取り返しがつかなくなる前に、
吐息が新藤の肩に落ちた。手のひらが背中を撫でるのが心地良い。
「梨花、ごめんね、ごめんねぇ……!」
芦原高校は壮絶ないじめがあるような学校ではない。小説や漫画みたいに明確なカーストはない。たしかに、話しかけられたら話すし、用事があったら話す、くらいの希薄な関係性しか持たない子はいるが、それぐらいだ。そういう子も、完全に無視されたり、陰で悪口を言われることはない。それは周りがいい子ばかりだから、というよりはむしろ、嫌なやつだと思われてまでその子を排除したいと思うような人、つまり馬鹿がいない、と言ったほうが正しいだろう。だからいじめといういじめはない。
新藤だって、言うなれば悪口を言われただけだ。
例えば小説の少女のように、机に落書きをされたとか、例えばドラマの少年のように、暴力を振るわれたとか、そう言う目にあったわけではない。
だけど。
戦時中に餓死した5歳の少女や、結婚式の1日前に婚約者を亡くした男よりも幸せなら。
悲しんだら、いけないのだろうか。
『辛いときに平気なふりをするのは、自分を守るため?』
出会ったその日に、馬村は言った。
(そうだった)
新藤は辛い時に辛いって悲しい時に悲しいって言えないくらいに弱かった。悲しんだっていい、辛いって言ってもいい、ただその感情に支配されて自分を見失わなければ良い。それは、馬村がその身を持って証明してくれたこと。
(…………だから)
新藤は、その透き通るように白い手で、馬村が自分にしてくれたように優しく彼女の髪を撫でた。
「り、梨花……?」
「悲しかった」
腕の中の彼女が固まる。
「辛かったの」
視界がぼやけていくのが分かる。手に力を込めるのも難しい。
「だってね」
裏返ってしまう声に、チームメイトの前で泣くのは初めてだと気づく。こういう風になれてたら、きっと今は違っていた。
悲しくて、つらくて、泣きたかった。
だけど、それは彼女達もだ。
(わかってた)
本当はあの日、すぐに謝ろうとした彼女たちに背を向けて逃げ出したのは自分だって。
(わかってたんだ)
どこかで、バレーから離れる言い訳に彼女たちを使っていたんじゃなかったか。
「みんなが、大好きだから……!」
そっと、抱きしめる手に力を込める。ぼやけた視界の先に、かつてのチームメイトたちが驚いている姿がある。うさぎのパスケースが付いたリュックを置いて、一も二もなく新藤の元へと彼女たちは駆け寄った。
ずっとずっと、言いたかったことがある。
号泣する先輩たちの背中を見たあの瞬間から。
「期待に応えられなくて、ごめっ、ごめんね……」
やっと言えたのだ。
集まった部員たちに抱きしめられて、新藤は息苦しいくらいだった。だけどそれが、とても心地よかった。口々に謝罪を口にするチームメイトの真ん中からどうにかこうにか顔を出して、全員の顔を見渡す。
(頑張ろう)
新藤は手の甲で顎の下に溜まった涙を拭った。
(頑張りたいことが、沢山ある)
夏を知らせるひまわりみたいな笑顔で、新藤はチームメイトの尻を叩いた。
「さ、練習練習」
涙でぐちゃぐちゃになった顔を叩いて新藤は言う。
チームメイトの返事が体育館いっぱいに響いた。
馬村が恐る恐ると第二体育館を覗いたのは、ちょうどその時だった。
「新藤さん……よかった。解決したんだ」
いつも笑っている新藤が、体育館の前を通るときにその瞳に影を落とすのに気づいたのは、もう出会ってすぐの頃だった。彼女の視界にそれが入らないように、第二体育館の前を通るときは新藤の視界からそれが外れるように、さりげなく体で隠して歩いたり、バレー部がテスト期間でも自主練している音が響いた時はいつもより少しだけ声を張ったり、馬村はそうやって新藤のそばにいた。
