また一緒に笑いたいから、
体が重い。空気が薄い。吐き気を催す。その場に満ちた気は、時間がたつに連れて新藤の心を弱めていく。アクイに、飲み込まれそうになる。なるほど、病は気からというのは、あながち間違いではないらしい。猿が新藤をとらえようと動くのを避けては避けて、新藤は好機を伺っていた。
「新藤、無理だよ、勝てっこないっ!」
修馬の声と爆音が新藤の鼓膜を穿つ。厄介なことに修馬の悲しみが深ければ深いほど、猿の強さは増していった。一閃。薙ぎ倒される。
「無理なんだよ、どうせっ!」
修馬の声に悲痛さが増す。
辛い無理だよ逃げたい止めたい死にたいキツイ嫌だどうしてなんで助けて僕だけがひとりぼっちで――――――
「ホント、嫌なことばっかだっ!」
新藤の体を掴もうと伸ばされた猿の手を、新藤は宙返りして避ける。音もなく着地。そのままがら空きになった猿の胸に飛び込み、蹴りをお見舞いする。ビクともしない猿。新藤は距離をとり、もう一度と試みる。呼吸を使え。背中のバネを利用しろ。
「無駄なんだよっ、なにやったって!逃げようよ!怖いよ、無理だよ!」
繰り返される攻撃。それはもう読みきったと新藤は回転し、手の上に着地。そのまま猿の腕を伝って顔まで一直線にかけ上がろうとする……が、あえなく振り落とされる。新藤は空中で体をひねり、無傷とはいかないまでも床へ着地した。
たんっ。
褪せた世界が新藤を睨む。
息が上がる。
意気があがる。
「修馬くん」
「な、何だよ」
舞い上がる土ぼこりにかくれて表情は互いに窺えない。声だけが、ただ響いた。
「ホントのホントに世界が嫌なことだけで溢れていたらさぁ、こんな風に思わなくてすんだのにね」
一瞬、修馬の動揺と呼応するように、風が精神世界を吹き荒らす。猿も動きを止め、新藤を凝視した。
「本当に嫌なことしかないんだったら、幸せなんて言葉すらも知らなかったら、そんなのいつも幸せなのとおんなじだよね」
優しさなんて望みもせず、約束なんて毛ほども知らず、愛だなんて言葉も知らない、そんな世界を生きていたなら。
はじめから、しらなかったなら。
こんなにきずつくこともなかったのに。
むねがいたむことなど、しるよしもなかったのに。
修馬は耳を塞ぐ。だってそんなの聞きたくない。気付きたくない、気づいてしまったら、逃げられなくなるから。
それなのに、新藤は容赦なくその言の刃を修馬に突きつける。
「だから私は、『苦しみ』を肯定する」
嫌だ、と修馬は思う。それ以上は言わないで。
どうせ。
どうせ僕なんか。
何もできないというのに。
「ねぇ、修馬。『苦しみ』は、私たちが幸せを持っていたことの証明だよ」
ああダメだ、と修馬は顔を上げた。修馬の動揺によって彼が生み出したアクイが動かなくなった。故に土ぼこりが消え去り視界が明瞭になる。
そんな目で見ないで。期待してしまう。期待されてしまう。応えたいと、思ってしまう。正直修馬の心はバラバラで、自分がどうしたいのかも定まらないままだった。
「やめろよ!僕は、僕は、そんなふうには思えない!」
聞きたくない。明確な拒絶。それに対応して、猿がその目を見開いた。動きが変わる。さらに速く、さらに重く、さらに強く。新藤は先ほどまでですらも必死だった。瀕死だった。諦めろと、どうせ無理なのだと、逃げた方が楽なのだと、全てが新藤に突きつける。
1度の咆哮、衝撃で空気が揺れる。
動け、避けて、跳ねろ。
逆境こそが好機だとここで示せ。今ここが、きっと転換点。修馬が修馬であるために、新藤が胸張って馬村の横に立つために、この瞬間はある。
精神統一。馬村の戦い方を、分析しろ。考えろ。今は過去の結晶だ。戦い方なんて知らない。分からないことしかない。ただ思うまま、心いくまま、彼女はその足を動かし続ける。
そんな時、思い出すのは、師匠の言葉。
――――――相手のアクイ、相手を支配している感情だな、それよりも強い意思はアクイを祓う。
【QESTION】
この場合。
鹿山修馬の思いとは。
【ANSWER】
清川への行き場のない愛情。
―――――――梨花ちゃんも、これから1番自分の精神が落ち着く状況を知れ。そして、乱れる状況を把握しろ。それが、浄化師への第一歩だ。
【QESTION】
この瞬間。
新藤梨花の、落ち着く時間は。
【ANSWER】
馬村と勉強している時間
【【QESTION!!】】
では、新藤梨花の思いは、鹿山修馬の思いを超えますか?
