ゆっくりでいいから、
差し出された手に素直に応じることができない佐久間は、座り込んだままでいる。その様子を見た馬村は、手を引っ込めた。手をつかめなかったのに、ひっこめられるとそれはそれでなぜだか悲しくて、声になる一歩手前の音を佐久間は発した。彼の葛藤を知ってか知らずか、馬村はしゃがみ込んで佐久間と目線を合わせる。
「僕さ、小さい頃動き回る点Pも池を周回する太郎くんと次郎くんも、忘れ物をした妹を自転車で追いかける親切な姉も嫌いだったんだ」
「……」
「なんなら数学の答案に、頑張らなくてもいいよって書いて怒られたことだってある」
「……」
そりゃ怒られるだろ馬鹿かこいつ、と佐久間は思った。急な話に置いてけぼりになっている佐久間に気づかず、馬村は自分のことをまくしたてた。他者の心を開きたいなら自己開示をするべきだ、というのは人付き合いをする上での基本的なスキルであるが、馬村はそれを知っていたわけではない。完全に素だ。
「僕は馬鹿だった。殺気をコロッケって読んでたし、潔くをしばらくと読んでいた時期もあった」
「……」
「油で揚げたものはみんな油揚げだと思っていたこともあったし、担任の前で校長先生のことをうっかりLEDと呼んでしまったことだってあった」
馬村よ、最後のはダメだろう。
「そんな僕を、僕の母は早々にあきらめた。こいつはどうしようもないって。スポーツも勉強も、何もできなかったからね。だけど僕は、何にもできない僕は、それでも全然、今の自分が嫌いじゃない」
馬村は、笑った。諦めるでもなく、誤魔化すでもなく、ただ楽しくて嬉しくてたまらないというような笑顔だった。
「さっき、巨人倒したろ?僕にはあいつらの倒し方を教えてくれた師匠がいるんだけど、その人が僕に言ってくれたんだ。『必死に勉強しろ!お前は点Pや太郎やら次郎やらをムカつくだの動くんじゃねぇだの言ってるけどなぁ!あいつらだってすきで動いてんじゃねーかも知れねーだろうが!お前がアイツらの秘密を暴くんだ!んで、あいつらを休ませてやれ!』てね」
「……師匠口悪いな」
「ほんとにね……だけど、初めてだったんだよ。頑張れ、勉強しろ、精神を鍛えろってちゃんと本気で言ってくれた人。なぁ、見てたろ?僕だってアイツを倒せた。頑張ったからだ。僕は勉強した、精神を鍛えた、努力した。君が言うところの才能なんて全くない奴でも、倒せたぞ?」
そんな馬村を「努力は報われるなんて綺麗事だ、じゃあ、お前も才能があったんだろ」と佐久間は吐き捨てた。わずかに残ったプライドが、佐久間に折れることを許さない。
努力なんてくだらない。そんなことしてたら馬鹿にされる。みんなが否定する。だってなんかだせーじゃん?
「綺麗事、ねぇ…………ビックリするくらい下らない。高校1年生にもなって出てくる言い訳が綺麗事?すごいね、佐久間くん」
「何だよ、怒ってんのか?」
いつもの調子を取り戻そうと、佐久間は反論を試みる。飄々としている馬村を恨めしく思いながら彼は虚勢を張った。
「どちらかと言うと過去の自分に。似てるんだよ、佐久間くん、昔の僕に。努力も継続も意味もないって、10年かそこらしか生きてないくせに悟ったふりして、みんなにあわせて、劣等感を誤魔化して…………正直、そんなの全然楽しくなかったな」
楽だけどね、と馬村は下を見る。楽なことと楽しいこと。面白いことと楽しいこと。似ているようで全く違うそれらの全てが、佐久間に自覚を促す。
「ねぇ、佐久間くん。みんなって、誰?」
――――息が、止まるかと思った。
『みんな』に認められたくて、身だしなみに気を使った。
『みんな』に好かれたくて、本を読むのを止めた。
『みんな』と仲良くしたくて、人を馬鹿にした。
(あれ、俺……)
小学生の彼の一番の心の友は、自分の育った国を悲劇から救うために旅に出た赤い髪をした王子だった。親友とともに国を出て、人を救い、革命のチャンスを伺う彼を精一杯応援していた。
血で染まった手を涙で洗い、一段一段階段を上っていく姿に魅了された。もうやめろと言われても鍛錬に励む姿に感銘を受けた。ああいう人間になりたいと、心から思っていた。
―――――お前も本当は、必死で頑張ってみたかったんだろ?
かつての心の友が、剣を握りすぎて硬くなった手のひらを佐久間の肩に乗せた。
「……おれ、は…………」
ああそうだよ。みんなにガリ勉だってバカにされた。熱くなるのはダサいって言われた。いつしか頑張るのは止めた。
だけど、本当は。
本当の本当は!
本当は、頑張ってみたいことが沢山あった。
「酷いこと言ったよな」
佐久間は、大人しく負けを認めようと座りなおした。
「ごめん」
深く、深く頭を下げる。佐久間の言葉は、どうやら全く馬村の心に響いていなかったようだけれど、それでも、普通の人に言ったら、傷つくようなことを言ったのは確かだった。
「顔上げなよ」
言いながら、馬村は立ち上がり、佐久間を見下ろす。その言葉に、佐久間は恐る恐る顔を上げた。その言葉に怒りの色はなかった。ただ、
「え? 今、なんか言った?」
からかってやろうという、邪悪な笑みが浮かんでいた。佐久間はこらえきれずに吹き出し、再度謝辞を述べた。
「ごめん」
「え?」
「ご!め!ん!」
「え?」
「酷いこと言って、ごめんなさい!」
大笑いする馬村を恨めしそうに見る佐久間は、しばらくしてつられて笑った。2人の笑い声が重なったのがうれしいのか、どこからかやさしい風が吹いた。
「さぁ、何言われたか忘れたな」
ひとしきり笑った後、馬村は黒縁メガネをクイっと持ち上げた。
「僕、バカだからね!」
「なんだよ、それ」
だんだん、色褪せた世界が音を立てて崩れ出す。お別れの時間だと、少し馬村は寂しくなった。こうやって人を送るのも、何度目だろう。アクイを生み出した人々は、ここであったことは覚えているが、浄化師の存在は忘れてしまう。それでも人の背中を少しだけ押すこの仕事が、馬村は好きだった。だから、全部覚えている新藤の存在がどれだけイレギュラーなことか。当の本人である新藤はあまり意識していないようだけど。
何はともあれ、馬村は精神世界から飛び出した。横には、記憶を失った佐久間がいる。
「あれ、俺……」
「あ、大丈夫?」
「あ、ああ……お前、勉強なんて……いや、何言おうとしてたんだっけ」
困惑している佐久間を見てもう大丈夫だと悟った馬村は、彼に次を促した。
「ん?」
「あ、いや、その……お疲れ、勉強、頑張れよ!」
帰り様に彼が言った言葉が、馬村の胸に響いた。馬村は天に腕を突き上げ、彼に答えた。
…………腕をつった。