ちゃんと私が好きなのなら、
少女は言った。
「……強いって何?」
男は言った。
「他人に理由を求めないこと」
***
『リビングに置かれたラジオから、生命力に溢れた女性パーソナリティの声が微かに響いていた。それとは対照的なのは、2人がけのテーブルに無造作に置かれた成績表。麦茶を入れたコップの外側に溜まった水滴がその紙に染み込んでいる。
「じゃあ、生活費もろもろ入金しといたから」
電話越しのくぐもった声に馬村は感情のない声で答えた。
「わかった……三者面談来てくれてありがとう」
電話はそこで切れたようだった。運動後みたいに乾いた喉に麦茶を流し込み、馬村は勢いよく椅子に腰掛けた。
成績表を両手で掴んだまま、机に突っ伏す。頭を机で強打する音が家に響いたが、馬村は声も出さなかった。そのまま体を右へ左へと捻っては成績表を見る。
「ふふ」
馬村は、その顔をだらしなく歪ませた。
「ふふふふふふはははははははは!!!」
家でなければ確実に通報されている。
「300人中、198番!!!!」
だけど今日だけは。
今日だけ、今日だけは、見逃してあげたい。
だって馬村が、はじめての100番台を取ったのだから。
「ふひょひょひょひょ!!!」
学年平均にはどの教科も届いてはいなかった。だけどクラス平均には、英語はあと1点まで迫ったのだ。
平日6時間、休日10時間。
入学してからずっと頑張って、ようやくこの1学期末のテストで少しだけ成果が出た。
先ほどまで行われた三者面談なんてまるでなかったかのようなはしゃぎっぷりである。
先生の「馬村君は真面目なんですけどねぇ……あぁ、いや、その、はい!でも伸びてきてますよ!」という言葉も、正直忘れていた。
兄と比べると低いからと、馬村の成績に全く興味を持たない母親と3ヶ月ぶりに会ったのに、そのことも正直記憶にない。
嬉しくてならなかった。
「今日はもちご飯食べよう、そうしよう!」
そしておかずはコロッケ。
新藤が見たら炭水化物の量に卒倒しそうな夕飯を馬村は意気揚々と作り始めた。
「ふふふふっふーんふんふんふーん」
絶妙に音程が外れた歌はご愛嬌である。
高校入学と同時に自分で料理を作り始めたのに、馬村は未だに火の通し方が上手くならない。生焼けを恐れるあまり黒焦げの物体が出来上がってしまうのだ。
炊飯器から漂う匂いに気を取られていると、チャイムが鳴った。
「あ、あ、えと」
油が飛ぶのを避けるようにして鍋の火を止め、玄関に急ぐ。
「新藤さん!?」
小花柄のエコバックを右手に掲げた新藤がそこにいた。
「今日来る約束してたよね……?あれ?」
「あ」
完全に失念していた馬村に新藤は微笑む。
「長居はしない。一応これお土産ね」
「えっ、ありがとう、それスリッパ」
「わかった、お邪魔します」
ちょっとご飯作ってたところだから、と馬村はキッチンに進み、新藤はリビングのテーブルに座る。その上にある麦茶と成績表らしき紙に、ここに座っていたのだろう、と新藤はあたりをつけた。
(気になる……)
生唾を飲み込んで裏返しになっている成績表を見つめる。
生徒の成績が張り出されるなど過去の話。個人のプライバシーがどうのこうので、成績表は個人で配られるだけである。たしかに、一位の人だけは言う先生がいたり、順位は言わないものの、成績が悪い生徒にみんなの前で注意をする先生がいたりするせいで、同じクラスの生徒は何となく互いの順位を悟ったりはする。
新藤が不動の一位であることが学年に知れてるのも、入学式の総代を務めたことに加え、そう言ったことが原因なのだ。
だが、馬村と新藤は別のクラス。どの程度成績が上がったのか、は知る手段があまりないのである。
(だ、大丈夫かな……)
成績以外にも気になることはある。馬村が今日、三者面談があることは本人から聞いていた。うっすらと馬村と家族の関係について知っている新藤はとにかく馬村が心配だった。
だからこそ、今日、家に少しだけお邪魔したのだが。
「パンパンパンパンフライパンらんらーらららーふふふふーん」
音程がズレている上に歌詞を誤魔化しながら歌っている馬村は、どう考えても上機嫌だった。
「おっけ、ごめん、お待たせ!」
揚げ終わったコロッケを皿に移してキッチンから出てきた馬村に、新藤は仰天することになる。
(え、エプロン、だと……!)
