理想郷
いつ産まれ直したのか分からない。
目を開けると、自分は穏やかな、初めて見る場所に居た。
ゆらゆらと大気が揺れている。ひょっとして水中なのかもしれないが、空から光が差し込んで来ていて辺りを優しく照らしている。
全ての色彩が薄く柔らかく、その中で自分もこの世界を構成する一つの生き物だと認識する。
死ぬ間際の願いを聞き届けてくれる神は、とても慈悲深く義理堅いようだ。
感謝し、身体を震わせる。
無数の手足から泡が生まれて天に昇る。
自ら生んだ光景さえ、幸せに幻想的。
自分は理想郷に産まれ直すことができたのだと、安堵した。
世界全てが穏やかだった。
自分はゆっくりと移動することができる。
世界はゆるやかに動いていた。
***
人として生きていた。少なくとも2度は生きた。
その記憶の影響のように思えるが、変わらず生きる事について、いつしか自分は焦りのような感覚を持つ様になった。永遠に続くとも思われる時間を、無意味で無駄であるように感じさえした。
全てはとりとめもない一つ一つ。
自分の存在もチリと同じ様なもの。
こんな世界に生まれることができたのに、存在意義など考えだす。
まずは今いる世界を知るべきだ。自分の意味が掴めるかもしれない。
随分と移動した結果、自分は驚きの生命に遭遇した。
それは真っ黒い枝のようだった。
元々いた場所よりも暗い静かな場所に生えている。銀色の魚にも見える生き物が空を横切る。
あれは、あれだ。
自分を悩ませた、あの、セドリックであり、ジャックであったもの。
向こうも前の事を覚えているのだろうか。
見つけてからたどり着くのにもかなりの時間を要した。
酷くじっくりとしか動けないからだ。
やっとたどり着いた。
むこうは何の反応も無い。
黒い枝のような身体によじ登った。向こうの方が大きい。
そして困った。生命としても全く違う構造をしている。
どのように意思の疎通をはかれば良いのか。
セドリック、セドリック、ジャック、ジャック。
自分の事が分かるか、自分は、キヌスであってターニャだったものだ。
そちらは、こちらを覚えているか。
反応がない。
黒い枝のような身体をよじ登って調べる。
どうやら全く動く事のない生命のようだ。
***
見つけて以来、自分はその場から動けなくなった。
この広い世界で、唯一、自分について知っている可能性があり、以前からのつながりを持つもの。
この存在を失うことは、また自分が不特定多数のチリと同じに戻る事だと思えたのだ。
意思の疎通など図れない。以前を覚えているのかも分からない。
ただ、特別なのだと固執した。
広く緩やかで穏やかな世界で、ただ一つの特別。
おかしなことだ。
これはきっと罰なのだ。
固執された時には振り返らず決して手を取らなかった自分への、天が与えた長い罰だ。
***
***
***
穏やかな世界に生まれていた。
人間でもなくなったと理解した。それで良い。きっと前の人生が、僕に与えられる最大の幸福だったのだろうと僕は思った。
焦がれた人の娘と暮らし、家族として死んだ。
できればキヌス、ターニャの傍で生きたかったけれど、願いは常に叶えられるものではない。当たり前だ。
平穏に暮らすべきだ。
忘れるべきだ。忘れざるを得ない。
このような世界に、キヌス、ターニャが産まれ直しているはずがない。
あぁ、ダフィネ、妻となったトリーリアはどうしているのか。
彼女の事だ、きっとまた全て忘れているのだろう。
それで別に構わない。
***
ゆっくりとした時間の中で、動くそれは、青い色をした、突起のたくさんついた軟体生物のようだった。
気づいたのは、僕の今の身体をよじ登ってきてからだ。
この身体は頑丈な分、世の中の微細な変化に鈍感だから。
僕に向けて、一生懸命細やかな腕を伸ばして泡を放つ。
あぁ、キヌス、ターニャじゃないか。
どうして僕のところに?
そっちから来てくれるなんて、夢のようだな。
それでも、また離れていくのだろうか。今回は見送るしかない。僕はここから全く動けない。
どうした、分かっている、きみがキヌスでありターニャだと分かっている。
そんなに一生懸命に泡を浮かべなくて大丈夫だ。
どうした? どこにも行かなくて良いのか?
ここにいてくれるなら、夢のようだけど。
どうして、どこにも行かないんだ?
一生、ここにいるつもり?
僕だけが唯一なのか?
本当に?
嬉しいね。僕もそう思っている。
おかしいね。人間でなくなってから、一緒に過ごすようになるなんて。
一人だと怯えなくて良い。
僕もここに生きている。動けないけどここにいる。きみが特別だと分かっている。
叶うなら、次こそは、きちんと意思疎通できる身体に生まれたい。
きちんと伝えたい。覚えている。きみは僕にとっても唯一で特別だと。
今のきみは、僕の言葉を全く受け取れていない様子だから。
あぁ、望み過ぎかな。
でも、どうか。