「そんなの」
新藤は、再び猿へと走り出す。
「勿論、yesに決まってる!」
走り、だそうとし―――――――――――
ザクリ。
後ろから、何かに斬られた。
2つに分かれる精神体。
負荷が限界値を超える。
「会いたかったよ、白の乙女」
刹那、吹き出したのは光。
「え?」
その瞬間、新藤から白い光が飛び出した光は、円弧を描き、精神世界を駆け回る。
キラキラと、ギラギラと。
光は踊り、振動する。
波打ち、煌めき、
笑うように、歌うように。
………殺すように。
回って回って新藤の元へ。
「は?」
1直線に新藤に向かった光は、新藤を取り囲む。修馬は、光の動く余波を食らって転がった。
閃光の後には、大きな猫。恐ろしいくらいに美しい、あの猫がいた。前回と違う点は新藤も猫の中に取り込まれたことだろう。悲鳴を上げる暇すらなく、新藤は猫の中で意識を失った。
「新藤ぉぉぉぉおおおおおおおおおお!!!」
修馬の絶叫も、届きはしない。
猫は神秘的だった。大きさは猿と同じほどであったが、その威圧感は桁違い。その赤い目だけが、色が落ちた世界に光る。世界から色が消えたのに、その赤だけは輝きを失わない。猫は1度宙返りして、猿のもとに着地した。皮肉にもその姿に新藤を重ね、修馬は後退りする。
恐怖が、実態をもって修馬を襲う。今までとは比にならない、なんせ目の前で自分を守っていた人が、一瞬のうちに消えたのだ。次は僕だと彼は叫ぶ。猿も叫んだ。
猫は、ただ息を吸った。そうして吐いた。
ただそれだけの動作で、猿も、学校も消えていく。猫はその美しい顏を空に向け、1度だけ目を瞑った。アクイを弔っているのか、いや、考えすぎか。
「新藤っ!」
猫は、今度は縮む。
しゅるしゅると、ゆるゆると、ふるふると。
縮んで縮んで縮みきって。
「ふにー?」
少女がいた。真っ白の少女。その目をこする手は雪のようにしろく、むしろ雪が彼女を真似たのではないかと思ってしまうほど。髪は長く、これまた真っ白だ。その唇と目だけが赤い。その美しさに思わず息を飲んでしまいそうになる。上品で、優美で。けれどどこかとても幼い。
「ふはー」
その様子を見て幸せそうに笑うは、あの日の男。
「ははっ、よくやくだね、白の乙女」
彼は踵を鳴らして、口笛を吹いた。
「会いたかったよ、僕の恋人」
1歩、また1歩。愛しい片割れに会いに行くように、黒は白へと歩を進める。新藤だった彼女も、黒が差し出した手に身を寄せた。
白の手が黒のそれと合わさる。
それは黒が待ちわびた情景。
運命の、邂逅。
それは恐怖を抱くほどの美しさだった。修馬は恐ろしくてならなかった。新藤はどこに消えたのか。消えてしまったのなら、おそらくそれは彼のせいで。だからこそ彼は願わずにはいられない。誰か助けて。せめて新藤だけでも、僕を助けに来たあの子だけでも。
しかしその頃、唯一ここに助けに来てくれそうな馬村は1人でノートと向き合っている。白い机で黒い学生服を着て、白のノートに黒のシャープペンで文字を記す馬村は、不運にも色褪せた世界に気づかない。
赤ペンを!赤ペンで丸付けをすれば、さすがにこのバカでも気づくのに!しかし鬼のように問題を解くのが遅い馬村、ここまで解き終わったら丸付けしようと馬村が決めているところまであと2題もある。
問 AB=2、AC=1、BC=2 の三角形ABCの角BAC=θとする。sinθの値は?
