時間はあるから、
おおよそ世間で勉強ができないという人は、大体3パターンに分類できる。(新藤調べ)
①単純に勉強量不足
②記憶力が悪い
③応用が効かない
馬村は、平日6時間休日10時間は勉強している。寝る前に2時間英単語と古文単語をして、残りは数学を解いている。数学には4時間である。大抵の問題は一度では解けないために時間がかかるのだ。芦原高校では一年生は理科と社会をほとんどしない。まずは3教科で、それができてこその理社なのだと、恰幅の良い学年主任が学年集会で言っていた。
練習試合の途中だったらしい新藤が部活に戻ったために、馬村は1人で勉強を再開した……のだが、ここで確認したいことが1つある。休日なのに、なぜ彼はわざわざ学校へ向かい、それも校庭で勉強しているのか。
そう、立ち勉である。何らかのモーションを取りながら暗記に取り組めば、暗記できるという話を隣の席の人がしていたのを小耳にはさんだのだ。この馬村鹿之助15歳、なかなかに記憶力が悪い。寝る前に必死こいて覚えたことも、翌日には完全に忘れているレベルである。そんな彼が立ち勉をしたとして、翌日まで勉強したことを覚えているのかは甚だ疑問であるのだが、本人は至って真面目であった。
だがまあ、確かに、集中力を上げるには、環境を変えることも必要だ。芦原高校は伊達に山の上にあるわけではない。芦原高校のグラウンドから仰いだ空は、周囲を山に囲まれている閉塞感とは無縁である。絵本から抜け出したかのような古時計も、身を寄せ合うように生えている松も、じっと勉学に励む若者を微笑まし気に見守っている。人々をせかす電車の発車のベルも、集中を妨げるけたたましい電話の音も、ここにはない。まだ夏前だから、虫もそうはいない。こういうところは、何を始めるのにもふさわしい。
馬村はシャープペンシルを走らせた。そうして勉強すること1時間ほどだろうか。
「よぉ」
急に肩を叩かれて、馬村は勢いよく顔を上げた。開いていた単語帳に、自分のものではない影がドタンと落ちる。
「ああ、佐久間くん、どうした?」
部活帰りと思しき『佐久間くん』は、ニコニコとニヨニヨとニタニタと、その端正な顔を歪ませて馬村に言う。
「まーた勉強してんの?よくやるねぇ」
人間の耳というのは作りが悪くて、人の好意よりも悪意に反応しやすい。同じ言葉でも、悪意を塗った刃なのか、何も考えないで発された音なのか、愛情を含む言葉なのか、小学生だってすぐにわかる。人間は少しだけ敏感で、少しだけ臆病な生き物だ。
「うん。僕、バカだから」
馬村は臆することなく、卑下することなく、ただただ事実として自分が愚かであることを告げた。悲しむでもなく、自嘲するでもない、あきらめているわけでもないその響きに、『佐久間くん』は眉を顰め、面白くなさそうに馬村を見下ろす。
「へぇ、自覚してんだ?ってかそんだけ勉強して俺より頭悪いとかっ。マジ爆笑もんだなっ!」
『佐久間くん』は楽しそうにカラカラと笑った。努力を表面に出す奴はダサいと彼は思っていたのだ。こういう奴はよく繁殖する。1人いれば100人はいる、ゴキブリのような存在である。現に、馬村は彼らの存在を「カサカサ」と呼んでいた。
何食わぬ顔してしれっと何でもできる男を理想としている彼は、上から目線がデフォルトでこれは彼の常套手段。こうやって馬鹿にして、自分の優位を周囲に知らしめるのだ。いつもの馬村は、彼を無視して勉強していたが……
「よく、分からないんだけど。佐久間くんはどうして勉強してないアピールを僕にしてくるの?」
今回の馬村は一味違う。新藤さんという勉強の友を手に入れた馬村は、心に余裕ができていた。故に兼ねてからの疑問をぶつける時間の余裕を持ったのだ。
「は?」
当然、いつもは何の反応もしない馬村が反応したことに、佐久間くんは唖然とした。
「それって、自分は努力ができない人間ですって言ってるようなもんじゃない?」
今度も、馬村にとってはただ疑問を述べただけで、佐久間くんを馬鹿にする意図はなかった。自分とは反対の人間すぎて、佐久間の気持ちを断片も理解できなかったが故の悲劇である。そもそもこれが相手をあおっている言葉だとわかる男なら、国語のテストで赤点など取らないのである。
「何?」
肩に担ぐようにして持っていた補助バックをドサッと地面に落とす。それは怒りを表す佐久間くんなりの表現であったが、情景描写も登場人物の行動による感情の描写も理解ができない馬村には無意味であった。この時彼の脳内には、「重かったのかな?」という的外れな疑問すらあったのである。
「他人との比較でしか、自分の価値を見出せないの?」
再三言っているが、もう一度確認しておこう。馬村は、超がつくほどのバカである。エベレスト級のプライドを持つ人に対して、プライド(笑)を傷つけるようなことを言ったらどうなるかなど、考えてもいない!ただ思ったことを言っただけなのである!