小学4年生の時に家庭科の授業で作ったというそのエプロンはよくわからない英語と星が描かれていた。黒と青を基調としたもので、言うまでもなくカッコ良くはない。所々ほつれているところもある。
だが。
(え、か、かわいぃ……)
新道にはクリティカルヒットであった。
好意のメガネさえあれば、不器用さもダサさも途端に愛しさへと変わる。
この一瞬で新藤は1人家庭科室に残ってミシンと格闘してミシンを壊し、どうしようとふるふる震えている小馬村まで想像した。一応言っておくとそれは事実である。
「そう言えば、僕のクラスと新藤さんのクラス、体育祭で同じ色だって」
「あぁ、あ、うん、青組だよね」
新藤はエプロンの衝撃にしばし呆然としていたせいで気になっていたことを聞く前に先手を撃たれた。
「マスコット一緒に作るんだよね」
芦原高校の一年生は運動競技とは別に、自分たちで設計図から、高さ5メートルほどの組のシンボルとなるマスコットを張り子で作ることが義務付けされている。これも競技として点数になるので、生徒たちは本気で取り組む。
「私、責任者になったの」
「やっぱり?」
「うん、サブリーダーが、うちのクラスの金木英悟」
「知ってる、新藤さんとよく一緒にいる人たちの中の!」
「そうそう」
金木英悟は学年2位。新藤が天才なら、金木英悟は秀才で、難しい問題がたくさん解けると言うよりは、簡単な問題で「点数を落とさない」人間だった。
「文化祭もあるのに大変だよー」
新藤はヘナヘナと机に倒れ込むふりをした。
「新藤さんたちのクラスは映画だっけ」
「うん、そっちはお化け屋敷だよね」
9月3日、4日、5日が文化祭で、9月の11日が体育祭、という日程を思い出し、2人は軽くため息をついた。それだけではない。8月13日からお盆休みが始まるというのに、8月19日が校内実力テストかつ課題提出日という日程はどう考えても生徒たちに対する嫌がらせにしか思えない。しかも、体育祭の翌週は模試があるのである。まぁ進学校なんてそんなものと言われればそれまでであるが。
「ま、まぁ、頑張ろ!」
「そ、そうだね。あ!」
馬村は、そこでようやく、新藤に成績について言ってなかったことを思い出した。思わず、勢いよく立ち上がる。そうして、自分の描いた絵を親に見せようとする無邪気な子供のように前屈みになった。
「みて、これ!198位!」
新藤は、ずっと決めていた。
幼い頃から褒められてこなかったこの相棒を、認めて褒めて一緒に喜ぶと。
「すごい!順位めっちゃ上がってる!!」
本当に嬉しかった。自分のことよりも、なによりも。
「うん」
頬を蒸気させて嬉しさが滲み出したような声がした。
「新藤さんのおかげだよ、ありがとう」
息が、止まるかと思った。
目の前の男の子があまりにキラキラと期待に目を輝かせるから、褒められたいと渇望する5歳児のように純粋だから、それまでの歩みが嫌でも想像させられた。
切なくて、抱きしめて撫で回して甘やかしたいという抗い難い衝動に駆られる。
湧き出る想いに任せて、伝えてしまいたい。
「…………ううん馬村くんが頑張ったんだよ」
だけどそれは、許されていないのだ。
「実力テストだし範囲も広いし大変だけど、次も頑張ろうね!」
煩悩を吹き飛ばさなければいけなかった。
煩悩を吹き飛ばすためには、忙しい方がちょうどいい。
「目指せ、150位!」
「えいえい、おー!」
夕飯の邪魔になるから、と言い訳して新藤はそそくさと去った。馬村が作ったコロッケとやらを食べたいという欲望でいっぱいだったが、そこは鋼の精神で撥ね付ける。焦げていたので、それでよかったのかもしれない。
苦いはずのそれを、馬村は今までにないくらい美味しく感じたのだった。