何があったの、とは軽々しく聞けなかった。出会ったあの日に言わなかったのだ。そこに触れて欲しくなさそうなのは、馬村にはなんとなくわかった。それは根拠があるわけではなく、言うなれば野生の勘である。だけどそう言うものは得手して当たるものだ。
新藤は自分で解決したのだから、それでよかったのだろう。
そう、思うのに。
(どうして)
馬村は鎖骨の辺りがきしむのを感じた。
(どうして、僕に相談してくれなかったんだろう)
そう思ってすぐ、馬村は自分の傲慢さに顔を赤くした。新藤は自分の勉強は放置して毎日勉強を見てくれていたのに。馬村が新藤にしたことは、2度だけ、精神世界で彼女に手を貸しただけだ。当たり前だ。自分は相談に足る人ではなかった、ただ、それだけだ。校舎と体育館の間の狭い道に迷い込んだ風が、馬村の制服を遊びに誘う。けれど、きっちりとズボンに入れられた上着は外に出ることはできなかった。
遠くに見える新藤は憑き物が取れたように安心しきった笑みを浮かべて、部員たちに囲まれている。あれが、本来の、彼女の居場所。優しくて、しなやかで、温かい彼女はみんなに愛されてしかるべきだ。馬村と新藤は勉強を教えて教えられる、浄化師のバディである、ただそれだけの関係で、友達なのかもまだ定かではない。だから、頼ってほしい、守らせてほしい、そんなのは馬村のエゴでしかない。彼女は望んでいない。助けを求めていない。
守られるべき、おじょうさま。
たいせつに、たいせつに。
ずっとまっしろのまま――――
自分が、守りたいのに。
彼女の毎日を奪うのは、いつも自分だ。
(……頼りないのかな)
思考が、止まった。
今、自分は。
いったい、何を思ったのだろうか。
きりきりと痛む腹も、ズキズキと不調を訴える頭も、何かを伝えようとしているように感じる。喧騒の音が遠のいていく。指にできたペンだこが何故か痛い。
嫌だった。
こんなに不快なのは久しぶりだった。
何が嫌なのかもよくわからない。
相棒は嬉しそうなのに。
彼女は幸せになるべきだと思ってたのに。
幸せそうな彼女をみてどうして、頼って欲しかった、などと思ったのだろう。
わからない。
わからない。
わからない?
(………ん?いやまて本当にわからないな?)
眉を顰めて首を傾げる。
(新藤さんは嬉しい、よって僕も嬉しい、オールOKというやつでは!?)
「きしぃ?」と、どこか自信なさげに腹が痛んだ。
「ずききぃ?」と、胸もなんだか勢いがない。
食べすぎが原因かな、と馬村は胸を叩いた。不調は叩けば治ると旧型テレビは考えたのである。
(うん、まぁ、いっか!)
どうせこれ以上考えたって分からない、と馬村はリュックを背負い直した。そもそも問題文の意味がわからないのだ。考え方を思いつき、計算する過程になどいけるはずないのである。
『わからない問題が出たら、一旦飛ばして、わかる問題を解かないとダメだよ。時間は短いからね!』
テスト直前、時間切れでいつも問題が解き終わらない馬村に新藤が言ったことだ。
……いや、言ったことではあるのだが、当の本人はこういう風な意味合いでは言っていないと思われる。
(わかるのはこれだな)
馬村は眼鏡のレンズを制服の裾で拭きもう一度かけなおした。今度はまっすぐ、あの優しい相棒をその目に焼き付けるために。
新藤が嬉しかったら馬村はどう思うのか。
これだけは、間違えようがないくらい明確な答えがある。
(嬉しい)
夏の夜の匂いを乗せた風が背中を押す。
(嬉しいに、決まってるんだ)
馬村といる時の緊張と安心が混ざった笑みとはまた違う、生まれて初めて虹を見た時のような笑みを浮かべた新藤を瞳に写し、馬村は頬を緩ませた。
ここで話しかけるのは野暮というものだろう。馬村は集団に向かって腰のあたりでさりげなく手を振った。どこからか、師匠の笑い声が聞こえた気がした』