「あ?馬鹿にしてんの?」
佐久間くんは自分の補助バックを蹴り、不機嫌さを露わにした。その時馬村の頭にあったのは、「あれ何で怒ってるんだろ……」という、手遅れな疑問だった。
馬村は、何も知らない。
馬村は、何も感じない。
馬村は、何も動じない。
他者を理解するにはあまりにも馬鹿で、そしてあまりに無垢だった。
「努力?継続?必死?普通にダセェだろ!?お前思わねぇの?努力してるのに、頑張ってないやつに負けるのもっ!世の中全部才能なんだよ!生まれ持ったものが全て!」
佐久間くんは馬村の胸倉をつかみ、怒っているのに笑っていた。しかしその目に愉悦はない。馬村はそれを遮ることなく単語帳を持ったまま、馬村は『佐久間くん』を見る。
「汗かいて頑張るのも、みっともないだろ!?頑張っても結果が出せないのなんてカッコ悪いし!みんなが馬鹿にしてるっ!」
馬村は、『佐久間くん』をじっと見る。
「みんなに合わせろよ、空気読めよ、頑張ってるアピールうぜぇんだよ、何でお前は、頑張ることをやめねぇんだよ!頑張ったって叶わないことなんてたくさんあるのにっ!周りに馬鹿にされてんのに気づいてねぇのか!」
馬村は、『佐久間くん』をじっと見つめる。
「お前はどうせ無理なんだよ!今までだってそうだっただろ!お前が今まで頑張って頑張って頑張ってきたところで!報われたことがあったか!?」
馬村は、『佐久間くん』をじっと見つめてーーー
見つめて、佐久間の体から黒いもやが吹き出しているのを把握した。どんどんどんどん色あせていく世界。馬村が世界から色を吸い取るかのように、目を瞑って大きく深呼吸したときには、もうそこは精神世界になっていた。
やっぱり僕に関わるとみんなこうだと、馬村は思う。
【呪われてんだよ、お前】【お前の存在は負の感情を冗長させる】【浄化師としても半人前】【お前って、本当何にもできないよな】
狂って狂って狂って。
歪んで歪んで歪んで。
どうして嫌なことは忘れないのかと、幼い頃は思ったっけ。ああ、いけない。これじゃダメだ。
馬村は、精神を整えるために古文単語を復習していく。
「ゆかしの意味は……えーーーーーっと。見たい知りたい聞きたい、心が惹かれる、懐かしい!」
強く、強く、より、強固に。
何にも傷つけられないように
何にも動じないように
…………何にも、感動しないように
馬村は、心を自分のものにする。
その間にも、佐久間からでてくるもやは実体化していく。佐久間は、自分から出るモヤに恐れて震えていた。真っ白な世界に黒が羽ばたく。結ばれ、繋がり、紡がれて、黒は次第に形を得る。
「え、俺、どうして、うあ、うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
想像を超えた事象に遭遇した人間にできることは、いつだって叫ぶことだけである。佐久間は先ほどとは打って変わって小さく、弱く、頼りなくなっていた。
「佐久間くん!落ち着いて!思いつく古文単語を順番に言っていくんだ!」
「何で何でどうしてこれなんだよふざけんじゃねぇぞ……」
呼吸も忘れ叫ぶ佐久間には、馬村の声が届かない。いや、届いたとしても馬鹿にしてんのかと言われて終わりそうなものだが。
「はやく!!」
そうしている間に事態は変化する。
馬村は顔を上げた。
佐久間は下を向いた。
黒は形を持った。
黒は巨人となった。
「助、け…!!」
巨人は馬村がかけているような黒縁のメガネをかけ、なぜか学ランを着ている。第一ボタンまでしっかりボタンを留めて、体操座りをして木の棒で文字を書いていた。顔を片方の腕に埋めて何かから見つかるのを恐れているかのように震えている。
「……」
不気味と称するには少し弱弱しく、無害と称するにはあまりに巨大だった。下を向いてブルブルと震えている佐久間の横で、馬村は巨人のシュールさに笑いをこらえていたが、佐久間が恐ろしさから体を支え切れなくなってしゃがみ込むと、安心させようと彼の背中をさすった。
「佐久間くん!落ち着いて!見て!ただの巨人だよ!」
自分で言ったくせに「ただの巨人ってなんだよ」と含み笑いをしている馬村は、やはりどこか頭のねじが外れている。緊迫感のない横の男とは真逆の佐久間は、顔を覆っていた指の隙間からおそるおそる巨人を見た。
馬村はちょっとは動揺もおさまっただろうかと巨人から彼の横顔に視線を移したが、予想に反して佐久間の震えはもっとひどくなった。それは、先ほどとはまた違った震えである。
「昔の、俺……?」