問 tanα=Aのとき、sinα と cosα の値は?
そんなことなどつゆも知らない黒い男は辺りを見渡し笑みをこぼす。
「あの浄化師もいないみたいだし僥倖だね。あの頃はアクイが膿まれたら、浄化師だけは精神世界に引きずり込まれていた気がするけどね。浄化師も落ちたもんだ」
違う、彼も精神世界にいるのだ!だが馬村は集中するために耳栓をしているし、ぼっちで勉強していたから周りに人がいなくなったことや世界が色褪せたことに気づいていないだけなのだ!不運にも馬村が勉強しているのは三角比!馬村の苦手分野である。が、活路を見いだす言い方をするならば、この前新藤と勉強した分野でもある。
馬村は、しばらく頭を悩ませて(意味もなくワークを上下にしたりペンを回したりして)ようやっと気づいた。
「あ、これこの前教えてもらったヤツだ!」
そう、そうだよ馬村!よくやった新藤!
上がる成績減る体重、これが新藤式学習法、どうぞご入会を!馬村が、あの馬村が、問題をすらすらと解いていく様子は新藤が見ていたら号泣ものだっただろう。馬村は書ききり、シャーペンを置いた。そうして赤ペンをとる。
「よっしゃ合ってるぅ!ってあれ?インク可笑しくない?」
可笑しいのはお前の頭、いや違った、可笑しいのは世界だ。馬村は筆箱の中を一頻りあさり、その中身が全てモノクロなのをしり、
「あっれ………もしかしなくても精神世界?」
ヤバい師匠にぶち転がされる……と、馬村はようやく耳栓を外して駆け出した。普段は足が遅い馬村であるが、精神の強さが身体能力と等しくなる精神世界。馬村の『師匠に怒られたくない』という純粋で強い意思が力へ変わる。それでいいのか、馬村よ。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」
この世で最もヒーローらしくない登場シーンは、そうやって出来上がった。息を荒げながら図書館だったその場所に現れた彼は、つくなり盛大にずっこけた。
「うわああああああ、これ絶対怒られるうううううう」
修馬は助けに来てくれたのであろう人に対して、失礼にも心配する。そうなるのも頷けるが、これでもこの物語の主人公、ここらで一発噛ましてくれると期待してもいい……はず…………あれ……そのはずなんだけどな……
「あのぉ、おじさん?」
「お兄さんです。おじさんはやめてください」
「すみません、それでおじさん、あなた何者ですか?」
「あなた話聞く気ありますか?見たらわかるでしょう、黒の剣士です。まぁいいでしょう、あなた黒の剣士も知らないで浄化師やってるんですか?」
馬村は嘆いた。
「すみません、おじさん。僕記憶力が貧弱で…………」
「でしょうねぇ!」
「すみません、おじさん」
「あなたそれわざとでしょう!?」
黒の剣士を名乗る何者かは、自分のペースを取り戻すために咳払いする。しかし、相手が悪い。馬村はKYを極めし男、キングオブKY16年連続優勝の絶対王者である。おじさんが語ろうとした過去の話などどうでもいいと、馬村は黒から背を向けた。
「ねね、そこで震えてる、うん、君。新藤さん知らない?」
修馬は少女を指差した。
「新藤はっ斬られてっ猫にっ!あの少女がっ」
修馬は動揺している。黒の男も、「それであの頃僕と乙女は愛し合っていて……ねぇ、聞いてます?」と動揺している。
馬村はよくわからないな、と思った。けれどわからないなりに把握したことはある。
①おじさんは黒の剣士(笑)を名乗っていること
②あの女の子は新藤らしいこと
③おじさんは、ロリコンであること
「オーケー把握した。つまり僕の仕事はロリコンおじさんをぶっ飛ばすことってわけね」
馬村は1人でに首肯し、おじさんに向き合った。おじさんは失笑する。だって彼は素手で、おじさんは武器を持っているのだから。しかしそんなことなど気にもせず、馬村は1度だけかかとを鳴らして飛翔する。真っ黒の学ランが宙を舞った。
「それでは勉強の時間です」
馬村鹿之助は静かに戦闘を開始した。




