目を見張る。
<探し求めた片割れに
ようやく出会えた喜びを、
誰が言葉にできようか。
愛しい白よ、共に来い。
白面郎と俺とでは
比べるべくもないだろう。
大事な大事な愛しき子、
我が大剣の対になる
槍をそなたに授けよう>
時おかずして剣の神、
黒く凛々しい美丈夫は
刀をひらりと振り下ろし、
鹿の胸を切りつける。
乙女は青ざめ頷いて、
神馬に跨り身を預く。
<共にいきます、剣の神。
ですからどうか、ご容赦を>
鹿は声上げ挑みゆく。
力の限りを今ここに、
解き放たんと馬を撃つ。
<乙女を取られてなるものか。
私のものにならぬなら
いっそ殺してしまおうぞ>
馬上の二人は倒れ込み、
抱き合いながら死んでいく。
俄に鹿も息絶えた。
鹿の涙を舐めとった、
黒き猫のみそれを知る。
九の命を持つ猫は
全てを自分の業として
悔やみ涙し、こう決めた。
三つの生を犠牲にし、
次の生へと彼らを連れる。
愛する彼らを救わんと。
ⅱ
遠い昔の物語。
九の命を持つ猫は
野草の茂る戦さ場を
縦様横様駆け回る。
鎧兜に身を包み、
黒き悍馬に跨った
大将軍の、その横を
縦横無尽に駆け回る。
かつての森は赤々と
血潮で染まる地獄絵図。
森はどこにも見当たらない。
大将軍を支えるは、
白髪、赤眼、うつくしき、
優しく凛々しいあの乙女。
一万超える兵を
率いて挑む敵将を
未だに知らず、突き進む。
敵将めがけ、突き進む。
< あますな者ども、もらすな若党打ち殺せ>
乙女は愚直に槍振るう。
大将軍を、助けんと。
しかし乙女は敵が手に
奮闘あえなく捕まった。
叡智で知られる敵将の
策に溺れて捕まった。
細い体躯を鎧に包み
金の装飾美しき
長剣構えた敵将こそ
かつての鹿に他ならぬ。
やおら兜の隙間から
のぞく顔貌みた刹那
智将ははたと思い出す。
愛する片割れの存在を。
未だに変わらぬ恋心
気軽に口に出せぬのは
その折智将の胸底に
秘められ続けた万感の
純なるもののあればこそ。
しかし乙女も思い出す。
贄となった前の世で
出会った神に惚れられて、
落馬し死んだ身の上を。
帯が如く間延びした
乙女の悲鳴が戦さ場に
響いた転瞬、黒き猫
九の命を持つ猫は
主人をそっと覗った。
<ああ、我が乙女よ片割れよ
どうして忘れていたのだろう>
主人が意思がそれならと
猫は主人を先導す。
二人の元へ、先導す。
たとえ主人が不幸にも
今世で乙女と結ばれず
主人が愛する一色が
鹿のものになろうとも
それが主人の希望なら。
それが主人の希望なら。
将がその場に着いた時、
乙女と智将の双眸に
映るは互いの姿のみ。
将はその手を震わせて、
怒りのままに剣を振る。
<乙女を取られてなるものか。
私のものにならぬなら
いっそ殺してしまおうぞ>
智将と乙女は倒れ込み、
抱き合いながら死んでいく。
将は黙って見つめては
ただただ涙をこぼすのみ。
彼の涙を舐めとった、
黒き猫のみそれを知る。
九の命を持つ猫は、
愛する彼らを救わんと
三つの生を犠牲にす。
残す命はあと二つ。
ⅲ
昔々の物語。
叡智で名高いある男、
学徒となるを志す。
住み込み働く条件で
学費の支援を申し出た
良家の元へと足早に
男は一人進みゆく。
鬼門に梨の木の生えた
大きな庭持つその家の
白髪、赤眼、うつくしき
神の御使と思わしき
愛娘こそかの乙女。
横に静かに寄り添うは
かつての黒き剣の神。
今世の2人は許嫁
前世と変わらず剣の神
乙女を愛し守らんと
金銀財宝かき集め
乙女の気持ちも聞かぬまま、
融資の代わりに手に入れた。
<愛しい人よ、お嬢さん
どうか覚えていておくれ
あなたは何より大切な
たった一つの私の光。
あなたは私のすぐそばで
私を支え、微笑みかける。
そんなあなたが愛しくて
失うことが怖いのだ>
九の命を持つ猫は
残りの二つを持ったまま
静かに二人を見守った。
今世こそはと猫は言う。
前世で倒れた両人が、永遠に幸せで在るように。
戦さ場だったこの場所は
商店並ぶ憩いの場、
二度も彼らが巡り合い
死んでいったこの場所で
今度も運命は交差する。
<はじめまして、お嬢様>
一目男を見ただけで、
乙女は過去を思い出す。
一度声を聴いたなら
乙女は頬を朱に染める。
声を出さない乙女見て、
男は優しく声かけた。
<どうかしました、お嬢様
何か悩みがあるのなら、
私に言ってごらんなさい。
あなたの書生は必ずや
あなたの力になりましょう>
思い出すのは剣士が声。
<あなたは何より大切な
たった一つの私の光。
あなたは私のすぐそばで
私を支え、微笑みかける。
そんなあなたが愛しくて
失うことが怖いのだ>
千の闇夜を泣きはらし、
呪いを払う梨花を見て、
乙女はただただ彼思う。
<許してください、剣士様
私は先に逝きますわ。
あなたがくれたこの槍で
この胸刺して逝きますわ。
何度生まれ変わっても
私は彼を愛します。
けれど裏切るくらいなら
誰もが不幸になるのなら
私は覚悟を決めますわ>
大きな梨の木の下で
乙女は命を終わらせた。
刹那彼女の足元へ
降り立ち猫は泣き明かす。
残す命はあと二つ。
後追い息を引き取った
二人の男もその傍に。
猫は死体をただ見つめ、
最後の賭けに身を投ず。
自分が壊れてしまっても、
大事な大事な三人が
優しい優しい三人が
来世は幸せであるように。
ごうごうごうと風が吹く。
混じって混ざって離されて
ごうごうごうと風が吹く。
ごうごうごうと風が吹く……