ポロリと溢れた言葉に口を覆ってももう遅い。馬村は、地獄耳であった。そしてこういう時に限って、馬村の勘は冴えわたる。
彼はもしかして、自分のような人間だったのではないか。
「高校、デビュー……?」
佐久間の肩が大きく震える。それは馬村が今まで取ったことのない、100点の答案だった。
「うるさい!」
悲痛な声だった。目に涙がたまる。佐久間は拭いすらしなかった。声を発した勢いそのまま、彼は馬村の胸倉をつかんで馬村の体を前後にゆすった。
「馬鹿にしてんのか!だったらなんだよ!自分を馬鹿にしてた奴らを見返せるくらい頑張って頑張って頑張ったんだ、頑張って頑張ってないフリして、明るくして、合わない話に合わせて、幸せになろうとして!」
彼の叫びに応えるように巨人はさらに大きくなっていく。それなのに、馬村にはどんどん、どんどん小さく見えた。取るに足らない、ちっぽけな、寂しがり屋の男の子。
「お前にわかるか?いつだって飄々として、周りなんて気にしないで、自分の好きなことだけやって、馬鹿にされても気にも止めない、なんなら気づいてないようなやつに、俺の気持ちがわかるわけねーんだよ!!」
最後はもう、言葉として認識できるかも危ういほどだった。喉をつぶして地面を殴って手を傷つける姿は見ていられないほど悲しい。だが馬村は、同情するでもなく馬鹿にするでもなく、いつもと同じように飄々として言い放つ。
「言いたいことはそれだけ?」
水にインクを垂らしたように、モノクロの世界に言葉はじんわりと響いた。佐久間は言い返そうとしたからにらみながら馬村を見て、彼の無感動な表情に言葉を失った。巨人も佐久間の心の動きを反映してか、その手を止め、聞きたくないとでもいうように耳を覆った。佐久間もそうしたかった。だけど、蛇ににらまれたカエルのように動けない。
「佐久間くん」
場にそぐわない、楽しそうな声だった。
「な、何だよ」
馬村は、馬鹿の一つ覚えで笑った。
「僕ってバカだろ??」
「ああ、違いない」
「運動もできない」
「知ってるさ」
「何もできない」
「見たまんまだな!」
佐久間の言葉なんてなんでもないかのように、
「才能が全てだって、君は言ったな」
と、馬村は佐久間に背中を向けた。
「才能なんて欠片もない僕にも、1つだけ、君のためにできることがある」
思わず佐久間は顔を上げた。目の錯覚だろうか。巨人が小さく見えるほど、馬村の背中がなぜだか大きく見える。
「カッコ悪いって、カッコいいぜ」
そう言って馬村は巨人の足へと駆け出した。
その背中に、佐久間は幼い頃に読んだ物語の英雄を重ねる。図書室の隅にいつからあるのかもわからないような文学全集をむさぼるように読んでいた幼少期が、彼にもあった。ネクラだって馬鹿にされたくないから今は読まないけれど、小学生の彼は、昼休みに図書館に行くのを楽しみに登校していた。あのころ、彼の手の中には世界のすべてがあった。
砂漠を旅するキャラバンも、天才と呼ばれるバイオリニストも、戦場を駆けるカメラマンも、みんな彼の友達だった。
『またあいつ本読んでるよ』
『じゃあ、誘わなくていいんじゃね?』
『あいついたっておもしろくないしな』
よくある話だ。物語にはならないくらい、ありふれた話。
(だけど、例えばあの時、コイツが俺のそばにいたら)
考えたって無駄だと普段なら一蹴する疑問が浮かぶ。佐久間は思わず馬村の背中に手を伸ばした。
(今、俺の手の中に、俺にとって大事なものはあるんだろうか)
馬村は、佐久間の心の友達だった英雄たちのように巨人に挑むのを止めない。馬村の存在に気づいた巨人がちょこまかと動く彼を握りつぶそうと手を伸ばした瞬間、彼はその手を伝って巨人の頭上に到達した。そうして思いっきり古文単語帳で頭を殴り、
「しみじみとした情緒、感慨ーーー」
馬村は地上へ降り立つ。
「あはれなり」
そう呟いた馬村の後ろで、黒い粒が天へと登った。白い空に黒い色がやけに映えた。
(嫌いだ)
佐久間は伸ばしていた手で空をつかみ、力なく腕を下す。
(あいつなんて、大嫌いだ)
馬村はアクイを弔うために、消えていく巨人に頭を下げた。
(ダサいし馬鹿だし空気読めないし運動もできないし大っ嫌いなのに)
そうして手と手を合わせ、目をゆっくりと閉じる。佐久間はそんな馬村に近づくこともできなかった。
「こいつなんかをカッコいいと、思うなんて……」
祈りを終えた馬村は佐久間の元へ近づき、大事なものをつかみ取らせるため、自分の手を差し出した。