さあ、
『少女は校庭の隅で泣いていた。
部活動に励む少年少女が溢れる校庭では、彼女の存在は異質だった。
およそ学校という学校がそうであるように、バスで行くほどではないが歩くのには辛いような絶妙な高さに位置するこの学校の運動場には、周りを囲むように植えられている松の木の他に障害物はなく、日の光が生徒たちを容赦なく監視している。
太陽の監視から外れた場所に少女は身を隠していたが、それゆえに少女の心のようにそこは暗かった。彼女の瞳も頭上の空も同じくらい赤かったが、空はどこまでも大きいのに彼女の背中はとても小さい。彼女はユニフォームで涙を拭った。排球部の文字が醜く歪んだ。先日までの雨で陽が差さないここはじゅくじゅくと湿っていたから、少女のお尻が冷たく濡れた。
(気持ち悪い)
全部が全部、気持ち悪かった。濡れたお尻も、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔も、汗ばんだ肌も、気持ちが悪い。逃げる場所なんてないのに、この場所から逃げ出したいとさえ少女は思った。
その時だった。
「大丈夫ですか?」
急に優しく甘い男の声がした。なぜだか体が震える。こんなに優しい声なのに、どうして恐ろしいと思うのだろう、と少女は思った。いっそ愛おしささえ感じるような声なのに。
恐る恐る顔を上げ、少女は自分がなぜこんなに男を恐れているのかを知る。
少女がいる場所とは少し離れた、さんさんと陽が差す場所に立っているというのに、その男には影がなかったのだ。
(逃げ、ないと)
でも、どこへ?
気づけば部活動中の学生の声も遠のいている。辺りに響くのは、付近で勉強している少年が呟く英単語だけだった。
「anxious about 心配する anxious for 切望する……」
場にそぐわない学生の声に男は眉を潜めたが、それも一瞬。彼は唇の片端を上げる。
「ふふふ、大丈夫じゃないですよね。すぐに解放してあげますよ……」
どこからだしたのかもわからない大剣を手に、男は少女に近づく。その剣は、少女の背丈ほどもあった。
一歩。
男は確かに進んだのに全く足音がしない。
二歩。
生物の本能が少女に警報を鳴らしていた。
三歩。
逃げなければ確実に切られる。そうわかっているのに、少女は体がすくんで動けない。
四、歩。
「ふふ」
彼は確かに笑ってた。幸せそうに、嬉しそうに、懐かしい人を見るように。
(誰…………?)
少女はその目を知っていると思った。なぜそう思ったのかわからない。だけど確かに知っていた。
どくん、と心臓が跳ねる。
ざあざあと彼女の心に降る雨は、しかし潤いを運ぶことはない。少女の視界が揺れる。こぼれた涙を地面が吸った。
「……っ」
絶望する少女の前で男は剣を振り上げる。男の黒髪が揺れ――――黒い目が――黒いピアスが――赤い唇が―――――――
斬られる!
「え」
少女は死んだと思った。
流れ出る血を確認しようと、少女は自分の体を見る。気づけば動けるようになっていた。
傷口から流れ出るのは血ではなかった。夜の底のような黒いもやだった。
「ぁ……いや、だ」
自分が得体のしれない何かに変わるような感覚。その靄は巨大な白い猫の形に変化する。
「白い、猫……」
それは、状況によっては神の啓示と思わんばかりに美しく、何かが浄化されているかのように神聖だったが、この時の少女にとっては、ただの恐怖であった。
「……まだか」
男は舌打ちして虚空へ消えた。はじめから存在しなかったと思うほどに痕跡一つ残さなかった。
少女は目を見張り、そして自分から発生した猫から距離を取ろうと慎重に立ち上がった。
立ち眩み。ぐわん、と頭が揺れる。落ちて堕ちて墜ちる。重力が消えたような浮遊感。何をしたのと男を問い詰めたいのに、男はすでにいない。
「私、にげ、ないと…………」
少女は動こうとするものの、足がもつれて上手く進めない。美しく、大きな猫。朝日に照らされる紅葉のように艶やかな毛並みを冷たい風が優しく撫でた。
人ならざるものの存在に震えが止まらない。これは感動か、それとも畏怖か。彼女がもたもたしているうちに、猫はビー玉のような目を赤く光らせ、その大きな口を開けた。
「うあ、うぁああああああああああああ」
少女は壁際に追い詰められる。
(食べられる、どうして、夢? どこから?)
しかし夢ではないことを、足の痛みや血の巡る音が彼女につきつける。
(死に、たく、な……)
猫は男と同じようにゆったりと少女に近づく。逃げればいいのにと言わんばかりだったが、少女はもう動けそうにもなかった。
(だれか、助、け――――)
「be proud of は、えーーっと。喜んで?」
「誇りに思って、だよ!」
死の縁に響くあまりにも場違いな声に彼女は咄嗟に叫んだ。ああ、ここで死んだら私の最後の言葉はこれか、と彼女は現実を逃避する。
だけど。
その言葉には、確かに意味があった。少年が少女の危機に気づいたのである。あまりにも、あまりにも遅すぎる気づきであったが、ギリギリ、ホントにギリギリ、手遅れではなかった。
「……あれ。どうして、アクイが?」
落ちかけていた黒縁の眼鏡を付け直して、少年はゆらりと立ち上がる。
「ははーん」
少年は口の端だけで笑って言った。
「すごいな、学年1位の新藤さんじゃないか」
「いやそこじゃないでしょ!」
新藤と呼ばれた少女は、こいつマジもんの馬鹿かとまたもや叫んでしまった。どう考えても考えるべき対象はこの猫でありこの状況だろう。
「いーや、そこだよ。大事なことだ」
単語帳越しに彼は言った。少女は正直、少年ののんきさに怒りを覚えたが、少年の次の動作にそんな考えは吹っ飛んだ。
痩せているというよりかは、薄いという方が正しいような体のどこにそんな力があるのかは分からない。少年は、猫を一瞥し、担ぐようにして彼女を抱き抱えて、彼女を避難させようと猫から距離をとる。
少し伸びて目にかかりそうだった髪が揺れる。少女は敵を見据える少年の目を、そこで初めて直視した。
「あ、ありがと……」
線香の煙のように頼りない声が少年の耳に届いたのかは定かではない。少女を降ろすや否や少年は駆け出したからだ。きゅっと、少女はユニフォームの番号を握り、少年が助走をつけて飛び上がるのをじっと見つめた。バシュッ、という音を立てて、左手に英単語帳を持ったまま、少年は空を舞った。そうして少女が声を出す間もなく、彼を握りつぶそうと伸ばされた猫の腕を駆け上がる。
猫の頭に降り立ち、少年は風を一身に受けた。眼前に広がる景色に理解が追い付かない。どうするつもりなんだろう。だってなにができる?彼は今、単語帳しか持っていないのに。
少女は乾いた唇を噛んだ。恐怖からくる震えで、立っているのがやっとだった。
「に、逃げて!」
しかし、少女のそれは杞憂に過ぎなかった。黒淵のメガネをクイっと上げて、彼は単語帳を高々と掲げた。
「あ」
そうして、彼は行動を起こす。
「サインコサインタンジェントォォォオオオオオ!」
手にしていた単語帳で猫の頭を打ったのだ。
ドコォオオオオン、と巨体が揺れて倒れる。少女はその衝撃で発生した砂塵に手で目を守った。戦況を確認したくともできないもどかしさ。
少女の理解を遥かに超えた状況に、もはや夢かと少女は混乱する。
「っなんで……三角関数…?」
砂が地面に落ち、視界が開けて目を開けると、少年が猫に一礼していたところだった。試合を終えた後の礼にも、尊いものへの尊敬の表れにも見えるそれに、なんだか息をするのも申し訳なく感じて、少女は息を殺していた。
張り詰めているのに、どこか居心地が良いこの感覚を、少女は知っていた。そのまま少年は手を合わせた。
少女は、綺麗だと思った。自分の理解を超えた状況に対して、人間が思うことなんて単純だ。それは倒すというよりも、弔うという言葉が似合うような、そんな動作。
黒い粒が消えていった空をひとしきり見上げた彼は、彼女に向き直った。青空を背負い、単語帳を片手に、少年は宣言する。
「僕はね、大学に合格したい」
彼は手に持っていた単語帳から、300人中273位と書かれた成績表を抜いて彼女に見せつけ、神妙な表情を作る。
「だからさ。僕に、勉強教えてくれない?」
今から始まるのは、人の負の感情から生まれるアクイを祓う少年の物語などではないし、彼と彼女の恋の話などでもない。
少年の
少年による
少年のための物語。
これは誰がなんと言おうと。
彼の、大学受験の物語だ。